巻頭言
21世紀のワンコリアとアジア共同体
鄭甲寿
今年(2001年)もワンコリアフェスティバルは、大阪(11月4日)、東京(12月2日)で開催され、それぞれ盛況の裡に終了した。
大阪では、在日コリアンの最集住地域である生野区コリアタウンで開かれ、パレードや舞台公演では、民団系の建国小学校、金剛学園、総連系の大阪朝鮮第四初級学校がともに参加、出演し、朝鮮青年同盟生野西支部と韓国青年会生野西支部が合同プンムルチームで参加した。
東京では、フォーラムと音楽公演が行われたが、ここでは当フエスティバルがなぜこのようなフォーラムをもつのかに関して若干述べたい。
今回のテーマは「21世紀のワンコリアとアジア共同体の展望―在日コリアンと日本人の役割―」であったが、このテーマは、昨年(2000年12月10日)大阪で行ったフォーラム「21世紀のワンコリアと東アジア-南北共同宣言の意義と海外コリアンの役割-」というテーマを引き継いでいるものである。これらのテーマは、当フェスティバルのビジョンにもとづいて設定されている。当フェスティバルは、一貫したビジョンを掲げてきたが、それは「在日コリアンこそがまずハナ(ひとつ)となってワンコリアのシンボルになり、祖国南北、海外同胞のパイプ役としてワンコリアの実現に貢献するとともに、究極においては世界市民に連なる『アジア市民』創出のための『アジア共同体』を展望する」というものである。
いまや「ワンコリア」と「ハナ」は、在日コリアンの統一に向けた和解と交流のシンボルになりつつあるといってもよいであろう。とすれば、私たちのビジョンの前半部分が現実になりつつあるということでもあろう。そこで私たちは、ビジョンの後半部分である「アジア共同体」について、さらに踏み込んだ議論と、そこからより具体的で現実的な展望を明らかにしょうと、フォーラムを始めることにしたのである。今後、統一問題や在日コリアンの生き方を考える上で、東アジア全体を視野に入れた議論がまますます重要になると確信するからでもある。
当フェスティバルが「アジア共同体」という言葉を最初に使ったのは、90年の巻頭言においてであった。その前年には、平和共存のモデルとして「EC」(ヨーロッパ共同体)に言及している。
当時、冷戦後の新たな国際秩序がいかなるものになるかについて混沌とした雰囲気が世界を覆っていた。とくに、東欧の崩壊、ソ連邦の解体にともなう民族紛争の激化は、そうした混沌に拍車をかけていた。しかし、そうしたいわば「遠心力」よりも、私たちは新たな「求心力」の方に注目したのである。それが「EC」、現「EU」(ヨーロッパ連合)であった。すなわち、新たな地域統合の動きである。この動きは他の地域にも波及するであろう、先の「遠心力」も結局は新たないくつかの「求心力」のもとに統合されざるを得ないだろうと考えたのである。(事実、ソ連邦解体にともなって独立したラトビアなどバルト三国や旧東欧のポーランド、ハンガリーなどは、2004年EU加盟が有力視されている)。
当フェスティバルのビジョンも、こうした考えのもとに再検討されねばならないと考えた結果、「アジア共同体」の構想が現れ、先に書いたビジョンに集約されていったのである。念のため付け加えるならば、「アジア共同体」が事実上「東アジア共同体」を意味することは、当フェスティバルの主張をたどっていただければ明白であるが、あえて「アジア共同体」という用語を使うのは、ビジョンにおいて「究極においては世界市民に連なる」とわざわざ明言しているように、より大きな究極的な理想を意識しているためである。
それはともかく、今回のフォーラムのパネラーは、李鍾元、和田春樹、鄭章淵、吉田康彦の各先生ならびに司会の文京洙先生であった。昨年のフォーラムが在日コリアン(李鍾元、尹健次、朴一、文京洙)ばかりであったのに対し、今回は日本人にも参加していただいたわけである。
しかし、東アジアにおける地域統合を考える上で、中国の存在が欠かせないことはいうまでもない。今回の当フェスティバルの巻頭言でも中国の存在に注意を喚起し、次のように書かせていただいた。「韓国と日本の間で自由貿易協定(FTA)締結に向けた協議が進行中であり、日本とシンガポールはすでにFTAを結び、ついには先日、中国とASEAN(東南アジア諸国連合)との間で、今後10年以内のFTA締結に向けた協議が始まりました。FTAが地域統合の動きであることはいうまでもありません。さらに、韓・日・中当局者間で『アジア共同通貨』の研究も公式に始まっています。これに関連して今後5年から10年の間には、東アジアにおいて中国が突出した存在になる可能性が高いでしょう。この地域の安全保障と発展のためにこうした研究をはじめ、さらに韓・日・中の連携と協調が求められます。
