日本支部通信 第2号 (1994.5)

際高麗学会日本支部の活動を一層活発にするために

 

滝沢 秀樹

 

 私が初めて韓国に関心を持つようになったのは、今からちょうど20年前の1974年4月のことであった。現代韓国社会について多少なりと研究を始めたのは、1978年頃からである。独学でことばの勉強を始めたのも、1978年の春からだった。
私のもともとの専門は経済史、そのなかでもとくに明治以降の日本資本主義発達史で、蚕糸業史が主な研究対象だったのである。日本の近代経済史を学ぼうとすれば、当然、朝鮮との関係は避けて通れない。事実、日本資本による植民地朝鮮の蚕糸業支配や、日本の製糸工場における朝鮮人女工の存在については、当時の私の研究のなかで、それなりに意識してはいた。とはいえ、それはあくまでも「おまけ」のように位置づけられていたのであって、私の眼がまっすぐに朝鮮を向いていなかったことは、否定しようがない。
そんなわけで、私はもともとコリア学の専門家ではない。今でも、私のコリアに関する知識はほとんど完全に南の大韓民国の現代史に限られており、朝鮮史の体系的理解や、朝鮮民主主義人民共和国の社会の現状については、基本的な知識すら持ち合わせていないのが、正直なところである。まして、文化や言語、とくに自然科学的領域については、コリアに関する知識は皆無に等しいといわなければならない。
こんな私が国際高麗学会西日本地域研究会の代表をつとめているのは、「学会」というものに対する一般的な通念からいえば、無茶なことかもしれない。しかし、私自身にとっては、逆に、この研究会とともに私のコリア学も幅を広げてくることができたという実感がある。
西日本地域研究会がスタートしたのは国際高麗学会の創立大会からほぼ1年あまり後の1991年10月のことであり、同じ年の12月には東日本人文社会科学研究会がスタートした。日本ではこのほかに、文学部会の研究会や科学技術部会の研究会が行われている。(科学技術部会の研究会については、次号に研究会報告を掲載する予定)。これらはいずれも、本部事務局の了承のもとに、大村益夫先生を代表とする国際高麗学会日本支部の活動として正式に位置づけられている。
西日本地域研究会についていえば、金哲雄先生と高龍秀先生たちと協力してすすめてきたこの研究会では、およそコリアに関するあらゆることが対象になってきたといってもよいであろう。そのなかでも強いて多くの関心を集めてきた分野を挙げるとすれば、今日の韓国経済や社会の諸問題と、在日コリアンズをはじめとする海外居住コリアンズの生活と権利の問題、朝鮮史や近代の日朝関係などが、多く取り上げられてきた。必ずしも毎回の出席者は多いとはいえないが、研究会のたびにいつもニューフェイスが登場するのも、楽しみのひとつである。
国際高麗学会も「学会」である以上、その目的は純粋に学術的な意味でのコリア学の発展であることは言うまでもない。その原則を守りながら、同時に、狭い学問分野を超えた、自由で活発な討論の輪が広がる、開かれた雰囲気の研究会を作り出していきたいと思う。アカデミズムを否定するのではなく、新しいタイプの幅広いコリア学の創造に貢献したいと思うのである。
話は変わるが、私の勤務する甲南大学でも、遅ればせながら今年度の新入生から朝鮮語を第二外国語として選択することができることになった。初年度から講師を引き受けていただいたのは、国際高麗学会の活動を通して私と縁ができた、2人の若い研究者である。私たちのこの学会が、朝鮮学会や朝鮮史学会など隣接する学会との交流も深めながら、コリア学のシンクタンクの役割を果たすことができるようになることも、私の夢である。
「新しい葡萄酒は新しい皮袋に」という。誤解している人が多いが、この言葉の本来の意味は、「古いものは捨てろ」ということではない。葡萄酒は年季を経るほど値が上がるのである。新しいものは新しい形でスタートしてこそ、本当に値打ちのあるものになるという意味の言葉であろう。国際高麗学会は新しい質のアカデミズムを創り出すことによって、新しい存在の意義を明らかにしていかなければならない。
現代は国際化時代であると言われ、また「21世紀はアジアの時代」といわれる。しかし日本にとっていちばん近いアジアの隣国が南北のコリアであり、日本に住む外国人の最も多数が在日コリアンズであるという事実からすれば、日本のコリア学は極めて立ち遅れた現状にある。私たちの日本支部もまだまだ力量不足である。「職業としての研究者」だけでなく、コリア学に関心を持つ多くの方々に、国際高麗学会の会員になっていただきたい。そして私たちの学会が新しい質を創り出す一翼を担っていただきたいと思う。

1994年5月1日 (甲南大学教授、西日本地域研究会代表)

 

【東日本人文社会科学研究会報告要旨】

 

第6回 1993年10月9日(土)15:00~18:00 法政大学92年館(大学院)703教室

 

「朝鮮民主主義人民共和国の経済開放政策と豆満江開発」

姜日天(朝鮮大学校政治経済学部助教授)

 

第7回 1993年12月4日(土)15:00~18:00 法政大学92年館(大学院)602教室

 

映画『朝鮮の子』とその時代

高柳 俊男

 

