日本支部通信 第8号(1997.12)

巻頭言

コリアへの関心とコリア学の発展
滝沢 秀樹

 この通信が印刷されて会員の手元に届く頃には、韓国の次期大統領が決定しているであろう。金大中氏が26年ぶりの〈悲願〉を達成しているか、前京畿道知事の李仁済氏が劇的な逆転勝ちを収めているか。与党・新韓国党での大統領候補公選で選出された李曾昌候補の大苦戦が伝えられる状況に変化がないかぎり「選挙による政権交代」という、韓国政治史において画期的事態が訪れることは、間違いない。
共和国では金正日氏の労働党総書記推戴があり、国家主席就任の時期についての観測がいろいろと行われている。南北とも、新しい体制がスタートすることで、対話の促進が期待される。
コリアを研究対象とする者にとって、大統領や主席の地位に関心を持つことは極めて自然であろう。私自身、最近は毎日のように情勢が変動する韓国大統領選挙の動向について報道する韓国の新聞記事を読むのに、多くの時間を取られている。
その一方で、朝鮮半島に関する日本社会の関心の持ち方、特にマスコミの報道のあり方に、時々疑問を感じるのも事実である。
多分に歪曲された偏った情報に基づいていると見られる、共和国に関する悪意に満ちた出版物の氾濫は今に始まったことではないが、テレビや一般の新聞の南北朝鮮に関する報道も過度に政治の分野のみを注目しているように思えることがあるのである。政治でなければ、「対日感情」についてである。
日本と朝鮮半島の現実からして、ある程度まではこれも自然のことであろう。サッカーのワールドカップ予選の韓国対日本の試合にほとんど全国民が熱狂した韓国では、日本も同様の国民的興奮状態にあるかのような報道がされ、その数日後に訪韓した私は、「さぞくやしかったでしょうね」と善意の慰めを受けて当惑した。韓国の日本報道も、公平で客観的とは言い難いのである。この程度のことなら、「自然のこと」の範囲に属するだろう。問題は、「歴史としての現代」を把握することを可能にする情報に関わる。
私たちは、ほんの数年前にソ連と東欧の社会主義圏の「崩壊」という、歴史的現実を眼前にした。そしてその時、マスコミはもちろん、「ソ連問題専門家」もまた、事実が発生する以前にその事態を予見できなかったことも、眼にした。例えばルーマニア事態に際して解説する専門家の登場を見て、日本の社会科学の幅の広さに驚いたのも事実であったが、事態発生以前にそれを予知させる社会内部の動きが必ずあったであろうにかかわらず、その動きを把握していたであろう専門家の意見にマスコミを通して接する機会はなかったように思うのである。
これには多分、日本のマスコミの歴史感覚の稀薄さということが、関係しているのではなかろうか。
「歴史認識」について、例えば歴史教科書の記述や閣僚の靖国神社公式参拝、日本社会の指導級人物の「妄言」について、マスコミは比較的熱心に取り上げる。しかしその場合の基本的論調は、「これではアジアの隣国の理解が得られない」とか「せっかく順調に進んでいる日中関係に阻害要因になる」という、やはり〈政治〉の次元での影響を憂うるというところにあり、歴史的事実の確認による歴史認識の共有という視点は、稀薄であると言わざるを得ない。このマスコミの姿勢は、「トカゲの尻尾切り」でそのたびに問題をうやむやにする日本政府の対応に呼応しているように見えることさえある。
国際高麗学会の会長を3年間勤めてみて、私たちの学会には南北朝鮮に限らず、中国朝鮮族、在日コリアン、在米韓国人の歴史と生活と文化について研究を積んだ優れた人材が少なくないことを知ることができた。その蓄積が、例えば日本社会のコリア認識に反映されていないことが、いかにも残念である。私たちの存在が特別注目されないのでいるのは、「積極的中立主義」が正当に理解されないで、共和国支持の一部の人々から「南に偏っている」と見られたり、韓国サイドからは「新北団体」と誤解されることがあるという事情にも理由の一部はあるかも知れない。コリア研究に長い実績を持つ学術団体からは、「正体不明の新参者」と見られがちであったのも、事実であろう。しかし今や、専門分野によっては、自信を持って私たちの国際高麗学会の全体としての学術水準を誇ることができる水準にあると言えると思う。
コリア研究の前提は、コリアに対する関心であり、敢えて言えばコリアに対する一種の熱情というか、パトスであろう。パトスだけでは研究にならないが、パトスを欠いた社会科学というものを私は信じられない。社会科学と言わず、社会認識自体について、そう思う。(ここで「社会科学的認識の客観性」について論じるつもりはないが、「客観性」は実は「主体性に裏付けられてこそ成り立つ」ということだけ述べておこう)。
国際高麗学会はコリアを研究対象とする学会である。会員各自のコリアに対する燃えるような情熱があって、この学会は成り立っている。日本の他のある種の学会や日本のマスコミのコリア報道と異なるレベルは、この点に支えられている。もちろん、会員の思想や国籍、その他の社会的条件に関わりなくである。
このたび、日本支部代表に選ばれることになった。私個人としては「日本支部に帰ってきた」というのが、実感である。前代表の張年錫先生に引き続きご指導いただきながら、地道な研究会活動に微力を尽くしたい。会員諸賢のご協力を切にお願いしたいと思う。

(大阪商業大学教授)


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「第5回朝鮮学国際学術討論会」
The 5th International Conference on Korean Studies