そのためにも日本には、過去の清算にもとづくアジア諸国との信頼関係の確立、とくにコリア南北とのそれが求められるでしょう」。
このような認識にもとづいて次回のフォーラムは、コリアンと日本人だけでなく、中国人、さらには東南アジア諸国の研究者も交えた議論の場にしたいと考えている。そうした議論を重ねながら、東アジアにおける地域統合の目的と理念、展望とビジョンを明確にし、共有してゆければと願っている次第である。
最後に、諸先生方、諸先輩方のご指導、ご支援をお願いしてこの拙文を終えたい。
(ワンコリアフェスティバル実行委員会 実行委員長)
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国際高麗学会平壌支部設立に際して
裵 龍
国際高麗学会平壌支部が2001年12月10日に開設されました。
それ以上の事実をどう伝えればよいのか、分かりません。今回の設立までの道程は決して平坦とはいえず、それだけに嬉しいことであることに間違いはないのですが、問題は「これから」であるという事実が頭から離れません。
平壌に到着したときも、朝鮮社会科学院で創設大会に参加していた瞬間にもその感情に違いはありませんでした。しかし、「これからのこと」を考える上で、今回の設立までの過程を簡単に振り返ることも必要なのではないでしょうか。これが「感想文依頼」を引き受けた動機です。
今回平壌支部が無事設立された最大の要因は、国際高麗学会が平壌支部の存在を望み続けた、という事実であったと感じています。どんなに困難な状況にあっても、国際高麗学会は平壌支部を諦めませんでした。国際高麗学会をどう表現するか。これは敏感かつ大事な問題です。様々な立場から、それぞれが国際高麗学会を「批評」してきました。しかしそれに惑わされずに「積極的中立」を堅持し、コリア学の発展を願い、南北および海外へと発信し続けたことが実を結んだ、ということであろうかと思います。
平壌にも国際高麗学会の友人、仲間がいます。今日まで、多くの会員が多くの場所で国際高麗学会平壌支部の設立に向けて努力してきました。それぞれの働きかけは、平壌の友人たちの胸に届いていたことが、証明されました。今回、朝鮮社会科学院はじめ多くの機関、担当者と平壌支部の設立を巡って論議を重ねる過程で、国際高麗学会の多くの先生方のお名前を聞くことになりました。どこで誰と会い、平壌支部の設立に関して話があった、などそのエピソードは枚挙にいとまがありません。
国際高麗学会が目指した一つの目標、そのうちの一つである平壌支部の存在を実現させる過程で、わたしは幸運にも「設立」の現場に居合わせることができました。謙遜でも何でもありません。学会の総意の下、多くの先生方、先輩方の今日までの努力が花開くその瞬間の仕事の一部を担ったにすぎません。
ですから、申し上げたとおりです。
役者は揃いました。これからが本番です。
(国際高麗学会 本部事務局)
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特別講演会報告要旨
北朝鮮の改革・開放は可能か
崔応九
北朝鮮の経済現況
深刻な経済危機:エネルギー不足、食糧不足、設備施設の老朽化、企業稼働不足、運輸手段の不備、対外貿易縮小、外貨枯渇
工業部門:電力不足、生産施設の老朽化
農業部門:食糧事情の悪化、農耕地と灌漑施設の破壊、肥料不足など
北朝鮮の改革・開放は、不可能だという主張:政権維持不可、社会崩壊
理由:1.外部からの大量援助の困難
2.自由意思の増大、政府の統制力の弱化
3.既存路線に対する否定の困難
中国の改革・開放(参考)
第1段階(78~84)初級段階:
一定の部門(農業)、一定の地域(3都市)、部分的な政策調節
第2段階(84~87)本格化段階:
都市改革(工場長責任制、月給制度、労働制度、投資制度改革、漸次的な価格開放…)
第3段階(87~91)深化段階:
国家、企業、市場関係の調節
