日本支部通信 第13号 (2000.7)

巻頭言

 

南北首脳会談とコリア学                   高龍秀

 

 歴史上初めての南北首脳会談が実現した。多くのコリア研究者が注目し、その成果を見守ったことであろう。金大中大統領がピョンヤンの空港に到着した時、金正日総書記が出迎え、首脳会談後の出発に際しては両首脳が空港で抱き合い、互いの信頼関係を確認しあった姿は、確かに感動的であった。また今回の首脳会談では、かつてないほど金正日総書記の映像と肉声を見聞きした。訪朝団に対して数々の冗談を口にする姿は、これまでの総書記のイメージを大きく変えることにもなったであろう。
今回の首脳会議の意義は、何よりも両首脳が南北の和解・経済協力・統一方案などを直接議論することで両首脳の信頼関係を築いたことにある。50年におよぶ分断時代による相互不信は深刻なものがあり、これを解きほぐすには多くの努力が必要であろうが、今回はその第一歩を踏み出したといえよう。また、首脳会談で合意した共同宣言は、72年の南北共同声明や91年の南北基本合意書より踏み込んだ内容であり、両首脳が署名し今後の南北間協議の継続に合意したことに意義があるといえる。
首脳会談により朝鮮半島情勢が急展開を見せていることは、われわれコリア学にかかわるものに、多くの課題を提起していると言える。思い付くものをあげれば、次のようなものがある。
まず第1に、統一方案の問題である。共同宣言では、統一方案について南側の連合制案と北側の連邦制案の共通性を認め、この方向で統一を目指すことを確認した。従来の南北対話では双方の主張の相違点を指摘することが多かったが、今回は相違点でなく共通性を尊重することで合意に至ったことは大きな前進であろう。今後、連邦制(連合制)の細部の問題として、南北を包括する統一機構(政府)の権限・地方政府の権限など、統一に至る諸段階での政治機構をどうするかという問題が、コリア研究者の課題となろう。
第2に、今回の韓国側の訪朝団には、企業関係者も多く含まれ、今後、南北経済交流が活発化されることが予想される。すでに、衣料や家電製品などでは北側で委託生産された製品が韓国や日本にも搬入されているが、今後、ソウルと新義州を結ぶ鉄道の復旧や、その沿線地域での工業団地建設など、これまで以上の経済交流が展望されている。他方で、経済危機を経た直後の南の企業に経済協力の余力がどの程度あるか、失業対策と金融機関への公的支援で財政赤字の膨らむ韓国政府にも対北支援の財源をどうするかという問題が残されている。南北経済交流は、将来の民族経済の再構築という展望をもちながらも、その実現には多くの課題があり、その研究が求められているといえよう。
第3に、南北の和解の動きを具体的な軍事的緊張緩和の定着へとつなげるかという問題がある。朝鮮半島の休戦状態をいかに終わらせ平和体制を築くかという課題であり、これは南北に米国など周辺国も含めた国際関係の再構築が必要になる。米日は、北側のミサイル問題などを強調しており、戦域ミサイル防衛(TMD)構想の共同研究や米本土ミサイル防衛(NMD)構想をめぐり、共和国や中国との対立が見られている。ポスト冷戦時代の新しい東アジアの平和体制の構築への研究が求められているだろう。
今回の首脳会談は、ポスト冷戦に向けた新しい東アジア秩序に向け大きな一歩を踏み出したことに意義がある。しかしこれはまだ一歩に過ぎず、その後どのような新秩序がつくられるかは不透明なままである。そこには、より具体的な和解と統一への過程、経済、国際関係、軍事問題など数多くの問題があるだろう。これらの課題に対して、国際高麗学会はこれまで培ってきた学際的な研究の蓄積を土台に、21世紀に向けた朝鮮半島の新しい秩序のあり方について、より深い研究交流が求められているといえよう。

(国際高麗学会日本支部評議員 甲南大学教授)

 


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【特別講演会報告要旨】

 2000年3月6日(月)18:00~20:00 OICセンター 会議室

 

私の研究活動について
張 敏 

 

 私は1996年3月31日より2000年3月31日まで、北京大学と大阪経済法科大学の交換教授として日本に滞在した。いうまでもなく、大学の教授に求められる主要な仕事は「学生に授業をすること」と「専門の研究を行うこと」、そして「学会活動を含む社会サービス」である。
私は授業以外に大阪経済法科大学総合科学研究所で活動すると同時に、高麗学会日本支部で2年間研究活動に参加したので、私の指導先生、金哲央教授の熱心なご指導と諸先生たちのご鞭撻のおかげで自分の研究を一層深め、研究視野を一層広げるようになった。
3月6日、甲南大学の高龍秀先生の司会で、私はこの間の研究をめぐって特別講演をした。その後、諸先生は、漢字言語の将来への発展や、忠孝悌という東洋伝統文化や、中韓日の学生の異なる特徴に関する私の見方などを質問なさった。これらの質問について、私の考えをまとめてご報告する。


