日本支部通信 第6号(1996.6)

Korea学」を考える


高泰保


 1.1990年に国際高麗学会が創立されて以来、はや6年が経過しましたが、その会則の第1条総則に、「本学会は、Koreaに関する研究に携わる学者達によって結成された学術団体として、その名称を国際高麗学会(International Society for Korean Studies<ISKS> )とする。本学会の主旨は、Korea学の、より活発な研究とそれを通じた学者達の交流と親睦にある」と記されています(下線は筆者による)。
このように、総則には「Koreaに関する研究」と「Korea学」という類似する2つの語が使われています。前者は一般的な表現で、とくに問題ありませんが、固有名詞と判断される後者には、その使用について異論があるかもしれません。というのは、「Korea学」と言ってしまえば、それは既存の学問か、あるいは新しく誕生した学問の一分野であることを意味するからです。そうでないのにもかかわらず、「Korea学」と称するのであれば、それは「Koreaに関する研究」を止揚させ、新しい学問として「Korea学」を位置づけたいとする本学会の意図、指向性によるものでしょう。
なお、「Korea学」は、「朝鮮学」あるいは「韓国学」と言い換えることもできます。にもかかわらず、あえて「Korea学」としているのは、朝鮮半島の分断という現実を考慮した結果であり、国際高麗学会の設立理念によるものと考えています。

 2.「日本学」、「エジプト学」、「モンゴル学」、「チベット学」などという言葉をしばしば耳にすることがあります。浅学の私には、これらがそれぞれ独自の学問分野として存立しているのかどうかを知りません。ただ、英語の辞書を引いてみると、「日本学」は「Japanology」、「エジプト学」は「Egyptology」となっています。このことは、「エジプト学」や「日本学」が独自の学問分野として、少なくとも欧米では認知されていることを示唆しています。「モンゴル学」や「チベット学」については、辞書に載っていません。
もし、「Koreaに関する研究」が国際的にも認知された独自の学問分野だとすれば、それは「Korean studies」ではなく、「Koreaology」とでも呼ばれることになるでしょうか?
話は少し脱線しますが、極端な場合、誰かが「……学」と言い出し、マスコミによってそれが喧伝されると、あたかも新しい学問が誕生したかのような錯覚を私たちに与えます。そのような例をひとつあげてみましょう。科学技術の分野でよく使われる語に「バイオテクノロジー(Biotechnology)」というのがあります。日本語では、「生命工学」、「生物工学」、あるいは「生物技術」と訳され、あたかも体系だった一つの学問(分野)だと思われています。しかし、実際のところはそうではありません。米国の証券会社の元アナリストがつくった造語で、遺伝子組換技術と細胞融合技術を中心にいくつかの新しい生物分野の技術をまとめて、そう呼んでいるにすぎないのです。
「Korea学」が「バイオテクノロジー」の例とは違い、一つに独自の学問(分野)として存立させるには、その定義、研究領域と研究方法、体系、学問的特徴、隣接する従来の学問との関係、現代科学における位置づけなどを明確にしなければならないでしょう。「Korea学」と標榜するかぎり、少なくともそのための議論は必要だと考えています。このような観点から、大胆にも、私なりに「Korea学」の定義づけを試み、これと関連するいくつかの事項について、若干の考察を行ってみました。

 3.「Korea学」とは一体何か? この問いに対する簡明な答えが「Korea学」の定義ということになるでしょう。
「Korea学」とは、「朝鮮(半島)と朝鮮民族の文化各相の歴史的所産を検証・統合化し、その成果を基礎にして文化のありように関する今日的あるいは将来的問題を論じる学際的で、総合的な学問である」と定義してはどうでしょうか?  なお、「朝鮮」や「朝鮮民族」は「韓国」「韓民族」といってもさしつかえないものです。どちらでも、実体は同じものですから。
このように定義すれば、研究の対象は、朝鮮における文化、国内外の朝鮮民族の文化ということになります。当然ながら、精神文化だけでなく、物質文化も研究の対象になります。物質文化は科学技術、とくに技術と深く関わっています。本学会に科学技術部会が存在する理由も、まさにそこにあるのです。
「Korea学」の学問的特徴の一つは、それが学際的な学問、総合的な学問であるということでしょう。そうでなければ、既存の学問との関係において独自性を発揮することができず、新しい研究分野を開拓することもできないと考えます。分化し細分化した現代科学は、あらゆる分野で、このような学際的学問、総合的学問の誕生を求めています。この点については、国際高麗学会日本支部通信第4号(1995)で文京洙氏も触れておられます。
「Korea学」の学問的特徴の他の一つは、その未来学的な性格にあるのではないかと考えています。「Korea学」においては今日的問題だけでなく、「未来学」的研究も重要な要素となるでしょう。すなわち、グローバルな視点から朝鮮の文化を検証し、民族の統一問題を視野にいれながら、文化発展の方向性を明らかにしていく研究が期待されるでしょう。
「Korea学」の研究方法や体系については、今のところ考察できていません。楽観的な言い方をすれば、「Korea学」とその周辺で研究成果が蓄積されていけば、それらは漸次明確にされていくだろうと考えています。
最後に、「日本学」が欧米の研究者によって支えられてきたように、「Korea学」においても海外の研究者、とりわけ海外在住の朝鮮族(=韓民族)の研究者が最も重要な役割を果たすに違いないということを付け加え、本文の締めくくりとさせていただきます。