 このたびの報告では、1955年2月に完成した映画『朝鮮の子』を、当時の時代状況のなかに置いて考察してみた。というのは、この映画は現在ではあまり知られていないが、解放後の在日朝鮮人の運動史や民族教育史、さらには文化活動史のうえで重要な位置を占めていると考えられるからである。つまりこの作品を手がかりに、解放後の在日朝鮮人が歩んできた道をふりかえり、また現在の姿を照らしだすことができるのではないかと思うからである。
「ぼくは朝鮮人です。ぼくの学校は東京の枝川町にあります」で始まるこの作品は、東京における在日朝鮮人の集住地域のひとつ、東京都枝川町を主要舞台に、解放直後の在日朝鮮人の生活やとくに民族教育を守る闘いを描いた30分ほどの小品である。作品のナレーションは子どもたちの作文であり、それを子どもたち自身が読む形で物語が進行していく。作品はまず八号地(現、江東区潮見)でのクズ鉄拾い、パチンコの景品買い、手袋の内職など、解放直後の在日朝鮮人の厳しい生活環境を描く。続いてそうした経済的困難にもかかわらず行われる民族教育の熱気あふれる現場を紹介する。そかしそれも冷戦構造の深まりとともに、GHQや日本政府の容赦ない弾圧を受けていく。そのなかでも明るくたくましく生きる子どもたちの姿が、さわやかな感動を呼ぶ。
この当時、在日朝鮮人運動は在日朝鮮統一民主戦線(民戦)の時代だった。この映画の制作はあくまでも在日朝鮮人の側だが、京極高英・荒井英郎をはじめメインスタッフの多くを日本共産党系の記録映画作家(日本人)が占めているのには、技術上の問題以外に組織上の理由があった。その民戦から現在の在日本朝鮮人総聯合会(総聯)へと路線転換していくまさに激動の時期にこの映画は作られ、公開された。またこの時期は、東京では在日本朝鮮人聯盟(朝聯)の解散後、一時都立となっていた民族学校が廃校を余儀なくされ、現在の自主学校へと移行していく時期でもあった。
冒頭で、この映画は現在ほとんど知られていないと述べたが、その主要な原因はここにあった。路線転換後、民戦時代の活動は路線の誤りとして厳しく批判された。民族教育も日本の公教育体系のなかに取り込まれた都立朝鮮人学校を守るのではなく、自主学校となった自分たちの学校を発展させ、子どもたちを朝鮮民主主義人民共和国の公民としていかに教育していくかが課題となった。民族運動と民族教育のふたつの意味での転換期の産物であることが、この映画のその後の上映意欲を消極的にし、次第に歴史のなかに埋もれさせていったのであろう。
しかしこの映画は、貴重な歴史の証言に満ちている。解放直後、在日朝鮮人が民族教育にかけた情熱が画面を通して伝わってくる。枝川町とそこに生きる人々の姿が生き生きと記録されている。最近、崔洋一監督の『月はどっちに出ている』が話題を呼んでいるが、在日朝鮮人の映画制作史を考える際、この『朝鮮の子』が重要なところに位置してもいる。
日本人にとっては、解放された朝鮮人たちが朝鮮語や朝鮮史の教育を許されなかった植民地時代の苦い経験のうえに、いかに困難な条件下で民族教育を始めていったか、またそれに対してGHQや日本政府そして私たち日本人がどう向き合ってきたかを、この映画から如実に知ることができよう。一方、在日朝鮮人にとっては、望ましい民族教育のあり方を模索するとき、民族教育のそもそもの出発点、いわば立ち返るべき「原点」を示す作品としてもう一度顧みられるべきであろう。
「ぼくたちは祖国に帰れる日まで、ぼくたちの学校を守っていきたい」という最後のナレーションを聞くとき、映画の内容に心打たれながらも、この作品から約40年の間に流れた歳月の重みを同時に感じざるをえない。共和国への帰国事業が始まったのはこの映画ができてから5年もたっていなかったが、その帰国船も出なくなってもう10年が過ぎた。来年1995年になれば、8・15解放から半世紀である。2世、3世などの若い世代が在日の中心となり、アイデンティティのあり方も大きく変わりつつある。在日朝鮮人の経てきた歴史を実証的に記録整理し、現在から将来への展望を示そうとする際、この作品がひとつの考える素材を提供してくれるに違いない。
なお、この映画についてより詳しくは、拙稿「映画『朝鮮の子』とその時代」(坂崎武彦著『動く絵の作家 荒井英郎』講談社出版サービスセンター、1993年、所収)をご参照くだされば幸いです。
16ミリフィルムは共同映画社(東京都渋谷区)にあります。

(明星大学助教授)

 

第8回 1994年2月12日(土)15:00~18:00 法政大学92年館(大学院)603教室

 

「春園李光洙の前期政治評論」

鄭大成(明治大学大学院 博士後期課程)

 

【西日本地域研究会報告要旨】

第10回 1993年9月25日(土)16:00~18:00 たかつガーデン(大阪府教育会館)

 

「朝鮮語のVOICE(態)について」 ーー日本語のVOICEと対照しながらーー

長谷川 由起子

 