 1997年8月8日(金)~10日(日)、大阪国際交流センターにて「第5回朝鮮学国際学術討論会」が開催された。5回目を迎えた本討論会は、北京大学朝鮮文化研究所と大阪経済法科大学アジア研究所に加えて、新たに国際高麗学会が加わった3者共催によって開催された。世界11カ国から集った約500名の朝鮮学研究者によって5つのシンポジウムと11の分科会で活発な討論が行われた。

 ◎主催団体
大阪経済法科大学アジア研究所 北京大学朝鮮文化研究所 国際高麗学会
◎後 援 外務省、大阪府、大阪市
◎日程・場所
日 程:1997年 8月8日(金)~10日(日)
場 所:大阪国際交流センター
◎プログラム
8月8日(金)
10:00 開会式
10:45 文化公演
【チャンゴとコムンゴのためのシナウィ】
チャンゴ:李秉元(韓国精神文化研究院教授)
コムンゴ:金善玉(韓国放送公社、KBS)
カヤグム:李知玲(龍仁大学校芸術大学専任講師)
【民謡連曲】
カヤグム:朴順雅(朝鮮大学校カヤグム講師)
チャンゴ:安慶順(金順子韓国伝統芸術研究院研究生)
13:00 分科会報告
8月9日(土)
10:00 シンポジウム
8月10日(日)
9:30 分科会報告
15:10 閉会式
18:00 閉幕晩餐会

 

「国際高麗学会第3回総会」

 1997年8月10日(日)、「第5回朝鮮学国際学術討論会」が閉会した後、国際高麗学会「第3回総会」が開催された。冒頭、滝沢会長が2年間の活動報告を行った。その後、会則の改定案と新役員案が提案・承認され、第3期運営委員会が出帆することとなった。最後に、新たに選出された姜希雄新会長からの挨拶をもって閉会した。

<新会則>
第1条 総則
本学会は、コリア(Korea)に関連した研究を行う学者によって結成された学術団体として、その名称を国際高麗学会(International^Society^for^Korean^Studies<ISKS>)とする。
本学会の趣旨は、コリア(Korea)学の活発な研究とこれを通じた学者間の交流にある。
第2条 事業
1.コリア学国際学術会議開催と学術団体及び学者相互間の交流
2.コリア学に関する重要課題の共同研究
3.コリア学関係資料の発掘、整理及び交換
4.学会誌をはじめとした学術図書及び資料の刊行
5.研究者養成と研究費の補助
6.その他コリア学の研究と研究者の交流に有益であると認められる事業
第3条 組織
1.1)会長1名と副会長若干名を置き、その下に部会を置く。
2)会長、副会長、部会別委員長は、総会または会員の書面投票を通じて選出され、任期は2年とする。
3)本学会の顧問を置くことができる。
2.1)会長、副会長、部会別委員長、各地域本部の代表、本部事務局の総長、次長で運営委員会を構成する。
2)運営委員会は本学会の運営と事業計画を策定し、これに対する批准を次期総会で受ける。
3)会長、副会長、本部事務総長で常務委員会を構成し、常務委員会が日常事務を処理する。
3.本部事務局は日本・大阪に置くこととする。
4.会員が多い国と地域では地域本部(分会、支部)を置くことができる。
第4条 会員
1.コリアに関連した研究を行い、本学会の目的に賛同する学者は、すべて会員になることができる。
2.会員なろうとする者は本部事務局または各地域本部事務局に申請書を提出し、常務委員会の承認を受けなければならない。
3.会員は会費を納付しなければならず、会費は運営委員会で定める。
第5条 財政
本学会は会費、寄付金、その他学会収入で運営する。
(付 則)
1.常務委員会、部会、地域本部、事務局の細則は各部署別に作成し、運営委員会の承認を受けなければならない。
2.会則改定は、総会を開催するとき会員の提案に対し参加した会員3分の2以上の同意を受
け、行うことができる。
3.この会則は1992年8月22日第2回総会で改訂、確定され、確定された日時から実施する。
4.この会則は1997年8月10日第3回総会で改訂、確定され、確定された日時から実施する。

<新役員>
<会長団>
会 長 : 姜 希 雄(Hawaii州立大学教授)
副 会 長 : Helga PICHT(前Humboldt大学教授)
張 年 錫(大阪電気通信大学教授)
李 先 漢(北京大学副教授)
尹 汝 民(Seton Hall大学教授)
酵 但 逸(朝鮮社会科学者協会教授)
鄭 光(高麗大学教授)
<本部事務局>
事務総長 : 宋 南 先(大阪経済法科大学教授)
事務次長 : 金 成 秀(大阪経済法科大学助教授)
金 景 一(北京大学副教授)
舌 走 星(Seton Hall 大学アジア研究所副所長)
Rudiger Frank(Humbolt大学講師)
酵 慎 旦(主体科学院研究員)
崔 鎬 哲(高麗大学校教授)
Alexander Vorontsov
(Institute of Oriental Studies Russian Academy of Sciences)
<顧問団>
常任顧問 : 崔 応 九(北京大学教授)
呉 清 達(大阪経済法科大学副学長)
顧 問 : 鄭 判 龍(延辺大学教授)
Mikhail N.Park(Moscow大学教授)
玄 鳳 学(Thomas Jefferson医科大学教授)
Hao Bin(北京大学副総長)
安 炳 浩(北京大学教授)
<部会委員長>
言 語 : 金 鎮 宇(Illinois大学教授)
文 学 : 金 炳 眠(中央民族大学教授)
歴 史 : Edward J. Shultz(Hawaii州立大学教授)
経 済 : 高 秉 雲(大阪経済法科大学教授)
政 治 : 文 正 仁(延世大学校教授)
社 会 : 文 京 洙(立命館大学教授)
哲学・宗教: 金 哲 央(前 朝鮮大学校教授)
教育・体育: 孫 啓 林(東北師範大学教授)
文化・芸術: 李 愛 順(延辺大学芸術学院副教授)
医 療 : 金 英 一(大阪経済法科大学教授)
科学・技術: 高 泰 保(大阪経済法科大学教授)