 (国際高麗学会日本支部 科学技術部会委員長)
(OIC研究所長/大阪経済法科大学客員教授)

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【西日本地域研究会報告要旨】


第22回 1995年9月30日(土)15:00~17:00 OICセンタービル4F会議室


中国朝鮮族の教育ーー学校教育に見る朝鮮族の今日


鄭雅英


 200万人を数える中国朝鮮族は、現在55と認定されている中国少数民族の中でも独自の民族的文化を維持しようとする力がきわだって強いことで知られる。彼らの高い経済水準とともに、ほぼ100%に近い教育普及率(そのうちかなりの部分が民族語による)、高学歴傾向などは、一般に貧困の克服と初等教育の普及が課題とされる少数民族区域においては異色といって過言ではない。中国朝鮮族がなぜ民族的文化を強力に保持しえたのか、また近年における「改革開放」政策の深化が彼らの生活や意識にどのような変容をもたらしているのかを、朝鮮族教育の歴史や現状を通じて探ろうとするのが筆者の課題である。
現代中国朝鮮族の歴史はとりあえず19世紀中葉にさかのぼり、以後100年ほどのあいだに彼らの居住する中国東北地方は清朝政府ーー中華民国政府ーー日帝(「満州国」)ーー共産党政府とめまぐるしくその執権者を変えた。その間に朝鮮族教育は書堂ーー改良式書堂ーー近代的私立学校ーー今日の朝鮮族学校と様式上の発展の道をたどったが、それは同時に各時代の執権者が繰り出す民族的同化政策との闘いの歴史であったともいえる。とりわけ日帝支配期に継続された私立朝鮮人学校での活発な抗日活動は、朝鮮族史のみならず全体民族史のなかでも銘記されるに値するが、中国におけるこうした朝鮮族教育史の研究は80年代後半からようやく本格化してきている。また社会主義政権成立以後、文化大革命などの政治的混乱期に朝鮮族がどのような迫害を被ったかを明らかにする資料も近年次第に公開されつつあり、朝鮮族教育への弾圧(教員の追放、朝鮮族学校の取消、「朝鮮語無用論」の横行など)の一方で、教育正常化に向け朝鮮族内部で払われた努力の軌跡など、今後の研究材料としても興味の尽きないところである。
さて朝鮮族は中国東北地方に水稲耕作を持ち込んだことでも歴史上名を残しているが、コーリャンなどの畑作を主とする他の民族と耕作形態の違いから住み分けが行われ、ほぼ朝鮮族のみで構成される農村が東北各地に形成される。稲作がもたらす利潤は朝鮮族に経済的優位性をもたらすが、このように(東北地方では)比較的豊かで単一民族的に構成された朝鮮族村の存在が、民族的文化の継承に大きな役割を果たしたことは疑いを得ない。しかし「改革開放」政策がもたらした市場経済の影響はここにも及び、朝鮮族の中でも農村部から都市部への人々の移動が目立つようになっている。ことに延辺朝鮮族自治州以外の都市部に移住した場合、その子どもたちが民族教育を受けられる可能性は低く、言語をはじめとする民族的文化の継承は困難である。また経済活動の広域化にともない、朝鮮族の中でも朝鮮語より漢語(中国語)教育をより重視する風潮がみられる。さらに延辺自治州では豆満江開発計画などの経済発展が、より一層の他民族流入を促すというジレンマを招いており、朝鮮族の民族教育は今や大きな岐路に直面している。
ただし「開放」政策による南北朝鮮、とりわけ韓国との交流拡大は朝鮮族の経済と文化に一定の刺激を与えており、また朝鮮族教育そのものを新しい時代の要請に即したものにしようとする地道な改革の努力も続けられている。
このように「中華民族(その中心はもちろん漢族)」に同化しようとするベクトルと、固有な民族文化をより強固に維持し続けようとするベクトルとのはざまで今日の中国朝鮮族は自らの生き方を模索している。21世紀に向けた中国社会の変動ときたるべき朝鮮半島の統一は、朝鮮族にとって大きな不確定要素であるが、そうしたなかでの彼らの選択は民族問題に揺れる今日の国際社会にあって、大いなる関心と注目を集めることであろう。