 日本語におけるVOICE研究では、VOICEを「ある事柄を描くのに何に視点をおいて表現するかという文の機能意味構造にもとづく統語論な側面と、述語になる動詞がどのような形態をとるかという動詞の形態論的な側面の相互関係の体系である」と明確に規定し、「受動態」「使役態」だけでなく「自発態」「可能態」等を並行して扱うのが普通であり、また「自動詞」「他動詞」がVOICEに連続するものとして扱われている。
一方、朝鮮語におけるVOICE研究はこれまでほとんど「被動法」「使動法」に限定して行われてきた。その方法はおおむね、ある形態を朝鮮語の被動詞・使動詞あるいは被動法・使動法とし、これを含む文の意味機能を記述するものであった。
朝鮮語のVOICEを論ずるとき、最も大きな問題は「語形が一定せず(予測が不可能であり生産性がきわめて低い)、使・被動詞といえども使・被動的意味を持たないものもある」という点である。つまり形態・意味の両面において明白な体系をなしていないのである。
また「使動詞と他動詞」「被動詞と自動詞」の関係については、ごく一部を除いて論議の対象となることがなかった。
そもそも、朝鮮語の使動詞と他動詞、被動詞と自動詞はその境界が明白にされておらず、辞書によっても品詞分けにばらつきがみられる。例えば「깔리다」について、『새우리말큰사전』には「나무잎이 길가에 깔리다」では被動詞、「별들이 수없이 깔린 밤하늘」では自動詞とされ、『朝鮮語辞典』には「지진으로 건물밑에 깔린 사람이 많다」では被動詞、「벗꽃이 떨어져 깔리다」では自動詞とされている。
本研究では、まず動詞の形態的分布を整理し、次のⅠーB.の{이}接辞形とⅡーBーa.、ⅠーB.とⅡーBーa.の{이}接辞形はそれぞれ相補的分布を示すことを確認した。

Ⅰ.単純形自動詞
A.{이}接辞形なし
B.{이}接辞形あり={?}接辞形が使動詞または他動詞
Ⅱ.単純形他動詞
A.{이}接辞形なし
B.{이}接辞形あり
a.{이}接辞形が被動詞または自動詞
b.{이}接辞形がaではないもの
c.{이}接辞形がaおよびbのもの

 また使動文・被動文とされる文の構文的意味を分析した結果、次のように整理した。動詞の要求する格の数により、要求格が1つ(主格のみ)=自動詞、2つ(主格・対格)=一項他動詞、3つ(主格・対格・与格)=二項他動詞、一項他動詞のうち主語の身体を対格にとる等、動作の方向が自らに帰ってくる動詞を再帰動詞とすると、{이}接辞のもつ機能は「動詞に必須の関与者(格)の数を1つ増減させるとともに、格の順位を一位づつずらせることである」。

自動詞文
X가V →Y가 X를 V+{이}
一項他動詞文
一項他動詞文
X가Y를 V →Y가V+{이} 自動詞文
再帰動詞文(一項他動詞文)
X가 Y를 V →W가 X에게 Y를 V+{이}
非再帰動詞文(二項他動詞文)

 結論として、朝鮮語において、自動詞からの{이}接辞派生による従来「使動詞」と呼ばれてきたものは、一義的には「他動詞」と認識すべきであり、従来の「使動詞による使動法」は「他動詞の使動的用法」と考えるべきである。同様に、他動詞からの{이}接辞派生による従来「被動詞」と呼ばれてきたものは、一義的に「自動詞」と認識すべきであり、従来の「被動詞による被動法」は「自動詞の被動的用法」と考えるべきである。

 (大阪外国語大学講師)

 

第11回 1993年10月30日(土)13:00~16:00 なにわ会館

 

日本と韓国大学生の政治意識比較分析

全得柱 (韓国 崇実大学校教授)

(本部事務局主催の特別講演会を兼ねる形式で開催)

 

第12回 1993年12月18日(土)14:00~17:00 たかつガーデン(大阪府教育会館)

 

国民年金制度における在日外国人への障害年金不支給問題について

慎 英 弘

 

はじめに

 この小論では、1982年1月1日の時点で20歳を越えている在日外国人障害者に国民年金制度における無拠出制の障害年金が支給されない問題について記述する。
また、同問題を改善するための取り組みについても述べることにする。

1、なぜ無年金となったか

 1959年11月1日から国民年金法は施行された。1981年12月末までの期間における国民年金への加入対象者は「日本国民に限る」とされていた。そのため、日本で生まれ日本で育ったとしても外国国籍の者は同年金に加入することができなかった。ただし、在日アメリカ人の場合だけは、1953年の日米通商航海条約に基づいて同年金に加入することが認められていた。
1981年には日本は難民条約を批准し、それは翌年1月1日から発効した。それに伴い国内法が整備された結果、国民年金法の「日本国民に限る」という国籍要件が撤廃され、在日外国人も同年金に加入することができるようになった。しかし、日本国民とまったく同じ適用状況にはおかれず、4つの問題を残した。そのうちのひとつが、1982年1月1日の時点で20歳を越えている在日外国人障害者には「障害福祉年金(現在の障害基礎年金)」が支給されないという問題である。
1959年11月1日の時点で20歳を越えている日本国民の障害者の場合はどうであったか。このときには経過措置がとられ、障害福祉年金を支給したので無年金にならなかった。1982年のときにもまったく同じ状況があったにもかかわらず、厚生省=政府は障害福祉年金を支給するという経過措置をとらなかったのである。その理由として厚生省=日本政府は、国民年金制度は社会保険方式である、1982年の外国人適用は制度拡大であり拡大のときには経過措置をとらないのが普通である、のふたつを挙げている。
1986年4月1日から新国民年金制度がスタートした。そして、障害福祉年金は障害基礎年金と名称が改められた。そのほか、様々な改革がなされたが、在日外国人の無年金障害者の問題はまったく改善されず、それは今日にまで及んでいる。仮に「帰化」して日本国籍を取得したとしても、かつて支給されなかった者には依然として支給されないのである。