 

国際学術討論会に参加して
高 龍秀

 

 今年8月8日から10日にかけて、世界各地からコリア学を研究する学者が参加して第5回朝鮮学国際学術討論会が開催された。この学術討論会に参加した一人として、期間中のシンポジウムの一部について報告したい。
学術討論会2日目、5つのシンポジウムが並行して開催されたが、筆者は第2シンポジウム「近現代のコリア」に参加した。ここでは、経済・政治・歴史・文学に関して4名の報告者が報告した。
経済に関して法政大学の金元重氏が「1970年代韓国の開発独裁と重化学工業政策」というテーマで報告された。金氏は、「開発独裁」の基本概念を整理した上で、72年に成立した維新体制を「開発独裁」の確立と捉えその歴史的成立過程を分析し、さらにこの時期に進展した重化学工業建設政策を「開発独裁」と統合して捉えることで、「蓄積機構としての開発独裁」という観点を提示した。そして、この重化学工業政策が大統領に直属する重化学工業企画団により推進され、この企画団は「工学的接近」という独特な手法により政策を立案したこと、さらに当時の朝鮮半島をめぐる軍事情勢の変化も影響して、重化学工業政策は当初から防衛産業育成という観点と密接に連関して進展されたことなどが指摘された〈金元重氏の報告は『東アジア工業化のダイナミズム』(法政大学出版会、1997年)に収録されている論文を発展させたものと思われるので参照されたい〉。
報告の後の討論では、60年代の朴政権と維新体制の連続性をどうみるのかという問題や、「開発独裁」を総体的にどう評価するのかという問題が提起された。
次に歴史に関して、高麗大学の姜萬吉氏が「日帝時代民族解放運動の統一戦線運動」というテーマで報告された。この報告では、日帝時代の民族解放運動でブルジョア階級が独自な指導力をもてないという状況で、左翼勢力と非妥協的右翼勢力の間で民族統一戦線運動が推進されたこと、その歴史的背景をもとに解放後の米ソによる分割占領という事態に対処すべく、統一された民族国家樹立へ向けた統一戦線が形成されたことが指摘された。そしてこのような歴史的遺産が、分断時代の平和統一運動・対等統一運動に歴史的に連結されていると指摘された。
この報告に対しても様々な質問がなされたが、歴史を学ぶことは現在と未来への指針を探求することに意味があるのではないかという姜氏の指摘や、統一コストについての懸念や「吸収統一でなく平和・対等統一」という主張は非現実的ではという質問に対し、姜氏が91年に南北政府が合意した「南北和解・不可侵・交流・協力に関する合意書」は平和・対等統一を南北政府が確認した点で画期的なものであり、今後の統一運動はこの地平から進展すべきであると指摘したことが非常に印象的であった。
南北朝鮮をめぐる国際環境の中で、姜萬吉氏が指摘した「平和・対等統一」を実現する諸条件に関しては、より深い研究が必要であり、さらに討論を深めることができればと感じたが、近現代の歴史的遺産の中からその必要性を説いたスケールの大きい姜萬吉氏の主張は、極めて示唆に富んだものであったと思われる。

(甲南大学経済学部助教授)

 

「環境」分科会に参加して
宋 亀 

 