 (法政大学大学院)



第23回 1995年12月2日(土)15:00~17:00 OICセンタービル3F談話室


日本(三井物産)の開城人蔘利権獲得過程


高秉雲


 朝鮮(開城)人蔘は、不老長寿の高貴薬としてアジアはいうまでもなく世界的にその名が知られている。
朝鮮では、貴重な保健薬として利用されているばかりでなく、重要な輸出品として国家財政的に大きな比重をしめていた。
李朝末には、主として中国、アジア諸国に輸出して、その名声高く重要な収入源であったのである。
これに目をつけたのは、日本である。とくに一攫千金を夢見て朝鮮に渡った浪人集団の好標的となったのは、いうまでもない。

 一八九九年(光武三年)九月、居留日本人四、五〇名が船に乗り新堂、康寧浦等地に上陸し、蔘圃に潜入愴採しようとするのを警吏が発見して追跡した。
漢城判伊、金永準は日本領事に公文書を送り、これは日本の盗賊行為であるから、すみやかに撤退させ人民の心配と被害を除去するよう要請したが、聞き入れなかった。
また、日本の盗賊たちは、朝鮮服に仮装して蔘圃に乱入し、数百斤の人蔘を盗取しているので、警吏がこれを逮捕し日本の領事にわたした。
しかし、日本の領事は罰しないので、彼等は数百名に増加し蔘圃に潜入して四千余間の人蔘を盗取するから、警吏はこれを阻止しようとした。すると彼等は、日本刀を振りかざし銃を乱射して威嚇した。

 (朴殷植『韓国痛史』「日人愴採松蔘」より)

 以上のごとく、最初彼らは集団的暴力的に人蔘の大量盗取を敢行し、巨額の富を獲得していたが、これに味をしめ、さらに一歩進めて三井物産をして人蔘利権を獲得させ企業的、大々的に収奪しようとしたのである。
この時、暗躍したのが新聞記者であり、“朝鮮近代史”の著者でもある菊池謙譲である。
菊池は新聞記者という身分を利用して李太宗(高宗)の信任を得て、日本製銃1万挺を朝鮮に売り込む注文をとりつけたのである。
この新式の銃1万挺を、朝鮮に売り渡すというのは、一朝有事(日露戦)の際、これを使用することができる軍事上の利点と、経済的面との一石二鳥の利益により、日本としては両手を挙げて大歓迎したものである。しかし、銃の売り込みとこの輸送を、新聞記者の資格では無理があるというので、当時日本最大の商社、三井物産がその売り込みと輸送を担当することになったのである。
こうして、三井物産が狙っていた朝鮮人蔘との関わりをもつようになったのである。
高宗は財政難のため、この銃の代金支払いを遅延していたので、三井は朝鮮から中国へ輸出する紅蔘の一部の販売を引き受け、その紅蔘代金の内の一部は朝鮮政府に納め、一部は銃の代金として差し引くことにし、銃の代金を完納するまで、すなわち3か年の期限で、三井が販売方の委託を受けることにしたのである。
すなわち1900年(光武4年)11月27日に委託販売契約を締結したのである。
それから3年間の期間が切れるので、1903年4月15日に契約を更新している。
三井物産は、こうした縁故により引き続き朝鮮人蔘の販売を取り扱うこととなり、朝鮮の植民地化後も依然販売を継続したのである。
日本は1908年7月には“紅蔘専売法”を判定し、それから1920年には“紅蔘専売令”と改定して朝鮮人蔘を専売品に指定し、日本は完全に独占した。
こうしてアジア侵略の財源の一部としたのである。
参考として1903年4月15日の契約文をあげる。