第4段階(92~現在)全面的な改革・開放段階(社会主義市場経済体制の樹立)
北朝鮮の変化
99年まで計画経済固守
98.9.17〈労働新聞〉〈勤労者〉共同論説:“外貨は阿片”“対外依存思想の徹底排撃”
99.4月 人民経済計画法採択:
企業所に対する統制強化、国家計画の強調
2001.1.1共同社説、1.4金正日語録、1.7〈労働新聞〉政論
思想観点と思考方式の根本的な革新、他国式の古い枠と慣例の全面検討、大胆な変革…
関連法規制定:合弁法、国際仲裁法、特別経済地帯…
人材養成と海外研修:中国、米国、豪州、ヨーロッパ
経済特区の創設および拡大
農村改革:97年から実施された分組管理制
外資誘致のための努力
改革・開放の可能性
本格的な改革・開放の困難:
短期的な大量資金調達の困難、短期的な経済回復の困難、短期的なイデオロギー転換の困難
選択的部分的改革の可能性:
一定の経済部門(農業)、一定の地域(特区、条件が具備されたいくつかの都市)、一定の経済分野(サービス業)での政策調節など
条件:1.強力な政府(改革は急激で革命的な変革、社会安定は改革の基礎)
2.漸進的で計画的な改革
3.意識転換
4.国際環境
(国際高麗学会常任顧問/北京大学朝鮮文化研究所名誉所長/静岡県立大学客員教授)
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〔西日本地域研究会報告要旨〕
“9・18”(満州)事変前後における在満朝鮮人
孫春日
1 はじめに
日本が起こした“9・18”事変は中国東北地域を日本の植民地に転落させたひとつの国難史である。“9・18”事変後、中国東北地域の各民族は14年間にわたって日本の植民地的支配を受け、政治、経済、文化など各方面にわたる深い苦痛に耐えなければならなかった。
本稿は“9・18”事変前後に現れた、いわゆる“在満朝鮮人問題”とはどういうことであり、それが起きた根本的原因、そして“9・18”事変が在満朝鮮人に与えた衝撃について、その歴史的事実を調べてみることにする。
2 “9・18”事変前の“在満朝鮮人問題”
“9・18”事変前のいわゆる“在満朝鮮人問題”とは、日本が在満朝鮮人の立場を全く考慮せずに、“韓日合併”後、朝鮮人は日本の“臣民”であるという論理のもとで、在満朝鮮人に関する、すべての問題に干渉するうちに中国官僚との間にできたひとつの紛争である。
その紛争の内容は、次のようなものである。
①二重国籍問題
在満朝鮮人の二重国籍問題とは、1907年、日本が龍井に“朝鮮統監府間島出張所”を設置してから“9・18”事変勃発前まで、ずっと提起されていた問題である。
中国東北地域に移住した朝鮮人はさまざまな原因で中国に帰化入籍した者が多かった。帰化した在満朝鮮人に対して中国政府は彼らを中国人として扱い、中国公民と同じ待遇をした。しかし、日本は在満朝鮮人が中国に帰化したとしても、依然として日本の“臣民”であると主張した。その主な根拠は伊藤統監時代において朝鮮人が外国へ帰化することを許可しないという法令があったから、朝鮮人を中国公民として認めることはできないというものであった。これが在満朝鮮人の二重国籍問題を引き起こした主な原因である。
中国政府は、帰化入籍した在満朝鮮人をすでに中国に帰化した以上、中国公民として認めるべきであると主張した。また在満朝鮮人に各種の恩恵を与える条件で中国へ帰化入籍することを強要した。さらに1929年2月5日に修正された《中華民国国籍法》では、日本との紛争を遮断するために、外国人が中国国籍へ加入する場合、本国の国籍を捨てなければならないという条項も削除した。
中国政府が在満朝鮮人の二重国籍問題において、日本に徹底的に立ち向かっていたのは日本の主張の奧に侵略野心があると判断したからであった。
②土地所有権問題
在満朝鮮人の土地所有権問題は、事実上、二重国籍問題と緊密な関係がある。二重国籍問題は、結果的に在満朝鮮人の土地所有権問題に帰結することであるからだ。
1909年中・日両国が締結した《間島協約》では、豆満江の北に居住する朝鮮人は土地所有権を享有できると法的に規定した(1)。この条項に対する解釈において中・日両国は大きな意見の違いはあるものの、それはあくまで間島内に限られたものであった。1915年中国と日本が締結した《南満州と東部内蒙古に関する条約》(以下は〈満蒙条約〉と略す)で日本臣民の土地商租権問題を提起することによって、その状況は異なるようになった。