 私が所属している部会は科学技術部会であるが、今回の学術討論会では残念ながら自分が専門とする分野(ちなみに専門は数学:関数解析学)の分科会はなく、代わりに世界中が今最も大きな話題として取り上げている「環境問題」と「医療」に関する分科会が開かれた。
専門分野が違い、勉強不足であるので独断を言うと、朝鮮半島の「環境問題」をテーマにこのような国際学術討論会を開催するのは初めてではないかと思う。今大会でもそうであるが、朝鮮学というとどうしても政治・経済、歴史・文化を中心とする社会科学系の研究内容が多いというイメージであるが、タイムリーな話題として環境問題をテーマにし、自然科学分野での現実問題を討議できたことは朝鮮学をより広範囲に捉え深めただけでなく、この大会を一歩前進させた有意義なものであった。
日本支部科学技術部会の委員長である高泰保先生と「環境」分科会の準備をしてきた関係上、この分科会の運営がスムーズに行ったことにほっとしたのであるが、それよりもまして発表者の情熱的な報告と聴衆を交えた熱い議論、参加者全員の和気藹々の独特な雰囲気は、かつて研究会などで経験したことがない感動的なものであった。
分科会に参加した感想を述べる前に、今回自分が携わったこと、全体を通じて感じたことを少し述べたい。
実は会議期間中私は、大会事務局のスタッフとして1日目(8月8日)は「環境」分科会の補助、2日目(8月9日)はシンポジウムの準備と会場案内、3日目(8月10日)午前中は「教育」分科会、午後は「言語2」分科会の補助と、役割がバラエティにとみ、完全に裏方にまわった感じであった。これまでと違った形で今回の学術討論会に参加したので、各分科会の運営・準備に追われ落ち着いて聞けなかったという不幸(?)はあったが、反面いろいろな分野の話が仕事の傍らで聞けたことおよび雰囲気を味わえることができたことは自分自身にとってよかったと思うのである。
というのは、どの分科会も「環境」分科会と同様に雰囲気が良く、討論内容も真剣で大変勉強になったということである。今更言うまでもないが、この朝鮮学国際学術討論会を開催することは本当に意義のあることだとあらためて感じた次第である。
民族的な観点から言わせていただけるならば、世界中に散らばっている朝鮮民族の学者が一堂に集まり、あらゆる分野において祖国のために、民族のために話し合える機会はこの国際学術討論会の他になく、国際高麗学会によってこのような場が提供されるから世界中から学者たちが集まることができるのであることをしみじみと感じた。今後ともぜひ継続して大会が開催され、より一層発展することを心から願うものである。
前置きが長くなったのでそろそろ本論に入ることにする。
「環境」分科会の参加者は約30名ほどで10件の発表があった。
私は地球規模の砂漠化、温暖化をはじめとする環境問題に関する新聞記事を読んだり、テレビでのトピックスを見たり聞いたりするたびに、これからの地球、われわれ人類は大変だな、環境問題を自分の問題として捉えどうにかしなければならないと考えてきた。
けれど、信興専門大学・金秋潤先生の「韓国都市河川の環境保全的開発」、韓南大学校・甲允杓先生の「市民共同体の環境運動発展戦略」などの発表を聞き、韓国での環境保全の現状と問題、市民大学の運動が徐々に広まりつつあることを実感し、何よりも自国の実情についてわかり、関心が持てたことが大きな成果であった。
発表に対する質問の場で、ある先生が認識と立場の違いから対立意見を述べ議論したことは、日本の学会ではあまり考えられないことで少し当惑したが、問題を正確に、真剣に捉えようとする姿勢には非常に好感が持て、議論好きなわれわれの民族性が出ているなと強く感じた次第である。
特に、民族統一研究院・孫基雄先生の「他者的・両者的次元での南北韓環境分野交流・協力法案」、忠南大学校・尹基官先生の「南北韓合同特別環境委員会の構成と実践のためのいくつかの提案」の発表で、今回は実現しなかったが「環境宣言」をしようという意見には実に深い感動を覚えた。
最後に、東亜大学校のHAN、Kun-Mo先生が報告を終えた後、このような機会をたくさん設け、協力しあって良い研究会にしていこうという提案は参加者全員の拍手と賛同を得たすばらしいものであった。
私はそのとき撮った写真を心地よい気持ちで眺めながらも、思いついたことを書き記した。興味ある発表が多数あったが、紙数の関係上すべて取り上げられなかったことを容赦してほしい。 

(大阪情報コンピュータ専門学校教授)


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〔西日本地域研究会報告要旨〕
第27回 1997年3月8日(土) 15:30~17:00 OICセンタービル4F会議室


最近読んだ韓国のベストセラー
滝沢 秀樹 


韓国の現代文学に関心を持つ者として、体系的にではないが、最近の韓国文学に見られる特徴のいくつかを指摘してみたい。
(1)90年代半ばの文学(大衆文学を含む)にあらわれた新傾向
①100万部を超える大ベストセラーとなった
キム・ジョンヒョンの『アボジ(父)』
1996年8月20日に初版が出て、1996年12月30日には57刷が出ている。その後数ヶ月間ベストセラーのトップを維持し、韓国社会に「アボジ・シンドローム」を生んだ。膵臓癌で余命いくばくもないと知ったある父親(文化財保護の仕事に携わる高級公務員)の、友人たちとの友情、家族愛、初めて経験する不倫などを描く。核家族単位の肉親への愛情、癌告知、安楽死、死を前にした恋愛などがテーマであるが、社会意識の希薄な現代韓国の都市中産層の生活意識を表現したものと理解できる。

②チョン・ジョンヒ『オレンジ』の描く虚無的若者像
幼年時に何らかの事情でアメリカに移民し、成長した韓国の若者たちの目的意識のない虚無的生活像を、ニューヨークとソウルの梨泰院(米軍将兵の歓楽街)を舞台に描く。麻薬やセックスに溺れる彼らの、大都市の中の孤独や、疑似近親愛などが語られるが、『限りなく透明に近いブルー』や『ベッドタイムアイズ』を連想させる内容である。
済州島を訪れた若者二人が島のオレンジをかじる最後の場面に、ある〈救い〉が暗示されているようにも見えるが、全体の頽廃的色調は覆いようもない。同じ作家が続けて発表した『トマト』も、基本的によく似た作品である。若い女流作家の作品であることがベストセラーの一角を占める要因として働いたものと思われるが、ここにはやはり今日の韓国社会の一断面が表現されていると見ることができる。

③シン・ギョンスク『ずっと前に家を出た時』の「留守の家」イメージ表現された大衆社会における人間存在の不安定性
特別な物語性を持つわけではない、「留守の家」に関連する短編の連作集であるこの作品に人気が寄せられた理由については、かなり深刻な考察が要求されると思われる。都市生活者の生活基盤の不安定性を、女流作家シン・ギョンスクは、都市の虚無性と農漁村の停滞性を対照させながら描いている。同時に「留守の家」に人が帰ることの確認を通じて、現代社会と人間の〈和解〉の可能性を語ろうとしているように見える。