2、自治体の救済制度の実現

 このような状況を是正させるために1983年から当事者の運動が始まった。福岡に住む在日朝鮮人障害者のその運動は、その後東京や神戸や大阪等々へと広がっていった。
当事者の運動は2つの柱からなっている。ひとつは国民年金制度の抜本的改善を実現するために厚生省に働きかけることであり、他のひとつはそれが実現するまでの間、暫定的措置として障害基礎年金に代わる自治体独自のなんらかの制度を実現するために地元自治体に対し働きかけることである。
厚生省はいまだに在日外国人無年金障害者の問題を改善しようとはしない。しかし、自治体のなかには、暫定的措置として給付金や福祉金の名目で自治体独自の制度を創設するところが出てきている。1994年3月末現在、全国55の自治体でこの救済制度が実施されており、なかでも大阪府下では全自治体が実施している。

おわりに

 自治体が救済制度を実現したのには、当事者運動があったことと、在日外国人も住民であることを自治体が認識したこと、の2つが背景にあったといえる。そして、この自治体の救済制度は、1994年度にはさらに数十の自治体で実現するまでに広がっている。
自治体の救済制度はあくまでも暫定的措置にすぎない。抜本解決はやはり国民年金制度の改革である。それが実現するまでは自治体の救済制度が抱える課題をより充実させる方向で改善する必要がある。その課題とは、支給対象者を障害基礎年金と同じ者にすることであり、支給金額を障害基礎年金と同額にすることである。

(註)
詳しくは拙著『定住外国人障害者がみた日本社会』(明石書店、1993年)第2章を参照されたい。(研究会当日の発表に一部補充した)

(神戸大学講師)

 

 

 

第13回 1994年2月26日(土)15:00~17:00 たかつガーデン(大阪府教育会館)

 

 

「国際高麗学会 北京学術会議 第2回 『統一を志向する哲学』に参加して」

 

金成秀 (大阪経済法科大学助教授)

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報 告

 

 

第4回日韓社会教育セミナーに参加して

 

 

李月順

 

 第4回日韓社会教育セミナーが、1993年12月19日から22日の4日間にわたり、川崎市教育文化会館・川崎市いさご会館で開催された。このセミナーは、韓国側研究者14名、中国広州市6名、香港2名、台湾2名、マカオ1名、そして日本側研究者26名をはじめとして、川崎実行委員会に関わった多数の参加者によって成功裏に終わった。

 『日韓社会教育セミナー』とは、ASPBAE(Asian Pacific Bureau of Adult Education)に参加した日韓の教育学者の話し合いのなかで生まれたものである。ASPBAEは、ユネスコの登録NGOである国際成人教育協議会(Internatinal  Council for Adult Education=ICAE)の世界8地域組織のひとつである。
ASPBAEは、さらに南アジア、東アジア、東南アジア、南太平洋、の4つのブロックに分かれている。日韓の教育学者はこの東アジアに参画している。

 第1回は、1991年1月ソウル市で、「識字教育に関する日韓の取り組み」をテーマとして開かれた。第2回は、1992年1月大阪市で、「平和のための社会教育」をテーマとして開かれた。第3回は、1992年12月大邱市で、「産業社会における社会教育と民主主義」をテーマとして開かれた。今回は、「産業社会における社会教育と民主主義~Ⅱ~」をテーマとして開かれた。
今回の日本側代表は、元木健(大阪経済法科大学教授・大阪大学名誉教授)であり、韓国側代表は、金宗西(韓国教育開発院理事長・ソウル大学名誉教授)であった。そして、今回在日朝鮮人(韓国籍・朝鮮籍を含む)の多住地域である川崎市で開かれたのは、自治権センターの要請による。

第1セッション

 12月19日午後2時から川崎市教育文化会館で開会式が行われた。そのあと午後2時30分から5時30分まで第1セッションーー教育研究と教育の現実ーーについて2本論文が発表された。ひとつは、堀尾輝久「日本における教育研究運動の歴史と課題」であり、もうひとつは、鄭在哲「韓国における教育研究の最近の動き」である。
堀尾論文は、日本の教育研究運動を明治から現在に至るまでを整理し、現在では、人権・平和・国際連帯の教育の模索と生涯学習論構築の必要性に迫られており、そうしたことを考えるうえでグローバルeducationの必要性を提唱した。
鄭論文は、韓国の教育学研究が、日本の植民地政策により教育学そのものを発展させることは困難であり、研究者自体の数も少なく、大学教育そのものが本格的に実施されたのが1945年の解放後であったことを述べている。そして、堀尾氏の提唱したグローバルeducationは、特殊性と普遍性の二面を考えなければならず、強者の論理にもなり得る普遍性を検証しながら、弱者の論理である特殊性を考えていかなければならないと述べた。そのためには、まず第一に民間レベルの交流が必要であるといった点で一致した。