日本は、土地商租権が間島地域以外に居住している在満朝鮮人にも適用できると主張した。その法的理由として、“韓日合併”以後、朝鮮人は国籍上すでに日本国民であるゆえに、彼らは自然に土地商租権を享有するということであった。
このような主張に対して、中国政府は、1910年、日本が朝鮮を合併したものの、《満蒙条約)及び交換公文では《間島協約》を変更すると指摘したことがないことと、そのうえ《満蒙条約》第8条には、“満洲に関する日支現行各条約は、本条約の中で別途として規定したものを除外する以外にはすべてそのままにする”、と明示しているので、法律的に《間島協約》は有効であると主張した。したがって在満朝鮮人の土地所有権は間島地域に限定されるだけで、満州と東部内蒙古地域での土地商租権は許されていないとした。
土地商租権に対する中・日両国の紛争の中で、土地商租権を日本の土地侵略と見なした中国政府は訓令と布告を数多く発表し、在満朝鮮人の土地商租について厳しい取り締まりをした。
③教育権問題
“9・18”事変前、在満朝鮮人自らが経営する私立学校が相当の発展を見せていた。しかし在満朝鮮人の教育権も中・日両国の勢力争いの中から自由ではなかった。
20年代に入ってから、日本は中国東北で在満朝鮮人を対象とした学校を多く設立した。日本が経営する学校はその課程設置から授業内容まで、徹底した同化教育であった。
中国政府は在満朝鮮人に対する日本の同化教育を主権侵害のひとつであると見た。1915年、日本が袁世凱を脅迫して21条約を締結したあと、中国では国権回復運動が起きたが、朝鮮人教育問題もその回収目標のひとつであった。
1915年6月、延吉道尹・陶彬が頒布した《劃一懇民教育方法》では、延辺朝鮮人私立学校を民国の教育体制に統一し、朝鮮人学校では少なくとも毎週12学時を中国語で講義をしなければならないと規定した。南満地域も同様であった。特にこの地域では日本語で講義をしてはいけない、また日本側から教科書や補助を受けて学校を経営してはいけない、と強調されていた。
在満朝鮮人の教育権に対する中国側の統制は1928年“東北易幟”後さらに深刻化した。張学良は奉天省と満鉄沿線付属地、それに関東州内にあるすべての外国人学校を奉天省政府が回収するようにした。その回収方法においては、平和的な解決を得られない場合は、強制的に回収するように指示した。
このような紛争は朝鮮人の移住初期から起きていたが、“9・18”事変前まで解決することができなかったばかりではなく、むしろその紛争は激化されていた。
3 中・日紛争のなかの在満朝鮮人の困窮
在満朝鮮人問題をめぐって中・日両国が紛争する中で、日本はこの紛争を利用して在満朝鮮人居住地を中心に日本領事館と警察署を設置し、その勢力を拡張した。
間島地域はその典型的事例である。日本は在満朝鮮人の“生命”と“財産”を“保護”するという名義で、1907年龍井に兵隊を派遣した。1909年9月には中国と“間島協約”を締結して領事裁判権を獲得し、龍井、局子街、頭道溝、百草溝に領事館を設置した。またその領事館の下に警察署を配置した。このような動きは、結果的に中国人の民族感情を刺激することになった。それは中国人が在満朝鮮人を日本の満蒙侵略の“尖兵”“前衛”と見なすひとつのきっかけになり、中・韓両民族関係を緊張させるものであった。
1920年代初め、中国で帝国主義を相手に国権回復運動が起きると、在満朝鮮人とその関係施設は運動の対象になった。特に1925年6月11日、奉天での三矢協定締結後、奉天軍閥は清郷章程を作り、朝鮮独立運動家たちよりも一般の朝鮮人を調査し、取り締まりながら朝鮮人を追放することに熱を上げていた。中国政府の在満朝鮮人に対する迫害は、1927年をきっかけにさらに強化された。1927年には中国人の民族感情を強く刺激する事件が連続的に発生した。田中上奏文(メモランダム)、臨江日本領事館設置事件、満蒙懸案交渉事件などである。これらの事件は中国各階層の民衆の怒りを爆発させ、その反日運動の余波は、在満朝鮮人にも及ぶようになった。
この時期における中国政府の在満朝鮮人に対する圧迫、追放は残酷なものであった。その根本的原因は中国地方当局が在満朝鮮人を利用した日本の満蒙侵略を警戒するあまり、日本の民族離間策に巻き込まれたものであると見なすべきである。