④李箱文学賞受賞作から窺える新しい傾向
韓国の文学賞もいまや極めて多種多彩であり、それぞれの傾向を把握するのは容易ではないが、受賞作が多くの読者を得るという点では、李箱文学賞が代表的である。
近年の李箱文学賞の大賞は、韓国社会の現実から遊離した内容のものが続いていたが、1996年の大賞受賞作のユン・ネニョン『天地間』は、シャーマニズムを通して人間存在の根本を問う作品という点で、韓国の民衆文学の系列の上で評価され得る作品ではないかと考えられる。このようなテーマの作品が広く大衆的読者に支持されているところに、日本社会とはおよそ異質な韓国現代社会の精神世界の一断面を窺うことができる。
(2)ロングセラーで安定的な地位を示す既成作家
新人作家が次々登場する一方で、安定して読者を確保している既成作家も健在である。ここでは、世代も傾向も異なるが、ロングセラー作家の作品として、崔仁勲『広場』、朴婉緒『未亡』、李文烈『レーテの恋人』を紹介しておきたい。
(3)民衆文学から形而上文学(?)への転身の例
90年代後半になって韓国の民衆運動が全般的に退潮期を迎えるとともに、かつて民衆文学の書き手と思われていた作家の中に、方向転換を示す例が少なくなくなった。ここでは、基層民衆の生活像を生き生きと描いた『遠美洞の人々』から、格別の思想的葛藤を経ないで大衆小説界の「前世」ブームの先鞭をつけた『千年の愛』へと〝変身〟した梁貴子の場合と、思想的・精神的葛藤を率直に吐露しながら80年代の『再び月門里で』から90年代半ばの『インドに行ったイエス』へと〝転身〟した宋基元の場合について紹介しておきたい。特に後者の場合、新たな精神世界と社会意識の構築を、東アジアの伝統的宗教意識を媒介に模索していることに注目される。
(4)健闘するルポ文学
小説の形式以外に、現場の体験をリアルに綴ったルポ形式の作品が数多く発表されてきたのも、80年代以降の特徴であった。近年では、一世を風靡した現場労働者の闘争手記にかわって、海外生活の体験記や北朝鮮訪問記などが次々と出されている。KBSの日本特派員(女性)であった田麗玉の大ベストセラー『日本は無い(正続)』のユニークな日本社会論は、日本についてそれなりの知識を持つ(という自信を持っている)韓国人の多数からは批判が集中して、2種類の『日本は有る』が登場していたが、今度は中国朝鮮族のソウル滞在記・金宰国『韓国は無い』があらわれて、話題になった。「同じ民族の国」に大いなる期待を持って留学した若い朝鮮族の知識人が、韓国社会で様々な差別と圧迫を受けている朝鮮族の姿に衝撃を受けて、その閉鎖性を批判した内容である。ヤミクモの批判ではなく、韓国で親切にしてくれた人々への心からの謝辞も同時に述べられているので、爽やかな読後感を得ることのできる好著であった。国際化時代を迎え、韓国社会もまた新しい脱皮が迫られているということであろう。
日本語にも翻訳して出版された洪世和の『私はパリのタクシー運転手』は、ユーモアに満ちた筆致で、今日の韓国社会、特に海外旅行に出かけるような余裕のある階層の韓国人の生態を描いている。政治的理由で帰国できなくなり、フランス政府の発行する「亡命ビザ」でパリに暮らす著者は、パリという地点から韓国を注視続けることで、内容的にはかなり辛口の社会批判になっている。このような書物が広く読まれる韓国社会には、大衆社会に埋没しないで健康な市民社会を構築して行くことのできるエネルギーが、枯渇しないで蓄積され続けていると見るべきかも知れない。

附記:研究会当日の発表とかなり内容が重なる論文「韓国現代文学の現住所」を、大阪経済法科大学アジア研究所『東アジア研究』第18号に寄稿した。あわせて参照していただけたら、幸いである。

(大阪商業大学教授)


第28回 1997年6月7日(土) 15:00~17:00 OICセンタービル4F会議室

韓国における農産物輸入の動向と今後の展望
~UR合意前後からWTO体制出帆以後~
裴 光 雄 

 