Ⅰ.「譯」「」「訳」
1956年、中国で「漢字簡体化法案」が公布され、合計533文字の簡体字(略字)を発表した。これに基づき、1977年、第二次漢字簡体法案において517の略字が発表された。例えば、古い繁体字「譯」が簡体字「」に変身された。最初、文字改革を前向きに討議するとき、ある中国の学者が「本来なら簡体字の制定は韓国、日本と協議しながら進めたほうがいいのだが……」と言った。当時の中韓、中日関係は冷戦中であった。三国の学者たちが一堂に座る条件がなかったのは残念であった。
戦後、日本では「譯」のような旧体字を直し、独自の新体字を編出した。例えば、「譯」を「訳」にした。韓国ではそのまま「譯」を用いている。タイムとスペースの変化によって漢字の外観と内包も変わっていく。19世紀の末、中国で旧い文語を口語化する「白話文」運動が起こって、20世紀の50年代に漢字の繁体字を略化する文字改革を行った。それから三国の漢字の差がさらに大きくなった。例を挙げれば次のような言葉がある。
漢字言語の将来への発展において、恐らく三つの道があり、それは多様化、統一化と西洋化であろう。今のままに旧新体を各自なりに使っていくか、三国と多地域の漢字統一使用法案を共同的に検討するか、あるいは情報化社会のコンピュータの普及に従って漢字のかわりに英語化するかが問われている。
今年、日本では英語を第二公用語として習おうと声が上がっている。私は去年8月にソウルに行ってみると、ソウルでも漢字がほとんどなくなっていた。ところが、言語とは情報を伝える道具だけではなく、文化現象でもある。韓国語と日本語の主要的構成要素の一部となる漢字を英語のカタカナに直す可能性は恐らくつぎの世紀には出て来ないことだろう。私は漢字統一使用法案と東アジア史教科書を共同作成するために国境を越える多国学者の共同研究と編集作業を願っている。


Ⅱ. 「忠」「孝」「悌」
西洋哲学が東洋に伝えられる前に、新儒学と呼ばれる朱子学は東洋において、もっとも影響力の大きい唯一の哲学体系であった。新儒学思想は宋元明清の700年余りの期間、李朝では500年余り、徳川幕府では260年余りの間、盛んに研究されたことによって、東アジアの共通的価値体系になった。ところが、三国の新儒学の特徴はそれぞれ異なっている。
日本新儒学においては、「忠」を中心とする武士道精神をアピールする集団主義
朝鮮新儒学においては、「孝」を中心とする士大夫意識をアピールする家族主義
中国新儒学においては、「仁」を中心とする聖人思想をアピールする国家主義だといえる。
日本新儒学は経験価値を重んじて形而下学の即物究理に力を入れた。新儒学の「理」の意味が経験の範囲に解釈され、自然性と実在性、現実性を持つように工夫され、江戸時代の博物学の飛躍はこの即物究理、格物致知の方法論によるのである。他方で、「神儒合一」に変容され、天皇崇拝と儒家の「忠」と結びつき、忠君愛国、共同生死の武士道精神を表現する団体主義を特徴としている。
朝鮮の新儒学は「理」による道徳本体論の特徴を見つけて、主理と主気をめぐって理気の関係、四端七情の関係を激しく論争したことによって、正統的倫理性の原点を見つけ、最高道徳とし、教養と訓育を通じて庶民の日常生活の隅々にまで浸透してしまった。冠婚葬祭における「朱子家礼」の影響を深く受け、祖先崇拝と儒家の「孝」と結びつき、親孝行という血縁関係の家族主義を特徴としている。
中国の新儒学は形而上学の理性価値を重視し、道徳主義を提唱して、反功利主義の傾向がある。完全な人格を追求する道徳理性の自覚は「仁」に集中して表現されている。「天は父と、地は母と呼び、人々は皆私の同胞であり、物は私の親戚である……天地の為に堂々と心を立て、人民の為に道を開拓し、生民の為に学問を受け継ぎ、千秋万代の為に泰平世界を開こう」(これは私の論文「徐敬徳と張載思想の比較研究」の中で紹介している有名な中国の宋時代の性理学者、張載の語録である)。四海天下の人間と自然物は皆兄弟とする「悌」の思想、天人合一となる聖人の境界と大同世界へ到達するのは彼らのユートピア社会をめざす思想である。しかし、このような理想社会は現実とほど遠いので、空想主義とならざるを得ない。
しかし、今になっても伝統的な文化価値観は依然として三国の深層文化に残って、人々の思考方式を左右している。
去年、国際高麗学会日本支部第4回学術大会で宋連玉教授の報告「近代公娼制にみる植民地支配」に対して、日本の教授から「一種の職業としている公娼たちはそれを生活の生計に依存していたのではないか」という質問が問われた。ここには日本式の目の先の実用主義価値観という「一点」思考方式と朝鮮式の正統倫理道徳価値観という「原点」思考方式の相違が明らかに表れている。