第2・第3セッション
12月20日、午前中第2セッションーー社会教育論(Ⅰ)社会教育と女性の学習ーー、午後から第3セッションーー社会教育論(Ⅱ)社会教育の施設・職員・計画ーーがもたれた。
第2セッションでは、崔云實「韓国女性社会教育協会の歩みと課題」、千葉悦子「日本農村における女性の学習活動」が報告された。
第3セッションでは、長沢成次「日本における社会教育施設・職員論の系譜と課題」、権斗承「韓国における社会教育施設・職員について」、岩淵英之「川崎市における教育改革の試み」が報告された。

第4・第5セッション

 12月21日、午前中第4セッション--社会教育と学校~社会教育と職業教育--、午後から第5セッション--識字とマイノリティー--がもたれた。
第4セッションでは、韓駿相「韓国における職業教育の課題」、元木健・田中万年「日本における職業教育・職業訓練」が報告された。
第5セッションでは、裴重度「川崎市における『外国人教育方針』の制定と運用」、金済泰「識字と成人基礎教育に関する韓国文解教育(識字教育)協会の活動」、森実・李月順「大阪における『国際識字年の10年中間年』に向けた取り組み」を報告した。森論文は、大阪における識字の10年の中間年をめぐる全体的な動きを紹介したものであり、李論文は、夜間中学をめぐる動きについて報告したものである。

第6セッション

 12月22日、午前中第6セッションーー日韓相互理解のための教育ーーでは、文龍麟「韓日間の相互協力のための教育について」が、問題提起のたたき台として報告され、その後「今後の協力活動のあり方について」討論が行われた。
文論文は、韓日間に平和意識を定着させるためには青少年に対する教育が不可欠であるとの認識から、韓日間の平和共存のための概念モデルを提示したものである。
文論文をたたき台に、これからのセミナーのあり方を含めた討論が行われた。共通する価値観として、他民族を抑圧することに反対し、植民地政策及び、同化政策に反対する認識をもつことを前提とすることが確認された。さらに、国家的枠組とともに、民衆的枠組をどう作っていくかといった問題が提起された。そのためには、教育分野別に交流を広げていくことが必要であり、共同研究テーマによる“平和共存のための共同調査”といった具体的な提起がなされた。

公開シンポジウム

 午後2時10分から5時まで、公開シンポジウム「東北アジアにおける生涯教育の現状と国際協力の課題」が開かれた。
このシンポジウムでは、金信一「韓国の平生教育(生涯教育)における国内課題と国際協力」、上杉孝實「日本における生涯学習活動の現状と国際協力の課題」、梁日新「中国・広州における成人教育の現状と東北アジア交流への期待」、ロレンス・チュイ「アスベ第2サブリュージョンの課題と展望」の4本が報告された。
そのなかで、金報告では、韓国が“軍事政権”から“文民政府(民主政府)”移行に伴う教育課題を述べ、“国民社会”から“市民社会”発展に向けて市民教育が重要であり、教育者はそういう意味で歴史的使命をもっていると述べられた。
上杉報告では、日本の問題として、生涯教育の観点から学校教育・社会教育をどうするのかといった問題があるが、国際協力の根底には“平和”の視点が不可欠であり、地方自治体のもつ可能性として社会教育セミナーを開く必要があるのではないかと述べられた。
日本語・朝鮮語・中国語の3ヶ国語での討論であったため時間の制約を受けたが、東北アジアを視点においた試みであった。
今回のセミナーの論文を通してのひとつの特徴は、日本側・韓国側で発表された論文の焦点のとらえ方であった。日本側の問題の視点はどちらかといえば、この日本社会のなかにある実践、教育現状におかれたものが多かったのに対し、韓国のそれは国家政策と関連した教育政策からとらえたものが多かった。しかし、このセミナーの最大の財産は、研究者の交流を通じてそれぞれの国における教育問題の課題の違いとともに、共通する教育課題への取り組みの必要性を確認したことである。そういった意味でこのセミナーの継続は重要だと思われる。

(関西大学講師)

 

 

報 告

 

 

国際高麗学会主催「統一を志向する哲学」に参加して

 

金 哲 雄

 

 

 国際高麗学会主催の学術討論会・第2回「統一を志向する哲学」は、1994年2月21日、22日の2日間、昨年8月に開かれた第1回「統一を志向する言語と哲学」の成果をふまえて、中国・北京の建国飯店で開催された。参加者は大韓民国から10名、朝鮮民主主義人民共和国から4名、中国から崔応九・北京大学教授(国際高麗学会会長)をはじめ5名、アメリカから2名、日本から呉清達・大阪経済法科大学副学長(国際高麗学会副会長)、金哲央・朝鮮大学校教授(国際高麗学会哲学・宗教部会委員長)など6名の合計27名であった。本討論会は、南北朝鮮、および海外からの研究者による専門者会議であった。
本学術討論会は、各報告に対して各コメントがなされた後に質疑応答を行うという形式で進められ、共通言語として朝鮮語が使用された。討論会の報告者およびテーマは次の通りである。