1.はじめに
韓国の経済発展と農業・農村
韓国の農業・農村は軍事独裁政権と「財閥」資本にとって、都市・産業労働者に低賃金を維持させうる低廉な穀物と労働力を供給させる「収奪的」な対象として、第一義的には位置づけられてきた。
外資導入・輸出主導型工業化が本格化する1960年代半ば以降、韓国の農業は比較劣位産業化し、国内農産物価格は国際価格を上回るようになった。1970年代末から80年代前半に軍事独裁政権と「財閥」資本の論理によって、「開放農政」への転換が唱えられ、一部農産物輸入の解禁および拡大が展開された。1980年代半ば以降からは、URにおいて農産物買易交渉が行われると同時に、韓米貿易摩擦が激化するにしたがって、韓国政府は米国の市場開放圧力に屈して農産物市場を急速に開放していった。これらの時期に行われた農産物の市場開放は「牛波動」「とうがらし波動」を惹き起こし、農政の稚拙・無能ぶりを白日の下に露呈し、国内農業・農村・農民の困難な状況に拍車をかけたのである。
農民団体の農産物市場開放阻止行動は高揚し、それはUR合意を目前に頂点に達した。いうまでもなく、UR合意は韓国農業を熾烈な国際競争の渦中に引き込み、まさに農民たちにとって生存を根底から脅かす最大の「事件」に他ならなかったからである。
安価な外国産農産物の大量流入が市場から国内農産物を駆逐することによって、国内農業を破滅させるに至るようになれば、それは農業関連産業への波及効果をともなって、国民経済全体への影響も甚大なものとなる。したがって、韓国政府もようやく1980年代半ば以降、特に90年代に入ってUR合意に備え、農産物市場開放に対処すべく一連の農業政策を策定・実施している。
本報告の課題は、UR合意前後からWTO体制出帆後の現局面に至る、韓国における農産物輸入の動向と今後の展望について、貿易統計およびUR協定の譲許関税率表の分析に基づき、論述することにある。
2.韓国の農産物輸入の動向
①1980年代末以降の韓国農産物貿易額の推移
輸入総額は1989年615億ドルから1995年1,351億ドルへと2.2倍の増大であるのに対し、農産物輸入額は同期間37億ドルから69億ドルへと1.87倍の増大であり、全体の伸び率を下回っている。農産物輸入額の増加率が輸入総額のそれを下回っているのは、以下で分析するように農産物輸入において、HS中分類、すなわち2桁品目分類で最大の割合を占めていた穀物の輸入額が、同期間14億534万ドル(全体に占める割合38.1%)から18億5,802万ドル(同26.9%に低下)の1.3倍と、それほど増大しなかったからであり、いくつかの個別目別においては急激な増大傾向を示している。

②韓国の主要農産物輸入の推移
1995年時点で輸入額の大きい順に整理すると、HS中分類では
第10類 穀物 18億5,802万ドル
(構成比26.9%)
第2類 肉と食用生肉 7億8,995万ドル
(10.7%)
第12類 菜油用種子・果実類等
6億2,357万ドル(9.0%)
第24類 煙草及び製造した煙草代用品
3億7,648万ドル(5.4%)
第20類 野菜・果実等の調整品
2億9,134万ドル(4.2%)
第9類 コーヒー・茶等
2億6,112万ドル(3.8%)
第8類 食用の果実及び堅果類
1億4,528万ドル(2.1%)
第4類 酪農品・鳥卵・天然の蜂蜜等
1億2,555万ドル(1.8%)
第7類 食用野菜 1億993万ドル(1.6%)
となっている。
さらに細かく4桁品目でみると、とうもろこし、牛肉Bすなわち冷凍牛肉、小麦、大豆、葉巻煙草(cigarettes ets)、コーヒー、果実・野菜ジュース、豚肉等々という順をなしている。
次に、推移に着目すると、1985年から95年までの10年間でほとんどの品目が大幅な増大傾向を示しているのがわかる。中分類では第24類煙草及び製造した煙草代用品37.6倍を最大とし、以下第2類肉と食用枝肉34.7倍、第8類食用の果実及び堅果類17.1倍、第20類野菜・果実等の調整品16.0倍、第4類酪農品・鳥卵・天然の蜂蜜等13.5倍、第9類コーヒー・茶等4.4倍、第7類食用野菜3.1倍、第12類菜油用種子・果実類等2.5倍、第10類穀物2.0倍となっている。
4桁品目では葉巻煙草864.5倍、チーズ77.7倍、冷凍牛肉26.5倍、果実・野菜ジュース17.1倍、柑橘類8.6倍等々となっている。このことはまさに1980年代半ばから1990年代に入って、韓国の農産物輸入が個別品目単位でみれば、いくつかの品目では飛躍的に増大していることを示している。
推移に着目する場合、より注視すべきは、この10年間のなかでもある時期を境に、品目ごとに画期的な輸入の増加がみられることである。果実・野菜ジュース及び葉巻煙草は80年代半ば過ぎ(85~88)に、冷凍牛肉は80年代末(89~90)に、ミルク・クリームBとバター及びバナナは90年代初頭(90~93)に、そして豚肉、ミルク・クリームA、油乳、チーズ及び柑橘類は90年代半ば近く(93~95)にそれぞれの増加の画期がある。これは言うまでもなく、この時期にこれらの品目の全面的な輸入開放が展開されたことを物語っている。

3.韓国のUR協商過程の概要と農産物輸入自由化の決着
農林水産部による1989年4月の「農林水産物輸入自由化予示計画」と1994年11月の「UR協商に伴う農畜産物輸入自由化計画」をもって、韓国における農産物市場開放はほぼ全面的に完了することとなった。「農林水産物輸入自由化予示計画」後、韓国の農産物市場開放問題の争点は政府がUR協商でいかなる決着を見いだすかにかかっていた。
韓国政府は1991年12月末に提示されたドンケル協定草案にしたがって、92年4月に「農産物国別履行計画書(Country^Schedule)」をGATTに提出した。