内蔵院与日本国三井物産合名会社官蔘委託販売契約成

第一条 三井ハ事業ヲ誠心周旋シ何国商買ヲ勿論シ最高価ニ一遵シ且其資産ト信用ノ最優者ヲ選択シテ放売スル事
第二条 官蔘放売ハ三井ハ先ヅ内蔵院ト販売価格ヲ協定シテ其認可ヲ得タ後ニ施行スル事
第三条 若シ買人ガ内蔵院ト自行交渉シテ協定スル買価ガ三井ノ協定シタ買価ヨリ高イ時ハ内蔵院ハ直接協定シタ買人ニ自由放売スルヲ得ルコト此場合ニハ三井ハ物品受渡ト代金去来等ヲ担当シテ口銭トシテ販売価格千分ノ三十五ヲ買人ヨリ収納スル事
第四条 官蔘受授スル処所ハ仁川港ト定ル事
第五条 内蔵院ガ若シ官蔘製造資金ヨリ前金ヲ要求スル場合ニハ一箇月前ニ其所用金額ヲ三井ニ予告スル事但前金ノ制限及利子ハ京仁間銀行利子最低額ニ準拠シテ代金受授前ニ協定スル事
第六条 前条ニ記載スル前金ハ官蔘売価中ニテ控除精算スル事
第七条 内蔵院ハ何人ヲ勿論シ潜蔘売買製造及輸送等事ヲ潜行シテ官蔘販売ニ妨疑者カ有ルナラバ厳刑ニ処シテ其弊ガ無クスル責任ガ有ル事
第八条 三井ガ官蔘価額ヲ協定スル時ニ本契約ヲ不遵シ低価デ抑買スル場合ニハ内蔵院ニテ自意放売スル事
第九条 本契約及官蔘販売委託規則ニ違背スル者ハ損害ヲ賠償スル責任ガ有ル事
第十条 本契約ハ約定期限カ尽クル前ニ互相協議スル後ニ解約及続約スル事

 光武七年四月十五日 内蔵院卿 李 容 翊

明治三十六年四月十五日
三井物産合名会社
代表人 小田柿捨次郎

右契約ノ成立ヲ証明ス 特命全権公使 林 権 助

(大阪経済法科大学客員教授)

第24回 1996年2月24日(土)15:00~17:00 OICセンタービル4F会議室

村の生活組織をめぐる一考案ーー韓国・済州島の事例からーー

伊地知紀子

 1994年7月末から1年間、私は韓国・済州島に滞在した。そのうちの約11ヶ月を北郡旧佐面杏源里という海村ですごした。日本の大阪には、日帝植民地期以降現在に至るまで、済州島出身の人びとが多い。日本で知り合う1世の人からよく聞くのは、解放前の済州島の様子である。しかし、現在は、そして今まではどうなのだろう、と行ってみることにした。
済州市のバスターミナルから北東に約1時間半、海沿いに行くと、杏源里がある。道沿いには、時折「海女」の看板を掲げた観光客相手の店が見える。現金収入につながる重要な仕事であったチャムス(潜水)をする人は、島の中では減ってきている。そのなかで、北東部のこの地域は、チャムスの仕事をする人が多くいるところである。杏源里での人びとの生活を支える重心も、山の畑よりも海の畑の方に置かれているようだ。村の目玉商品となったニンニクの量産の試みは、1960年代に入ってから始められた。山の畑からの定期的な収穫が難しかった島の生活を過酷にしていたのは、その自然条件からのみではない。
朝鮮半島の他の地域とともに、済州島も数々の戦乱を被ってきた。戦乱は、人を奪い、生活の場を荒らす。近代史の中で強攻な先陣をきったのは、日帝植民地支配であった。19世紀末には、日本の近代漁業が済州島の海に侵出し乱獲し始める。杏源里のある北東地域からは、この時期すでにチャムニョ(潜女)の日本への出稼ぎがあった。1920年代に入ると、済州島ーー大阪間の直通船が登場し、出稼ぎの格好の経路となる。杏源里の人びとも、大阪で集住していったという。また、村には1930年代長崎の潜水器業者が入村し、海での乱獲を行うとともに、村人を安価な労働力として使っていった。そうして、解放後の4・3事件、朝鮮戦争を経て現在に至るまで、内容の変化を伴いながらも村人たちの出稼ぎは続いている。
では、このような抑圧と搾取の歴史のなかで、村人たちはただ受け身なだけの存在だったのだろうか。確かに、不当な支配構造の網の目は巧妙に仕掛けられてはいる。しかし、村人たちは、波に乗りながらも完全にのみ込まれることなく、生活の場での緩やかな抵抗を示してきたとはいえないだろうか。このような視点から、私が注目したのは、共生の互助原理であるスヌルムとチェである。
従来、スヌルムとは労力の相互扶助であるプマシ、チェは金や物による共同出資の協力方式であるケの「済州島方言」であるとされている。そして、スヌルムは近代的賃労働に取って代わられ、チェが行われるということは「今時そんな古いことをしているなんて」という見方にされることが優勢であった。しかし、村人たちの生活を支えてきたスヌルムとチェの説明を聞いていくと、どうも従来の見方では割り切れないものを感じる。村人たちは、スヌルムとチェを後生大事に昔のやり方を守って行っているわけではない。さまざまな時代の流れのなかで、時と場合に応じた即効性を伴いながら、出入りの頻繁な村の生活を支え、海山の畑仕事や日々の付き合いをこなしている。その力は、村レベルになると村外の都市に暮らす人びとにも及び、里事務所新築達成へと結びついた。
このような動きは、外部から規定される存在として描かれがちである人びとの姿を捉えなおし、人びとが日常生活のなかで紡ぎ出す、抑圧への対抗力と創造力のありようとして捉えられよう。