Ⅲ. 世界一流の商品と一流の人材
去年の2月27日、韓国光州大学で3ヵ月研究なさった張年錫教授の講演会が高麗学会日本支部で開催された。その後、私は張年錫教授が紹介した当時、韓国で人気のあった「韓国が死んでも日本に追い付けない18の理由」という日本トーメンソウル支店長、百瀬格の著書を読んだ。まず、そんなにも率直な本音を出し、韓国の経済発展のため、誠意に満ちた意見を発表している日本人がいることに、感心し感謝する。私はなるほどと感じながらも、この本に対して自分なりの意見を二つ言いたい。
朝鮮は第二次世界大戦の最大の被害国である。大国間の利益の争いによって彼らの身体が残酷に二つに切られた。戦後、半世紀を過ごしたが、朝鮮半島で分裂の人間悲劇が続けられている。そのために、死ぬまで自分の息子、娘、親戚に会えない人々がおよそ1千万人存在している。彼らの心身両面についた傷から血が流れていてまだ治っていない。日本に追いつくことより、まず国家の統一を実現するのが彼らにとって何よりの願いであり、もっとも困難なことでもある。18の理由の中でこの一つこそ大事な理由ではないかと思う。
しかも、この一つの理由は日本の侵略戦争によって生み出されたものである。これはただ他国に迷惑をかけたという説のように簡単ではない。「克日」であれ「勝日」であれ、日本に追いつこうとする彼らの複雑な心理を著者もよく理解しているらしいけれども、私はそんな辛い状態で彼らが苦痛を乗り越えようと自信満々でいれば十分だと考える。彼らは死んでも出来ないことはおそらくないわけであろう。彼らの子孫たちが元気だからである。「朝鮮が一日も早めに統一し、南北の朝鮮の同胞が早めに逢うように心より願っている」という言葉は中国でよく言われているが、日本滞在の4年間には残念ながらここでこんな言葉を聞いたことはなかった。
18の理由の中には説得力のあるものが一つある。日本は世界市場で競争することができる優れた品質と世界一流の商品が生産できるが、韓国はまだだめである。それは間違いないと思う。ここから一つ連想することができる。
私は日本に来る前に北京大学外国語学院で中国の学生に朝鮮語、韓国語を教えたり、朝鮮と韓国の留学生に中国語を教えたりした。日本に来て日本の学生に中国語を教えた。三国の学生の特徴がかなり違うので面くらってしまった。いつも能動的に授業に参加する中国、韓国の学生と比べれば、日本の学生は一般的に学習意欲が低いし、自分以外のことにあまり関心をもっていない。勤勉で、真面目で、賢い日本国民は世界一流の商品を造って、日本は経済物質文明の大国として世界をリードしてきた。もし世界一流の商品を造る工夫をもって人間づくりを工夫し、世界一流の人材を養うことができるならば、これからもまた日本の世紀が開けると信じている。21世紀はいわゆる共生の時代である。「三人寄れば文殊の知恵」というのは共生の知恵ではないかと考えて、東アジア三国間の交流を盛んに行うことを望んでいる。

(大阪経済法科大学教養部)


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〔西日本地域研究会報告要旨〕
第38回 1999年12月21日(火) 18:00~20:00 OICセンター 会議室


韓国経済分析の一視角─不均等発展と国際過剰流動性─
金 俊 行 


1.韓国通貨危機の2側面
①韓国経済の不均等構造
②国際過剰流動性の急激な流出入
1997年通貨危機のみならず、不均等構造と国際流動性は、戦後一貫して韓国経済の「奇跡」と「危機」を演出してきた。
2.韓国経済構造における国際過剰流動性と不均等発展
①1950年代
②1960年代
③1970年代
④1980年代前半
⑤1980年代後半
⑥1990年代前半
3.OECD加盟と金融・資本市場自由化
①早期加盟推進の背景
②加盟論争「時期尚早論」
③資本・金融自由化の影響
4.部門間不均等成長と経済集中
①重化学工業・軽工業間成長格差
②財閥および公企業への経済集中
③国内不均等による対外不均衡
5.IMF「構造調整」と不均等構造の深化
①「信用梗塞」金融機関の仲介機能マヒ
②企業財務構造改善の内容
③輸出増大の内容
6.課題
①外資導入輸出主導型経済成長路線の是正
②産業政策の抜本的改革
③グローバル資本主義の共同管理への主体的参与
「ワシントン・コンセンサス」に対する批判的立場から主体的政策論争への止揚
先進国中道左派「第3の道」論争へのアジア的視角
「アジア的社会民主主義」の模索

(大阪経済法科大学助教授)

 

 

第39回 2000年2月26日(土) 17:00~19:00 OICセンター 会議室

 

「在日韓国・朝鮮人政策論の展開」の一考察──出入国管理特例法上の法的地位を巡って──
趙 誠 敏 


◇本稿の狙い
「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」(出入国管理特例法 1991年 法律71号)「の制定により、平和条約国籍離脱者及びその子孫の法的地位が「特別永住者」に一元化されるとともに、外国人の法的地位としてはこれ以上のものはない確固たる地位が保障されることになりました。問題の解決がこのように適正におこなわれたため、朝鮮半島がどのような形で統一されたとしても、統一朝鮮と我が国との間で在日韓国・朝餅人の法的地位が問題となることはありません」(坂中英徳「在日韓国・朝鮮人政策論の展開」P66~67以下坂中論文集)と主張されているが、その検証をすることである。


1 出入国管理特例法以前の平和条約国籍
離脱者とその子孫の法的地位と退去強
制事由
(1)法的地位
─在日朝鮮人の定義
日本で生活の本拠を持ち、ある特定の目的の終了とともに日本を離れることを前提としないで日本に住んでいる者
─在日朝鮮人の分類
● 植民地支配の結果として来日した人々とその子孫(平和条約国籍離脱者とその子孫)
● サンフランシスコ平和条約の発効以後渡日した人々とその子孫(新規渡日者)
─平和条約国籍離脱者とその子孫(植民地支配の結果来日した人々とその子孫)の法的地位の一元化
─出入国管理特例法以前の平和条約国籍離脱者とその子孫の法的地位
● 法律126号2条6項
● 特定在留資格
● 特別在留資格

──厚顔無恥な考え方とその背景──
「…当時の対外的な説明ぶりは、親は元日本人であるから在留資格なしに日本に居られる特別な地位を与える、その子は親が元日本国民であるから少し優遇する(在留期間の更新手数料を免除する)、その孫は外国人の子であるから一般外国人と同じ扱いとする…」(坂中論文集P6)
「在日朝鮮人が外国人の集団として未来永劫にわたって日本に居ることになるのは、治安に及ぼす影響その他の理由から好ましくない。それよりも不安定な状態のままにしておいて、本国に帰るか、日本に帰化するか」(坂中論文集P^7)