4.WTO協定下の市場接近物量と関税率引き下げ
麦の場合、ビール麦を例に挙げれば、95年の市場接近物量を3万トンとし、それ以内は30%の関税率とし、超過分には564.3%の高関税率を賦課できる。市場接近物量は3万トン、それ以内の関税率30%は10年間変わらないが、超過分に関する関税率は2004年には513%まで漸次引き下げる。
麦、とうもろこし以外に、「国内外価格差に相当する率で譲許」、すなわち関税相当値(TE)適用を受けたのは、じゃがいも、さつまいも、豆類などである。牛肉以外に、豚肉、鶏肉、乳製品、柑橘類などもTE適用を受けられなかった。「国内市場開放とともに基本税率よりも高い税率で譲許した農林畜産物に対する譲許関税」扱いとなったのである。
牛肉は95年の市場接近物量を精肉基準12万3,000トンとし、2000年までに22万5,000トンに引き上げるが、その間6年間の関税率は当初市場接近物量以内は43.6%、超過分は44.1%とし、それぞれ41.6%、41.8%まで引き下げる。そして、2001年からは市場接近物量は廃止し、関税率を41.4%に設定、2004年には40%まで引き下げることとなった。
豚肉は「単純譲許した農林畜産物中、市場接近物量に対する譲許関税」(第2条及び第7条関連)適用扱いとされ、95年の市場接近物量を精肉基準2万1,930トン、96年2万9,240トン、97年1~6月末までの半年間で1万8,275トンとし、その間2年半の関税率は当初市場接近物量以内は25%、超過分は34.6%とし、前者は変わらず、後者は33.4%まで引き下げる。97年7月以降市場接近物量は廃止し、関税率は98年32.2%からを2004年には25%まで引き下げることとなった。
乳製品(酪農品)は脱脂粉乳(バターミルクを含む)は95年の市場接近物量を621トンから2004年には1,034トンに引き上げ、関税率は以内を20%とし、同期間変わらないものの、超過分は215.6%から176%に引き下げる。澱脂粉乳は市場接近物量344トンから573トンへ、以内の関税率は40%で不変、超過分のそれは脱脂粉乳と同様としている。バターは250トンから420トン、以内の関税率は両粉乳と同様、超過分のそれは98%から89%に引き下げる。
柑橘類はオレンジが95年の市場接近物量を1万5,000トンに設定、2004年には5万7,017トンに引き上げ、関税率は以内を50%とし、同期間変わらないものの、超過分は94.1%から以内と同様の50%に引き下げる。みかんは95年の市場接近物量を1,258トンから2004年には2,097トンに引き上げ、関税率は以内を50%とし、同期間変わらないものの、超過分は158.4%から144%に引き下げる。オレンジジュースは鶏肉・豚肉と同様、市場接近物量を2年半だけ適用し、5万トン、5万5トン、3万トンとし、その間2年半の関税率は以内50%は変わらず、超過分は同期間59.4%から58.2%まで引き下げる。市場接近物量廃止後の関税率は98年57.6%から2004年には54%まで引き下げる。
UR合意以前にすでに輸入自由化していた品目も「工産品・水産物及び単純譲許した農産物に対する譲許関税」(第2条関連)の適用によって、1995年から2004年までの10年間にわたって、関税率が引き下げられる。引き下げ率が大きい品目として、まず果実類が挙げられ、とりわけ梨、桃、甘柿が72.0%から45.0%へ、乾燥葡萄が47.1%から21.0%へ、メロン(スイカを含む)とパパイヤなどが57.8%から45.0%へと大きく引き下げられる。他には小麦粉が27.4%から4.2%へ、コーンフレークが54.5%から5.4%へ、ビール、葡萄酒、ウイスキー、コニャック、ブランデーなどのアルコール類が93.0%から30.0%へ、葉煙草および葉巻煙草(cigarettes)がそれぞれ69.3%から54.0%、96.6%から65.5%へと大幅に引き下げられる。
再び、UR合意後の韓国の主要農産物輸入の推移に着目すれば、ほとんどの品目は93~95年にかけて輸入額の増大を示しているが、これはまさに以上で分析してきた、UR合意及びWTO協定にともなう市場開放と関税率引き下げを最大の要因としているのであろう。豚肉、ミルク・クリームA、チーズ、柑橘類はその典型例である。また、96年上半期における輸入額の増加幅も大きく、ほとんどの品目で前年実績を上回ることはほぼ確実である。96年上半期の米の輸入額増大はWTO協定に基づくミニマム・アクセルの結果であろう。
以上の考察から、今後、国内農産物の国際競争力の強化が少なくとも関税率引き下げ幅よりも上回って実現されないならば、外国産農産物の輸入は一層の拡大をみせるであろうと展望されるのである。
※本報告の内容は、拙稿「韓国における農産物輸入の動向と今後の展望」『公民論集』(大阪教育大学公民学会)第5号、1997年3月に公表した論文に基づいている。詳しくは拙稿を参照されたい。

(大阪教育大学助教授)

 

〔東日本人文社会科学研究会報告要旨〕
第14回 1997年3月22日(土) 14:00~17:00 法政大学92年館(大学院棟)