(大阪市立大学大学院)



第25回 1996年4月20日(土)15:00~17:00 OICセンタービル4F会議室


韓国における国家主導開発体制


高龍秀


 韓国をはじめとするアジアNIEsの経済発展に関する近年の研究で、国家の果たした経済的役割を強調する議論が有力になっている。韓国に関して言うならば朴政権下で確立した開発体制について、(1)強力な開発イデオロギーをもつ国家権力が開発を主導し、(2)強力な権限をもつ経済官僚が開発政策を立案し実行した、という点を強調する議論である。本報告では、アジアNIEs分析の理論潮流を紹介し、韓国の国家主導開発体制を分析するときに必要となる、4つの視角を提起した。
アジアNIEsを分析するアプローチとして、当初は新古典派と従属論が対立した分析方法を提起したが、1980年代よりこれらの議論を批判した、国家論的アプローチ(statist  approach)と制度・組織論的アプローチ(institutionalist approach)が有力となった。デーヨー、アムスデン、ウェイドなどの国家論的アプローチは、アジアNIEsの経済発展における国家の積極的役割を強調し、政府の役割を市場メカニズムの正常な機能の維持・促進にしか求めない新古典派を退け、発展途上国国家の自律性を認めない従属論モデルも批判した。またエバンズも、韓国と台湾では国家の「装着性(embeddedness)と自律性の結合」により成長が可能であったと主張した。他方でハガード、ムンらの制度・組織論的アプローチは、強い国家による経済介入のみでなく、それを実行する官僚機構(経済企画院)の組織的能力と制度改革を成長要因として重視した。
このような研究潮流をふまえて、韓国の国家主導開発体制を分析するときにどのような視角が必要となるであろうか。
第1は、この国家主導開発体制を確立した朴政権の経済開発思想を内在的に分析する視角である。ヘンダーソン、チャンハジュン、チョイジェらが指摘するように、満州軍官学校と日本陸軍士官学校を卒業した朴が1972年の第2のクーデターにより確立した体制を、明治維新にならって維新体制と名付けたように朴政権の政治的アイデアが戦前期日本の国家主義思想から影響を受けており、60年代以降の介入的経済政策が、植民地統治下で経済介入政策が強力に展開された戦間期と連続性が見られる。この歴史的背景から、朴政権の経済開発思想を内在的に分析する必要がある。
第2に、強力な開発意思をもつ国家や権威主義体制が登場する背景を歴史的に分析する視角である。渡辺利夫などが権威主義体制の必要悪論を主張しているが、その議論では、なぜアジア諸国で権威主義が登場したかが分析されていない。韓国での国家性格論争をふまえて、この権威主義や「強力に経済介入する国家」が登場する歴史的背景を分析する必要がある。
第3に、国家論的アプローチを相対化させ、内的・外的要因(制約)との緊張関係の中で国家の自律性を捉える視角が必要である。国家論・制度論アプローチの一部は、国家の自律性を絶対化するという誤った傾向が見られる。国家の強さは、社会との関係、国際関係での制約などと緊張関係にあり、国家の政策が、内外要因により強く制約される時期も存在した。この緊張関係の中で国家の強さを分析すべきである。
第4の視角は、国家による産業政策・財閥優遇政策を受けながら、企業はいかにして効率的な生産体制を築きえたか。国家に育成された財閥という韓国の企業システムはどのような特徴をもつのかという視角である。
以上の報告者の提起について参加者から多くの有益なコメントをいただいた。この場を借りて感謝したい。また本報告書は「甲南経済学論集」第37巻第1号に掲載される予定である。