22日午前
(1)金永斗(韓国・圓光大学校教授)圓仏教の相生哲学と統一観
(2)呉享根(韓国・東国大学校教授)民族の共同體意識と和諍思想
(3)宋基得(韓国・牧園大学校教授)南韓のキリスト教神学は同胞の統一のために何ができるだろうか
22日午後
(4)朴承徳(朝鮮・民族問題研究会会長、教授)チュチェ的民族観と祖国統一の当面問題
(5)金京振(中国・中央民族大学副教授)朝鮮近代宗教の圓融観念の統一観
(6)金道宗(韓国・圓光大学校教授)生産様式の変動と文化的生産力
(7)李天洙(朝鮮・元山農業大学教授)全民族大団結は我が民族救援の正しい道
23日午前
(8)崔龍水(中国・中共中央学校教授)歴史哲学の角度から見る朝鮮統一
(9)金哲央(日本・朝鮮大学校教授)理気論から見た東学思想とその人間観
(10)姜ミョンチョル(朝鮮・人民大学習堂副教授)祖国統一と人民大衆の主導的役割
(11)盧泰久(韓国・京畿大学校教授)天道教の平和観ー造化思想と関連して
23日午後
全体討論(司会:金哲央教授)

 以上のように本学術討論会では、仏教に関して3編、チュチェ思想に関して3編、東学思想(天道教)に関して2編、キリスト教、朝鮮近代宗教、歴史哲学に関して各々1編ずつの計11編の論文が報告された。そのうち、南からの報告が仏教、天道教、キリスト教といった宗教関係の論文であったのに対して、北からの報告がチュチェ思想に基づいた論文であったことが特徴として挙げられる。そして、全報告を通じてのきわだった論点は、自己の専攻分野から朝鮮の統一にどのようにアプローチできるかというものであった。
ここでは、南からは金永斗「圓仏教の相生哲学と統一観」、宋基得「南韓のキリスト教神学は同胞の統一のために何ができるだろうか」、北からは代表論文としての朴承徳「チュチェ的民族観と祖国統一の当面問題」についてごく手短に紹介し、他の論文を含めた全報告についての感想を述べてみたい。

 金永斗論文は、Ⅰ「はじめに」、Ⅱ「東洋の五行思想」、Ⅲ「圓仏教の相生哲学」、Ⅳ「圓仏教の統一観」、という体系で構成されている。金永斗教授の見解は、圓仏教(1916年に全羅北道益山郡で開宗された仏教教派の一つ)とチュチェ思想との6つの類似点を優先的に注目し、恩思想と相生哲学に基づいた調和と共生志向の統一観が統一朝鮮をめざし得る、とする注目すべきものだった。
宋基得論文は、3つの体系(1「キリスト教神学」、2「民衆神学」、3「人間化の志向」、「結び」ーー筆者)から構成されている。宋基得教授の見解も、キリスト教神学が統一に参与するためには第一に民衆神学にその実体を確保すること、第二に「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」という「人間化の志向」によって南のキリスト神学と北のチュチェ思想が意を同じくして対話・協力していかなければならないとするもので、その実践活動も含めて重要な見解であるといえる。
朴承徳論文は、次のような体系で構成されている。「はじめに」、Ⅰ「チュチェ思想の民族観」(1「民族は自主性を生命とする集団的生命体」、2「民族の特出した地位と役割」)、Ⅱ「祖国統一の当面問題」(1「連邦国家案と国家連合案」、2「民族的統一と制度上の統一」)。
朴承徳教授は、チュチェ的民族観には民族を優先視する立場が貫徹されているとし、朝鮮の統一方途に対するきわめて重要である連邦国家案と国家連合案、民族的統一と制度上の統一について力説した。この見解は、民族的立場から出発して民族全体の自主性を実現できる社会制度を選択する、という重要な問題を提案したものであった。

 これらの3つの論文と同様に、他の論文も自己の専門分野から朝鮮の統一のためにどのようにアプローチできるかというものであった。そして、互いに立場が異なるにしても、統一に貢献しようという一点で充実した学問的な論争が展開されたのである。第2回「統一を志向する哲学」が朝鮮の統一に対する南北の研究者の見解を接近させるうえで大きな契機になったことは間違いないだろう。
今日でも、専攻分野を同じにする南北朝鮮の研究者が一堂に会することがきわめて数少ない状況のなかにある。この点からして、2回にわたって、哲学・宗教を専攻する南北朝鮮の研究者を中心に朝鮮の統一について論議を交わしたことは画期的なことであるといえる。来年に開催予定の第3回「統一を志向する哲学」が大いに期待されるところである。

(大阪経済法科大学助教授)

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エッセイ

 

魂の原郷

 

前田 憲二

 

 日本人と日本文化のルーツ探しを心の赴くままに探求しているうちに、とうとう深みに陥って「神々の履歴書」「古代史探訪」「土俗の乱声」「鉄と伽耶の大王たち」といったように、この7、8年間でついに4本の作品を創ってしまった。
つまり日本列島は古代朝鮮文化が総花的に犇めき、ときには堂々と、ときにはひっそりとはにかむように咲き乱れている。