北朝鮮の工業化と対外貿易:1946~1994年
梁 文 秀 


本報告の課題は、第1に、北朝鮮の工業化のメカニズムに対するイメージをつかむことを念頭に置きながら、工業化と資本蓄積のいくつかの側面を検討すること、第2に、北朝鮮の経済成長・低迷における貿易の役割の考察、あるいは北朝鮮のマクロ経済における貿易の位置付けを試みることであった。
工業化の特徴と関連、以下の側面を検討した。第1に、北朝鮮の工業化の展開を生産要素との関連でみると、北朝鮮が今まで「外延的」成長パターンをとってきたことが確認できる。また北朝鮮経済の1970年代後半か80年代前半以降の低落の傾向と同期間の生産要素の生産性の低下傾向と深くかかわっている可能性が考えられる。第2に、北朝鮮の代表的な経済政策の一つである重工業優先発展戦略は一定の成果を収めたと言い難い、という通説を統計的に検証してみた。
資本蓄積と関連、工業化の財源をどのように調達したのか、について簡単に検討した。
第1に、北朝鮮でも中国と同じように、国営工業部門の余剰⇒財政収入(利潤および税の上納)⇒蓄積⇒投資という資本蓄積メカニズムが存在したといえる。農業部門の資本蓄積に対する貢献、つまりプレオブラジェンスキの有名な「社会主義原始蓄積論」が北朝鮮でも適用された可能性も考えられる。第2に、消費の犠牲による投資財源の確保は一つの傾向として存在したといえる。第3に、投資と外資はかなり深く関わっていた蓋然性も確認できた。
本報告の2番目の課題と関連、まず北朝鮮の貿易構造・成果を検討した。貿易構造上の特徴としては、①70年以降の輸出入規模の変動が非常に激しいこと、②貿易相手が旧ソ連・中国・日本の三国に偏重されていること、特に旧ソ連に対する依存度が極めて高いこと、③輸出入商品構造の単純さ、特に輸出は鉄・非鉄金属中心の原料別製品が圧倒的になっていることなどが指摘できる。また北朝鮮の貿易の成果は貿易収支の慢性的な赤字と累積責務の増加(ひいては外債問題の深刻化)に代表される。
このような特徴を持っている北朝鮮の貿易は、マクロ経済においてどのように位置付けられるのか。
第1に、北朝鮮は表面的には「自力更生」政策を標榜したが、実際には、一部の期間を除いて、社会主義国家、特に旧ソ連に対する頼りすぎの経済構造を持っていた。ここで、社会主義国家に対する頼りすぎに支えられてきた「北朝鮮式自力更生構造」の姿が導かれる。ただし北朝鮮にとって、社会主義国家、特に旧ソ連との貿易は、政治・外交的紐帯の経済的表現に過ぎなかった。
第2に、にもかかわらず、長期的(1960~93年)な視野でみると、貿易が経済成長に貢献したと言いにくい。北朝鮮において貿易は、国家政策、そのための急速な国内経済成長の後にでてくるものであった。貿易の経済成長促進効果は実現されたと言いにくい。
第3に、ただ時期別変化の可能性は考える必要がある。工業化初期では貿易と経済成長のリンケージがある程度働いた。だがそのリンケージは次第に働かなくなった。さらに貿易はマクロ経済の大きな隘路要因になった。累積債務の増加を通して、また社会主義崩壊のショックの伝達ルートとして、経済成長に対する制約要因として機能した。
第4に、貿易のマクロ経済に対する間接的な影響。貿易に対する依存度を抑えるため、経済のほかの部門、マクロ経済全体が払わなければならなかったコストの問題、つまり経済の効率性の低下を促したということである。石炭中心の産業構造を作り上げたこともその一つの例である。特に外貨不足のため、設備、技術、燃料、化学肥料などの導入が極端に制限され、国内技術・国産原料を利用する新しい工業の創設、新しい農法の開発が推進されたが、それがうまくいかず、農工業生産の不振をもたらす原因の一つになった。
第5に、①社会主義崩壊のショックが、北朝鮮で貿易と経済成長とのリンケージがあまり働かない時点で襲われたこと、②そのショックのダメージは対内的な要因によって増幅されたという本報告の分析結果・インプリケーションは、北朝鮮の内部経済状態が80年代、90年代とあまり変わらないこと、たとえ貿易が活発になっても、経済成長に貢献しがたいということを示唆する。これは現在北朝鮮で推進されている、「改革なき開放政策」の効果に対して、大きな疑問を示す、多くの既存研究結果とも一脈相通ずるものがある。

(東京大学大学院)


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国際高麗学会日本支部 第4回評議員会

 1997年11月9日、OICセンターにおいて第4回評議員会が開催された。評議員会では、まず張年錫代表より開会の挨拶があった。つぎに、1996年度の活動・会計ならびに1997年度の事業計画・予算案が報告され、承認された。とくに研究会を積極的に運営していくこと、会費納入率を高めることなどについて論議が交わされ、今後、より一層日本支部活動の活性化をはかることが確認された。
また、評議員会では、滝沢秀樹代表、文京洙副代表が新たに選出され、滝沢秀樹代表より、日本支部活動のさらなる発展について力強い決意が表明された。その後、日本支部評議員案と日本支部規約の一部改正案(第6条に「日本支部に顧問をおくことができる」という文言を新たに挿入する)が提案され、承認された。

編集後記
張年錫先生には、1994年度から日本支部代表としてご指導いただいたことに心から感謝申し上げるとともに、今後とも評議員として日本支部のために変わりないご指導を賜りますようにお願い申し上げます。
本号は、滝沢秀樹新代表の巻頭言、「第5回朝鮮学国際学術討論会」と「国際高麗学会第3回総会」記事および討論会参加記、研究会の報告要旨、評議員会記事などを掲載しました。次号では、会員の皆様方の積極的なご意見、ご投稿を期待しております。最後に、発行が大幅に遅れたことをお詫び申し上げます。(哲)