第1 植民地支配の反省と精算意識の欠如
外務省条約局法規課が1970年3月付けで出版した「日本統治時代の朝鮮」(『外地法制誌』第四部の二)の日韓併合の歴史的理由の項で「……統監府は韓国の国勢にかんがみ、人情を察し、韓国政府を指導し、緩急宜しきを図って施政の改善に努め、諸般の改革を行ない、……その国利民福の増進に鋭意傾倒すること四年有余、しかるに韓国の上下はなお悟らず、あるいは外国の努力を頼んでわが保護を排斥しようと画し、あるいは頑民たちが疑倶紛擾して安堵せず、ここに至って日本政府は根本的改善を韓国統治の制度上に加えなければならない必要を認め、…韓国を日本に併合」と論述。
第2 在日朝鮮人の基本的人権を保障するという考え方の不存在
第3 国際社会の動向に無関心

● 法律126号系は特例永住に一元化
● 協定永住資格

 1980年代初頭以降出入国管理特例法の施行(1991年11月1日)までは、平和条約国籍離脱者とその子孫は特例永住と協定永住の法的地位を有する者とに二分されていたのである。

(2)退去強制
─1965年以前 出入国管理令によって「一元化」
─1965年~1981年 出入国管理令と入管特別法により「二元化」
─1981年~1991年 出入国管理令及び難民認定法と入管特別法により「二元化」
─1991年以降 出入国管理特例法により「一元化」

◇出入国管理及び難民認定法(出入国管理令)の退去強制事由
◇入管特別法の退去強制事由

 

 2 出入国管理特例法の主な内容
(1)平和条約国籍離脱者と平和条約国籍離脱者の子孫は特別永住者として日本で永住することができる。

 ①平和条約国籍離脱者
日本国との平和条約の発効により日本国籍を離脱した者であるが、それらの者もさらに次の二つの類型に分けることができる。
第一の類型は、終戦前から引き続き日本に在留していた者
第二の類型は、
イ 第一の類型の子として終戦後から平和条約の発効の日までに日本で出生し、
ロ その後引き続き日本に在留し、
ハ 実親である父又は母が終戦以前から本人の出生の時まで日本に在留していた者

②平和条約国籍離脱者の子孫
イ 平和条約国籍離脱者の直系卑属(ただし実子に限る)で、
ロ 平和条約発効の翌日以降日本で出生し、
ハ 引き続き日本に在留し、
ニ 親が日本で出生(ただし親が平和条約国籍離脱者の第一の類型の場合は出生地は問われない)し、
ホ 本人の出生の時まで親が日本に在留していた者

(2)特別永住者については、退去強制が縮減された。

 ①内乱に関する罪・外患に関する罪により禁錮以上の刑に処せられた者(執行猶予の言渡しを受けた場合及び附和随行者等の暴動関与者に係る内乱罪の場合を除く)
②国交に関する罪により禁錮以上の刑に処せられた者
③外国の元首等に対する犯罪行為により禁錮以上の刑に処せられた者で法務大臣においてその犯罪行為により日本国の外交上の重大な利益が害されたと認定したもの
④無期又は7年を超える懲役若しくは禁錮に処せられた者で法務大臣においてその犯罪行為により日本国の重大な利益が害されたと認定したもの(坂中論文集P105~106)

(3)特別永住者が、再入国の許可を得て日本に戻る場合、上陸拒否事由については審査せず、旅券等が有効かどうかだけが問われることになった。

(4)特別永住者については、再入国許可の有効期間が最長5年にされた。

 

 3 出入国管理特例法の問題点
(1)平和条約国籍離脱者のうち第一の類型の者については、出生地(朝鮮・日本・他の国)は問われないが、在留の継続性が問われる。

(2)平和条約国籍離脱者のうち第二の類型の者と平和条約国籍離脱者の子孫については、いずれも血統、出生地、親の在留の継続性、及び本人の在留の継続性が問われる。

(3)退去強制が制度として依然として温存されている。
「…特別永住者といえども外国人の地位にある以上、日本の出入国管理の対象となり、無条件の居住権は認められません。法制上、一般外国人と比べて大幅に縮減されていますが、退去強制事由は残っています。特別永住者が日本国の重大な国家的利益を害するような犯罪行為をした場合には、本国に送還されることがあり得ます」(坂中論文集P53)
問題点
─植民地支配の結果来日を余儀なくされ、かつては日本国籍を付与され、解放後には国籍選択の余地も与えられず一方的に日本国籍を離脱させられた人々とその子孫を単に外国人だからといって強制退去の対象にすることが許されるのか。
─特別永住権を狭い意味の在留権の一種とだけ捉えるのではなく、それ以上のものと捉えるべきではないだろうか。

 

4 日朝交渉あるいは統一朝鮮と平和条約国籍離脱者とその子孫の法的地位
─現在の日朝交渉においても平和条約国籍離脱者とその子孫の法的地位の問題は論議されなければならない。
─法的地位は一度決められれば、未来永劫にわたって不変というものではない。
─三重の意味で問題
「統一朝鮮と我が国との間で在日韓国・朝鮮人の法的地位が問題となることはありえません」
現在の日朝交渉の視点・将来の統一朝鮮との交渉の視点・変化に合わせての交渉の視点

(専修学校 教員)

 

〔科学技術部会・医療部会研究会報告〕


第19回 2000年3月11日(土) 17:00~19:00 OICセンター 会議室

 