 私が特に朝鮮文化に目覚めさせられたのは、20数年前に「日本の祭り」というシリーズ作品群を演出・構成したことによる。これはテレビ作品であったが、旅先を棲家として生活した所以で朝鮮文化に目覚めたと思っている。何故なら青森県八戸に「新羅神社」があり、そこを本拠にして「えんぶり」という祭事が連綿と継承され、東京浅草の「三社祭」では三基の神與に乗せられた御祭神は、檜前浜成、檜前竹成、土師仲知でいづれも百済を本貫とした神々たちであった。なにゆえに朝鮮名の神社や御祭神がこうも多く日本に存在するのか。その素朴な疑問が、こころで半鐘として高鳴り、以来どっぷりと朝鮮渡来文化にのめり込んでしまった次第だ。
私を取材する新聞記者たちの言を借りれば「日本列島は渡来系文化で成立している…。何故いまさらそんなことをテーマにして作品を創るのか」と。実は、この考え方には大変な落とし穴が潜んでいる。豪族・王族・首長とも呼ぶべき貴族たちの遺跡を垣間見るだけで、渡来した民衆たちの生活を根こそぎ欠落し、見落としているのだ。文化は王族だけがつくるものではなく、民衆と共につくり上げるものだ。祭事や芸能といった民俗を通して渡来文化を検証し、凝視すれば、そこには文献だけでは得ることのできない朝鮮渡来文化が色鮮やかに一目瞭然と競い合って見えてくる。
天皇家が管理する古墳をあばけば、渡来人のルーツがはっきりするのでは? という意見も一方では多い。それも楽しみのひとつだが、それだけでは何の解決にもつながらない。
天皇家や為政者たちが覆い隠してきたベールを剥がすことで、歴史の真実を直視せねばなるまい。その作業や究明は、本来誰もがやらねばならないことだと考えるが、これはまったく陽の当たらない世界だ。

 「神々の履歴書」という長編記録映画は、渡来した豪族、貴族らを追跡した作品だが、「土俗の乱声」は「水稲耕作に伴う殺牛馬祭と星への信仰に絡む習俗」という二本を柱に、中国や朝鮮半島、そして日本の祭事を徹底的に追求した作品だった。
幸い「続日本紀」や「日本書紀」には“牛を殺して諸々の神を祭る”“牛を殺して漢神を祭るに用いることを断ず”と屠殺を禁じる記述が多くみられ文献として役立った。
また一方では、“北辰を祭るを禁ず”と六国史に記されるように、中世の頃は「御燈祭り」が流行したが、殺牛祭も星祭も共に各地で発達し、これが風俗を乱すため為政者たちはこのふたつの祭りを断固として禁じている。しかしこれらの祭りは共に中国でおこり、朝鮮で発達した習俗が日本の各地へと広がったためである。

 一昨年、韓国のKBSからでかい作品を創らないかと打診があり、およそ1年数ヶ月をかけて「鉄と伽耶の大王たち」というスペシャル番組を監督した。私にとっては10数年ぶりのテレビドキュメンタリー作品であった。
この作品では好太王碑に刻まれた「倭」の記述を考察し、「倭」は、日本列島全体を指すのではなく、朝鮮半島南部、つまり伽耶や対馬、北九州にかけての一帯が「倭国」であることを明確にした。そのため「任那日本府」は確実に存在しないということを映像で解き、「任那日本府」説を完全に否定した。
伽耶は6つから7つの国家で形成された連合国家とされているが、高句麗、新羅、百済のように明確な史書が遺されていないため、近年までその実体は謎に包まれていた。しかし近年、韓国考古学界の飛躍的な発達によって、伽耶は武器や農具など膨大な鉄器を生産する「鉄の王国」であることが判明した。
つまり伽耶は562年に、新羅の攻撃で滅亡するのだが、その後に列島は鉄文化が飛躍的発展を見せるのだ。言いかえれば倭国の母体が列島に形成され、日本の統一国家誕生に多大な影響を与える結果となる。そのため列島全体が「倭国」と呼称されるのは7世紀中葉に及ぶことになる。これは井上秀雄先生の論に詳しい。
「三国遺事」や「三国史記」に記述される倭の所在は朝鮮半島南部海岸地帯と対馬・北九州を指していると解釈せねばなるまい。
いまわたしは中世の頃に発展した傀儡、つまり漂泊の旅芸人である人形遣いについて究明している。それ以前、つまり奈良時代には朝鮮半島から散楽が列島へと伝えられ、田楽や猿楽へと伝存された。田楽は民衆の農耕儀礼に行われる芸能で、歌舞だけでなく、曲芸なども活発だった。日本各地に残される里神楽、豊年祭、鹿踊、獅子舞などはその系譜に入る。朝鮮の古芸能の系譜から流れた広大、楊水尺、禾尺、白丁といった流れのなかで、同時に傀儡や各地に残された人形芝居、デク、デコ等々を捉えていかねばと考えている。これらすべての芸能漂泊者たちは言うならば差別構造のなかにいまも封じ込められているのだ。

1994年1月、わたしはこのテーマで(仮題)「芸能曼陀羅」をクランクインさせた。作品の完成は1995年春の予定だ。
(映画監督)

 (すべての作品の問い合わせは映像ハヌルへ。03-3228-4065)

 

エッセイ

 

小さな提言

 

新田 牧雄

 