(甲南大学助教授)



【東日本人文社会科学研究会報告要旨】


第12回 1996年4月13日(土)15:00~17:00 法政大学92年館(大学院棟)


現代韓国の金融構造と金融政策


廉東浩


 韓国金融構造を直接金融市場と間接金融市場の2つの視点から分析した。次に金融政策の特徴を実物経済と政策面とを関連づけて分析した。金融政策の面においては、経済成長中心の金融政策であったと特徴づけた。また、金融政策手段としての公定歩合に関する最近の動きと効率的な資金配分、そしてそれらによる実物市場への影響と公定歩合のあり方について日・米・英・独を比較しながら検討した。特に金利政策に関して特徴的なものは以下の3点である。
第1に、金利政策は金融調節手段として、また経済政策の補完手段として運用されたこと。
第2に、金利の硬直的な運用。第3に、金利体系の歪曲による非合理的な資金配分である。
企業金融による金融構造分析では、時系列分析を行い80年から94年までの企業の資産選択行動を明らかにした。それに従い、資金調達と運用に関する要因分析などに関して議論が行われた。また、1993年より実施された金融実名制が金融市場と実物市場に及ぼす影響や波及効果などに関して報告された。
具体的には企業の資金調達、通貨量、流通手段としての手形取引、中小企業の資産選択行動、資金構造変化などである。最後に、韓国金融産業の展望と関連して、北朝鮮の金融システムとOECD加盟を目前に控えた韓国金融市場の国際化程度を日・韓・米国の国際化程度を指数化して比較した。総合的には金融機関業務内容の国際化、金融機関の相互進出程度、短期金融及び外国為替市場の自由化、資本市場の自由化、通貨の国際化などを主な項目として取り上げた。
金融政策の特徴に関して、既存の開発経済学的観点との違いがあり、議論が行われた。また金融実名制の実施後、市場の変化に関して質疑があった。また北朝鮮の金融システムと韓国金融機関との機能面における比較においては、多大な質問があったが、統計的なデータ不足などによって十分に対応できなかった。また全般的に範囲が広がったため、満足できるような説明ができなかったと思われます。

 (法政大学大学院)



【科学技術部会研究会報告】


第13回 1995年6月16日(金)18:30~20:00 OICセンタービル4F会議室


原子力の安全評価解析について


金栄鷽


 原子力発電所あるいは研究用原子炉などを設置するには、国の安全審査に合格する必要がある。安全審査は、『原子炉施設の安全評価に関する審査指針』などの安全評価指針に基づいて行われ、その安全評価では種々の原子力計算プログラムを用いた解析結果により安全性の判断を下す。
この講演では、豊富な実績と経験をもとにして、計算プログラムによる安全解析の概要と実例についての興味ある話があった。

(㈱日本総合研究所 サイエンス事業部 原子力グループ)



第14回 1995年11月18日(土)15:00~17:00 OICセンタービル4F会議室


インターネットを利用した韓国へのアクセスについて


辛在卿


 この研究会では、パソコン画面を投影するマルチメディア・プロジェクターを使用して、実際にインターネットに接続し、アメリカ・韓国のWWWサーバへのアクセスのデモンストレーションが行われた。講演では、韓国のパソコン事情およびインターネット事情についての詳細な報告があった。特に、日本のパソコンの普及・パソコン通信・インターネット事情についての話と比較は大変興味のある内容であった。
デモンストレーションでは、参加者の各専門分野の科学技術情報データーベースの検索も行い、始めてインターネットに接した参加者には大きなインパクトをもたらした研究会であった。

 (京都経済短期大学 経営情報学科助教授)

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国際高麗学会日本支部 第3回評議員会の開催

 1996年4月21日、大阪OICセンターにおいて第3回評議員会が開催された。ここでは1995年度の活動・会計ならびに1996年度の事業計画・予算案が報告され、承認された。
とくに日本支部活動の活性化をはかることについて、論議が交わされた。研究会・講演会を積極的に運営し、会費納入率を高めるとともに意識的に会員の拡大に努める点で一致を見た。
また、張年錫代表より、西日本地域研究会代表に高龍秀氏が、東日本人文社会科学研究会代表に金元重氏が委嘱され、承認された。さらに、滝沢秀樹会長より、1997年に開催予定の第5回朝鮮学国際学術討論会と、各地域の活動状況について報告があった。