Invitation to Operator Algebras(作用素環論への招待)
宋 亀 


研究会では、表題のとおりの内容で発表したのですが、テーマの膨大さ故にその要旨をself-containかつcompleteに書くとなると大変である。数学の話は定義と概念から始まり、その考え方を展開し発展させた定理から成り立つ。それらの内容を知ることによってその分野を理解し、内容の素晴らしさを感じるのである。しかし、ここではその理論の内容に触れることはかなり専門になり、紙数も制限があるということで割愛させていただき、序論のさわりの部分を述べ、最後に私自身の研究テーマの概要を記したい。
作用素環論は数学の分野で分類すると関数解析学に属する。1990年に京都で開かれた‘ICM(世界数学者会議)90京都’では「作用素環論と関数解析学(Operator Algebras and Functional Analysis)」が一つの部門として立てられ研究発表がなされた。数学の他の代表的な分野である代数、幾何、トポロジー等と肩を並べるくらいに数学の一分野として確固とした地位を築いたと思う。
作用素環は、1929年にハンガリーの数学者、John von Neumann(ジョン・フォン・ノイマン)によって創始され、今日まで歴史的に見ればそう長くない70年の間に目覚ましい発展を遂げた。1970年代、80年代に当時の若手作用素環研究の第一人者であったAlain Connes(アラン・コンヌ:フランス)とV.Jones(ジョンズ:アメリカ)が数学のノーベル賞であるFields賞を受賞したことがそのことを如実に物語っている。
今日、コンピュータの生みの親(プログラム内蔵方式の計算機を提唱)としてよく知られているフォン・ノイマンが実は作用素環論を創始したことを数学専門家以外は知らないであろう。フォン・ノイマンはその他に数学基礎論、連続群論、連続幾何学、ゲームの理論、数理経済学の創始等あらゆる分野で活躍した20世紀最大の大数学者である。
作用素環論創始の時代的背景を見るとやはり表現論(Representation^theory)から始まるであろう。1888年S.Lie、1894年H.Cartanによる古典的群の有限次元表現、1926、27年にsemisimple Lieグループ環の有限次元(線形)表現、既約表現がある.
1900年代はじめには、D.Hilbertによる功利主義の数学が確立し、Hilbert空間論が展開された。1925年には物理学においてW.HeisenbergのQuantum^mechanics,^matrix^mechanicsがあり、1926年にE.ShrodingerがWave mechanicsを発表した。同じ年に無限次元表現論においてWeylとv.Neumannが大きく寄与、E.Noether,Artinの多元環の研究があげられる。
1929年にフォン・ノイマンは26歳の若さで「量子力学の数学的基礎」という博士論文を発表し物理学の数学的定式化に成功した。
このように作用素環論は量子力学と抽象数学の理論を引き継ぎ誕生した。
作用素環論の基礎となる論文は、フォン・ノイマンが弟子のマレーと1936年から43年の7年間で書き上げた「Rings^of^Operators1~4」(Murray^and^v.Neumann)である。その論文のはじめには動機として次の4つを記している。  1)作用素の計算、演算の枠を与えること、2)unitary表現論を古典的制限から解放すること、3)量子力学のための数学的手段を準備すること、4)有限性の仮定を満足しない抽象代数学を構築すること、この場合、既知の代数学と本質的に違った理論となるだろう。
3)の理論物理学では、いろいろな数学が使われており、特に量子力学は、無限次元Hilbert空間とその線形作用素を直接数学の対象とすることを要請している。量子力学物理系を作用素環論のC*環の理論で表現できる。
物理学の量子力学の理論に応用できるということを述べて前半の部分は終えるが、作用素環論は解析的な手法で問題を解き、結果は代数学で表現するという学問分野である。
次に、作用素環論は大別してvon^Neumann環とC*─環の理論に分かれるが、私の研究テーマである、C*─環(シー・スター環)の*─演算を保存しない有界な表現についての研究を少し述べさせていただく。
C*─環の*─構造が、ある代数的演算によって決まる他の構造とどのように関係するかを調べることはとても重要である。これは*─演算がこの理論において基本的な役割を果たしていることを意味する。一般には*─演算を保存する準同型を扱い、それらを使ってC*─環の構造を研究する。しかしながら、われわれは主に有界な非随伴(*─演算を保存しない)表現(以後、単に有界表現という)を扱い、これらの表現と*─表現との間の関係、すなわちC*─環の有界表現に対する相似性問題を考察する。この研究は結局C*─環における*─演算の役割を調べることになる。
今、AをC*─環とし、φ、π:A→B(H)をそれぞれ有界表現、*─表現とする。ここで、B(H)はヒルベルト空間H上の有界線形作用素全体からなるC*─環である。そこで、π=SφS-1となるH上の有界な可逆作用素Sが存在するとき、φはπと相似であると言う。相似性問題とは、すべてのφがπと相似になるか?、あるいはどのようなC*─環に対して上のようなことが言えるか?という問題である。
われわれは有界な表現が*─表現と相似であることとその有界表現が完全有界になることが同値であるという知られている事実より、有界表現のノルムと完全有界ノルムとの関係に着目し、k─相似性という概念を導入し、k─相似C*─環の性質を議論した。
また、これと作用素の微分問題と関連して、すべてのk─相似なC*─環は性質Dkを持つという結果を得た。
次に、有界表現の拡張を考えることによって、最近の話題の一つである作用素環のインデックス理論の結果と似たもので、C*─環のある種の有限次元拡大と相似性問題との同値条件を得た。
最後に、クレイン空間上の対称表現に対する相似性問題を扱い、一様性で不変性の条件を満たす閉部分空間との関係において現れてくる特殊な定数についての計算を行い、ある場合に表現の完全有界ノルムと関連がつくことを示した。以上の内容をテーマ別にまとめると以下のようである。
○K-similarity^for^C*-algebras
(C*─環に対するk─相似性)
○Applications^to^the^derivation^problem
(微分問題への応用)
○Extensions^of^bounded^representations^and^solvability^of^the^similarity^problem
(有界表現の拡張と相似性問題の可解性)
○The^similarity^problem^for^symmetric^representations^of^C*-algebras
(C*─環の対称表現に対する相似性問題)