端的にいえば、日韓・日朝間の山積みの問題なり齟齬の修正回復は教壇から、換言すれば教育による以外の術はないとの確信と自負で、世界史なり日本史で、私なりの日韓・日朝関係史の授業展開をしてきたが、最近その成果の全てが水泡に帰すようなケースに直面して、改めて「こじれた」感情なり考え方の修復の難しさを痛感するとともに、新年度にむけての新たな抱負と模索についてご批判を得たく筆をとったしだいである。
昨年Aは単独で、Bはツアーの一員として訪韓し、いずれも観光日程中、場所等は異なるも、ガイド嬢によりーー奈良(市)(県)が古語朝鮮語の国土・都を意味する艦虞に由来する…ーーとの説明で、平城京なり寧楽の都の地が、渡来人により構築運営されたことになってしまうとも、受けとめかねない印象を与えられたと悲憤の態。これと同様の事例は、3年前にもあり、枕詞は古代朝鮮語であったとする、李寧熙の「枕詞の秘密」・「もう一つの万葉集」の刊行時でも遭遇。些かたりとも朝鮮史専攻の筆者にとっては、前者については、古語朝鮮語に由来するとの理由として、当時の政治・社会制度史的な面から考察し、ナラとは前例の他に、楢・鳴・那羅・乃楽等があること、日本書紀の那羅山の条の「草木をふみならす…」や、万葉集の「青丹によし寧楽のみやこは…」を例示し、縷縷説明したはず。後者については、筆者なりの教材資料として興味津々耽読したのではあったが。
日韓関係を位置づけるのに未来志向なる語が登場して久しいが、今回訪日の金大統領の「過去の感情にとらわれない両国の若人たち」、「過去がこれ以上の未来を拘束してはならない」、「共存共栄の精神に努力し」、「偏見を捨て心の扉を開き放て」のいずれもが筆者には、教育に関与する者への叱咤であり、教育効果の期待、一段の奮起の希求とうけとめたのであるが、さらに孔大使の、国境のない時代と分析されての、日本文化受容を示唆されたことも、教育関係者への警鐘とうけとめることができよう。複写文化・反射文化・雑種文化・刀の文化と多様に評価されている日本文化、とりわけ扇情・暴力性むきだしの大衆映像文化には筆者自身嫌悪辟易しており、そのなかでも、キッタ・ハッタのヤクザ・サムライ的なものは日本文化の恥部以外のなにものでもなく、困惑の極みでもある。
高校でも、本年度より新学習指導要領による教育課程の授業展開が実施。これで小・中・高校の教育内容が一新され、担当の高校社会科も大幅な改革をみ、地理歴史科(地歴と略称)と公民科の2本立てになった。今回の改訂は、従来の日本史・世界史が前述のように地歴科として一本化され、他領域から独立したことにある。加えて標準単位数により、Aとして2単位、Bとして4単位とその履修内容と目的を刷新した点である。その特色とする目標をみると、世界史では現代世界の形成の歴史過程について、歴史的思考力の涵養を基底に、Aでは近現代を中心に、Bでは各文化圏の特色・多様性・複合性・相互交流等の広い視点からその形成過程を考察させるにあると明示し、日本史部門では、わが国の歴史の展開を、Aでは近現代社会の成立発展の過程を、Bではわが国の歴史的展開を世界史的視野にたって、総合的に理解させるとある。
以上の諸点を筆者の今後の課題として、その対応の一端を例示してみる。
1)東アジア史といえば、中国王朝変遷が主であり、その社会構造等には細部まで触れるものの、隣接諸国は従で簡略である。
①世界史担当の同僚のなかには、新羅の三国統一に触れても、花郎と郎党、骨品制に言及もなければその評価もない。
②世・日史とも広開土王碑には時間をかけるものの、真興王碑は未知・無関心。
2)エミルレの鐘等の物語の史料・資料化。
3)救国主としてのジャンヌ・ダルクについての評価と同等の、3.1運動のソウル市内の女子学生の行進の史的評価と教材化。

 筆をおくにあたり学会に対しての要望
1)小・中・高校の教員を主体の教育(者)部会の設置
2)在日の韓国籍・朝鮮籍の人びととの教育問題についての場の交流企画、または斡旋
3)学会監修、または校閲による日・韓・朝の高校教員による授業展開用の副教材の作成とその流布
4)1)~3)の成果公開の発表を兼ねて、学術研究発表会の年1回の定期大会の企画と実施

(国際高麗学会会員)

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国際高麗学会日本支部事務所開設のお知らせ

 1994年3月、大阪市天王寺区舟橋にOIC(大阪情報コンピュータ専門学校)センタービルが設立され、このセンタービル4Fの1室が新しく国際高麗学会日本支部事務所として誕生しました。場所もJR鶴橋駅から北へ環状線に沿って徒歩約5分と大変便利な立地です。
OICセンタービルは、専門学校教育のさらなる発展と1・2Fのはなぶさ診療所の医療奉仕活動をはじめとして、様々な地域交流・国際交流の活性化を目的に、設立されたものです。
本学会日本支部事務局も、本部事務局との緊密な連携のもと、日本地域におけるコリア学の一層の発展のため、努力していこうとはりきっています。一度気軽にお立ち寄りくださるようお願いします。温かいコーヒーなどでおもてなしいたします。また同じ4Fには研究会等のための施設も充実しておりますので、会員のみなさまは当事務局にご連絡のうえぜひご利用ください。(事務局員・都知美)

〒543 大阪市天王寺区舟橋2-2 OICセンタービル4F
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