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第6回コリア学国際学術討論会


第6回目を迎えたコリア学国際学術討論会は、2月18日から21日まで初めてハワイで開催された。Center for Korean Studies、大阪経済法科大学、国際高麗学会、北京大学の共催となる今回の討論会のテーマは「Critical Issues In Korean Studies In The Millennium」であり、会場はホノルル市内のアラモアナホテルだった。
最初の行事として、まず18日午後6時からホテル内でレセプションが催された。米国のほか、日本、韓国、中国、ロシアなど9カ国からやって来た参加者は300人にのぼった。いつものことながら、世界各地でコリア学の研究にいそしんでいる人々が一堂に会し、和気あいあいと語り合う光景には感動をおぼえる。
学術討論会は翌19日から21日までの3日間、午前9時から午後5時30分まで行われた。4つの部屋を利用し、政治・経済・歴史・言語・法律・教育・科学など30余のテーマに分かれて報告と討論が繰り広げられる。パネラーの総数は100余人をかぞえた。
各パネルでは、パネラーがまず20分程度の報告を行ったのち、質疑応答に入った。とはいえ今回は、参加者から質問を受けるだけでなく、パネラーと参加者が共に意見を交換する形で進められたため、密度の濃い議論が交わされた半面、ときおりユーモラスなやり取りに笑いがはじける光景も見られた。
また今回は、在米韓国人の研究者が多数参加したため、報告や討論が主に英語で進行されたのも特徴にあげられる。
この間、参加者同士の交流を深める面でも有意義な時間を過ごすことができた。19日夜には一同がバスでハワイ大学に行き、Center^for^Korean^Studiesでレセプションが催された。民族的な雰囲気の漂うセンターの内外で行われた立食パーティは、一同の心を十分なごませてくれた。
その後、Orvis公会堂に移動し、ソウル・アンサンブルの公演が披露された。芸術性の高いカヤ琴、パンソリ、サムルノリなどが次々と演奏されるたびに、一同は盛んな拍手を送っていた。
20日夜にはワイキキ・リゾートホテルのソウル亭で晩餐会が開かれ、焼き肉、ナムルなどバイキング形式の民族料理に舌鼓を打った。
最終日の21日夜には、再びアラモアナホテルで食事会が催された。席上、主催者を代表して姜希雄ハワイ大学教授が挨拶に立ち、「これまでのコリア学国際学術討論会がどちらかといえば量的な拡大に力を入れてきたのに比べ、今回は質的な面で成果を得ることに主眼を置いた」と語った。
たしかに今回は、参加者数においても従来の討論会にひけをとらなかっただけでなく、質的な面においても、討論に長い時間があてられたためきわめて実りの多いシンポジウムとなったということができるだろう。
参加者一同は名残尽きない想いを胸に抱きながら、22日朝にそれぞれ帰路についた。(K)

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故李慶泰先生を偲んで

 

 1999年10月14日、李慶泰先生は88歳の波瀾万丈の生涯を終えました。9月12日、先生の伝記「分断と対立を越えて」(海風社発行)を出版し、その祝賀会を教え子たちが中心になって盛大に行われたばかりでありました。人生の締めくくりにしてはあまりにも潔いタイムラグでありました。多くの弟子たちがそれぞれに先生との関わりを感慨無量なおももちで見送りました。その中の1人として私なりに、李慶泰先生が、第2次大戦後の在日社会に何を残し、何をされようとしたのかを略記し、先生を偲びます。
李慶泰先生の業績については、伝記「分断と対立を越えて」に詳細に記してありますので、それを参考にしていただくことにして、ここではその概略と先生の教育理念について述べます。
1945年敗戦により、日本の社会は、今まで経験したことのない価値観の変化と混乱をきたしたのですが、その中で、置き去りになっている在日の子弟に対する教育をいち早く取り上げたのは、白頭学院の設立母胎である白頭同志会であった。この団体の実体はまたつまびらかではないが、李慶泰先生が正式に会長になることによって、単なる権益を守る集団から明らかな目的意識と在日の子弟に対する教育理念を具現していった。未だ、大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国も誕生していない時、近い将来、朝鮮民族の念願である独立国家の誕生を期待して、民族国家の好ましい成員であるべき人材を育成しようとしたのである。そこには李慶泰先生の体験が深く関与していることは紛れもない事実である。日帝時代の教育者としての苦い体験が、反面教師として作用したことはいうまでもない。その第一は、朝鮮民族の教育は朝鮮民族自身によって主体的に行うことであり、第二には、教育の普遍的中立性である。一については、本来ならば、国の憲法や教育の基本的指針に沿って具体化されるのであるが、当時は、来るべき民族国家をイメージするだけであった。そのために朝鮮民族のアイデンティティー(独立統一国家への意志)に頼るほかに方法はなかった。
1946年4月に白頭学院建国学校が六百余平方メートルの敷地に産声をあげた時、二百人の募集に五百余名の応募があったのはその熱気が伝わってくるのである。
二については、建国学院創設間もなく、もっとも厳しい現実的な混乱に遭遇する。それは、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の分断国家が誕生したからである。統一国家をイメージしていた先生は、いずれの国も政治集団による分割支配であって、教育的見地からはどちらにも組みすることはできなかった。(または、)「どちらも我々の祖国」であった。生徒たちは南北それぞれの支持者が混在する情況の中に置かれることになった。その中で、いずれかを選択するということは極めて政治的となり、教育現場の混乱もさることながら、教育の普遍的中立性を損なうことであった。人間が社会的生活をするからには非党派的であることはできない。しかし、教育においては超党派的に相互の理解へ導くべきであること、特定の党派のイデオロギーや政策を絶対視することは、プロパガンダであって真の教育とは言えないのである。李慶泰先生は、この点を強く意識された。それは、第二次世界大戦中、日本の全体主義教育に対するアンチテーゼでもあった。
白頭学院の教訓、「自主・相愛・勤倹・精詳・剛健」はその具体的な表明であった。5項目のいずれも個人の人格形成に主眼を置き、全人教育を目ざしている。普通ならば、民族教育を目的にした学校であるから、祖国のために民族のために、開拓とか団結などの理念が含まれなければならないのであるが、大前提として、校名を「建国」にしている。そして国家民族の望みうる全人教育を目指したのである。さらに、民族教育を指向するといっても、李慶泰先生は排他的民族至上主義者ではない。在日する同胞の子弟が、現実に日本の社会で生活していくには、日本の法の下で保証されなければならない。全人教育の目標は、どんなシチュエーションにも耐えうる自律的人格を形成することに他ならない。このような考えから学校の条件整備に取りかかった。それが学校教育法による一条校の認可である。外国人学校が一条校になることは、歴史上画期的なできごとであり、在日子弟にとって極めて重要な意味を持つものであった。日本の社会で、日本人と対等にきそうことができる法的根拠ができたことと、建国学校からみればグローバルな視点に立つことができたのである。これは、李慶泰先生の最も重要な業績であるといえる。
間もなく21世紀を迎える中で、よく、グローバリジェーション時代の到来を告げているが、このことはもはや、民族や国家の垣根を越え、相互の立場を認織し、理解し合わなければお互い成り立たないということであろう。李慶泰先生の教育の普遍的中立性や教訓の理念は来る21世紀に付合するものである。ともあれ、白頭学院建国学校創設以来八千余名の門下生を輩出している。在日社会の至る所のみならず本国において、それぞれの立場で多大な貢献をしているのである。
李慶泰先生が築き上げようとした最終目標は、幼稚園から大学まで、一貫した全人教育の体系であった。京都府亀岡の林間学舎(五万五千平方メートル)を心血を注いで建設したのはそのためであった。志半ばで先生は学院長を退き、現在は廃墟と化している。後世に課題を提示されている。
最後に、先生のご冥福をお祈りするものであります。

1999年11月

金 炯(貴志興業株式会社 建国高校OB・元教諭)
文 東載(兵庫県立尼崎工業高校 元建国高校教諭)

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シンポジウム「韓国経済の展開と構造」


国際高麗学会日本支部代表の滝沢秀樹・大阪商業大学教授が1月に『アジアのなかの韓国社会』(御茶の水書房)、同会員の高龍秀・甲南大学教授が2月に『韓国の経済システム─国際資本移動の拡大と構造改革の進展』(東洋経済新報社)を相次いで出版されたのを記念し、5月13日に日本支部主催によるシンポジウム「韓国経済の展開と構造」が大阪教育大学天王寺キャンパスで開催されました。
会場には各大学の研究者をはじめ約70人が参加。文京洙・立命館大学教授の司会のもと、はじめに主題報告として、著書にもとづき、滝沢教授が「韓国資本主義の歴史的性格」、高教授が「韓国の経済危機と構造改革」について報告されました。
続いてコメンテーターの朴一・大阪市立大学教授、金俊行・大阪経済法科大学教授、金元重・新潟産業大学教授が意見を述べ、服部民夫・同志社大学教授、金哲雄・大阪経済法科大学教授、崔潤鎔・大阪経済法科大学助教授が討論を行ったのち、一般参加者を含めた活発な議論がかわされました。
以下に、金元重教授から寄せられた原稿を掲載します。

 

高龍秀氏の韓国通貨危機分析をめぐって
金 元 重 

 
高龍秀氏の『韓国の経済システム─国際資本移動の拡大と構造改革の進展』の第1部でなされた1997年韓国通貨危機分析は、実に入念な資料収集・分析に基づいて危機の実態を実証的・具体的に明らかにしている点で非常に大きな成果であるといえる。これまでアジア通貨危機の一環としての韓国通貨危機についての論考は少なからずあったが、内外の通貨・金融関係の基本的資料や新聞記事をこれほど丹念に分析して韓国通貨危機の実態に迫った研究はなかったと思う。以下では、シンポジウムでの討論を踏まえて、高氏の通貨危機分析に対する若干のコメントを記してみたい。
序章で示されている通貨危機の分析視角は、韓国の通貨危機を「国内外要因という水平軸と、『東アジアに奇跡』=高度経済成長から通貨危機、そしてその克服へという時間軸から分析する」というもので、これは本書の全体構成を一貫する基本視角といえる。コメントは前者=水平軸の通貨危機の内外要因に限定するが、後者について敢えていえば「東アジアの奇跡」=高度成長から通貨危機へという時間軸の設定とは別に、「開発独裁」(70年代)から「自由化・市場経済化・国際化」(80-90年代)、そして通貨危機とそれを契機とする経済危機(90年代末)へという時間軸の設定が可能ではないかと思われる。経済システムの変化と通貨危機との関係という点で80年代以降のいわゆる自由化・市場経済化の中身が問い返されねばならないし、著作の第2部の構成と位置付けからしてもその方がふさわしいと思われる。
第1部の分析視角と関連して高氏が、これまで韓国の企業システム(財閥)と金融システムの研究が分離して行われる傾向があったこと、さらに地域研究者による韓国企業・金融研究と国際金融研究者による国際金融市場における韓国金融の位置の研究が分離していたことの指摘は重要である。高氏の研究は、まさしく韓国経済研究者の立場からこのギャップを埋めるべく企図された果敢な挑戦であり、大きな成果であるといえる。こうして、90年代における韓国経済、とりわけ金融の自由化・国際化が急速に進展するなかで、「脆弱な金融監督体制のもとでの金融機関の外貨過剰借入」(その背景には政府の統制から抜け出した財閥の過剰投資があった)が通貨危機を呼びこむ国内的な要因となったことが示される。
ただし、高氏の主張の眼目は、むしろグローバル・マネーの過剰流出入が危機を深刻化させた最大の要因であるとして、分析の焦点は97年の通貨危機展開過程における10月香港危機発生以降の「民間資本移動の逆流」に向けられる。通貨危機の発生である。ここでいわれる民間資本移動の逆流は、欧米と日本の金融機関による「短期融資の回収」と外国人投資家による「ポートフォリオ投資の逆流」であるとして的確に二つの要素が摘出されている。だが通貨危機の直接的原因を究明し、韓国通貨危機の特徴を明らかにするためには、さらに一歩突っ込んで、これら二つの国際資金の動きのうち、どちらが主導的だったかをつきとめる必要があるのではないか。韓国の場合、金融機関の短期債務が急激に流出したことが衝撃となって外貨準備を一挙に枯渇させたのである。
韓国開発研究院(KDI)の辛仁錫は、最近の通貨危機理論である《国際債券銀行による引出事態モデル》を使って韓国の通貨・金融危機は、韓国の金融機関の不実化を背景に、短期外貨債務に対する国際商業銀行の取り付け(bunkrurn)─借換拒否・加算金利・新規調達拒否など─によって引き起こされた外貨流動性危機であり、その意味において本質的には金融危機であって通貨危機はその副産物であったという見解を発表している。(『KDI政策研究』第20巻第3,4号、1998.Ⅲ・Ⅳ)。もちろんこの国際的取り付けが突発した背景には、1997年の韓国経済に対する信任度が急落する事態があり、さらにその根底には韓国経済・金融の構造的問題が存在していることは言うまでもない。高氏が「国際資本移動の拡大」ないし「グローバル・マネーの過剰な流出入」として捉えた問題点は、韓国通貨危機の場合、「国際債権銀行による引出事態」が引き金になった点はもっと注目する必要があるのではないだろうか。

(新潟産業大学)


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 抗議文

 

 東京都知事 石原慎太郎 殿

 私たちはkoreaを研究する国際学術団体である国際高麗学会の日本支部に属し、日本人・在日コリアン・韓国からの留学生・中国朝鮮族等、多様な会員が協力して学際的研究を続けている者です。
このたびの貴殿の「第三国人」発言は、私たちコリア研究者にとっても大きな衝撃で、会員たちの中から激しい怒りの声が湧きおこっています。日本と東アジア諸国の新しい歴史をつくり出すためには、日本人によるかつての植民地支配や侵略戦争の歴史を真摯に反省し、アジアの人々とともに手を携えて平和と共生を目指す努力が必要のはずですが、貴殿の発言はそのような努力に背を向け、アジア各国の学術協力さえも困難にしかねない危険な内容を含んでいるからです。とくに学術研究の現場にいる者として、私たち学会員のなかの信頼と友情さえも破壊する危険さえ含んでいることを指摘せざるを得ません。
貴殿が自らの発言を含む危険な内容について「通信社のあやまった報道」のせいであると強弁し、自己正当化をはかったことは、いっそう私たちの怒りを大きくしています。貴殿の歴史感覚がどのようなものであるかは、続けて発せられた「北鮮」という言葉使いからだけでも明白です。
もちろん、私たちは貴殿がどのような発言をしようとも、多様な民族に属する会員を含む学会としての特性を生かして、相互の信頼のうちに、学術協力とアジア共生の道をつくるための努力を続けるつもりです。しかし、貴殿が私たちに与えた衝撃と怒りに対しては、強く抗議するとともに、貴殿からの何らかの誠意ある弁明が得られることを期待したいと思います。もしも貴殿が何らの反省もなく、「居直り」を決め込むならば、日本国の首都の知事としての貴殿の地位を決して認めることができないであろうことを申し添えます。

 

2000年4月17日
国際高麗学会 日本支部 
代表 瀧澤秀樹(大阪商業大学 教授)

 

編 集 後 記


◇6月13日、ついに韓国の金大中大統領と朝鮮民主主義人民共和国の金正日総書記との首脳会談が実現しました。祖国分断55年目に迎えた歴史的なこの日、全朝鮮民族は歓喜につつまれ、全世界は祝福の拍手を送りました。
◇翌14日には、両首脳が署名した「南北共同宣言」が発表されました。宣言は、前文で「南北首脳は分断の歴史上初めて開いた今回の対面と会談が、お互いの理解を増進させ、南北間関係を発展させ、平和統一を実現させる重大な意義を持つ」と評価しつつ、祖国の統一、離散家族の再会、経済協力など5項目の合意事項を明らかにしました。
これまで南北間では、1972年の7・4南北共同声明をはじめ、いくたびかの合意がありましたが、その都度不測の事態のために所期の目的を果たすには至りませんでした。
しかし今回は、史上初めて南北の首脳が直接宣言に署名した点で、かつての合意とは比較にならないほどの重みがあるため、「今度こそは!」という期待がふくらむ一方です。
◇それにしても、テレビが伝える両首脳のにこやかな笑顔や、平壌・ソウルの人々の喜びに満ちた表情を見ていると、「血は水より濃い」という諺が改めて胸に染み込んできます。いまこそ対立と不信の時代に終止符を打ち、同じ民族としての一体感のもとに、親しい交流と対話が進展していくことを願ってやみません。
私たち国際高麗学会としても、自己の位置と役割を従来以上に深く認識しつつ、朝鮮半島の平和と交流、統一のために貢献すべく一層の努力をかたむけていきたいものです。(K)