4 “9・18”事変が在満朝鮮人に与えた衝撃
日本の離間策で20年代の中・韓両民族関係は円滑ではなかった。そのうえ“9・18”事変直前、日本の捏造のために中・韓両民族農民たちの間で起きた万宝山事件はその矛盾を極度に至らせた。それは在満朝鮮人が“9・18”事変後、敗残兵と馬賊たちから被害を受ける直接的原因であった。
中国敗残兵は戦線で敗すると、朝鮮人の村に入り略奪、放火、強姦、殺人など、さまざまな暴行を加え、在満朝鮮人たちに莫大なる被害を与えた。被害を最も受けたところは“9・18”事変が起きた南満地域であった。
各地の朝鮮人民会は被害を受けた朝鮮人に対する収容、救済活動を始めた。収容所は奉天以外にも、新台子、撫順、鉄嶺、開原、四平街、鄭家屯、公主嶺、長春、ハルビン、吉林、営口、清原、二道河子、安東などの地域にも設置されていた。また東満地域では、当時、敦図線、図寧線、朝陽川から開山屯までの鉄道建設が真っ盛りであったため、多くの朝鮮人避難民が労働者として働くことができた。
しかし朝鮮総督府は、彼らをそのまま放置することはできないと見た。ややもすると、彼らは社会的不安の要素であって、特に飢餓、絶望の中で彷徨した彼らは、中国共産党の指導下の反日運動に参加する可能性が高いからであった。このような状況で、朝鮮人避難民を安置するために、朝鮮総督府は“安全農村”を建設することにした。即ち、朝鮮総督府は拓務省、関東軍、大使館、満鉄などの協力を得て、朝鮮人集団居住地を建設することにした。
“9・18”事変直後、朝鮮総督府は東亜勧業株式会社に委託し、5つの安全農村を建設した。1931年には鉄嶺、1933年には営口・河東、1934年には綏化、1935年には三源浦に建設されたものである。この安全農村の建設が、ただ避難朝鮮人の生計を立てるためだけであるとは考えられない。その理由は、全部の安全農村が“9・18”事変前後には朝鮮共産党、独立運動家、中国人反日部隊及び抗日遊撃隊の活動が最も活発に行われた地域であることである。このような地域に安全農村を建設した目的は、朝鮮共産党などを牽制しようとすることにあった。
実際に安全農村を建設するときに、日本守備隊、偽満州国警察隊、領事館警察隊等が討伐と宣撫工作をすると同時に、安全農村に警察署と自衛団を設置し、在郷軍人まで安置して治安維持に力を入れた。
5 結 び
①“9・18”事変前、いわゆる在満朝鮮人問題とは、日本が中国東北地域を侵略するために中国内政を干渉することによって現れた問題である。日本は、在満朝鮮人問題への介入をいわゆる“韓日合併”後、朝鮮人が日本“臣民”になったということに根拠を置いている。しかし、“韓日合併”とはそれ自体が国際法的に不法である以上、日本が在満朝鮮人問題に介入する妥当性は論ずるまでもない。
②“9・18”事変前、奉系軍閥は在満朝鮮人に対してさまざまな迫害と民族的差別を加えた。それは指弾されるべき歴史的事実である。しかし、その事実を指摘することにおいて歴史的背景を軽視してはいけない。当時、在満朝鮮人を日本の満蒙侵略における“前衛”または“先鋒”だと見なすのは中国人の一般的視角であった。在満朝鮮人を迫害、追放することは反日愛国で、また国権回復運動の一部でもあると認識していた。
③“9・18”事変の勃発は在満朝鮮人社会に深刻な被害を与えた。朝鮮総督府は敗残兵の迫害で散らばった朝鮮人のために安全農村を建設し、彼らを収容した。しかし、それは単純なる“収容”ではなく、建てられたばかりの偽満州国の社会秩序を維持し、在満朝鮮人の抗日遊撃隊への加担を防止する必要な手段であったからである。
注(1)《間島協約》では初めて法的に豆満江以北に居住する朝鮮人は土地所有権を享有すると規定したが、規定条項に対する中・日両国の間には大きな意見の違いがあった。即ち、中国政府は中国に帰化した朝鮮人だけが土地所有権を持てると主張し、日本は豆満江以北に居住する朝鮮人であればすべて土地所有権を持てると主張した。
(延辺大学民族研究所所長)
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経済危機以降の韓国労働市場の構造変化と労使関係
横田 伸子
Ⅰ.韓国労働経済の2回にわたる転機
△1987年 労働者大闘争
→低賃金、長時間労働、不安定就労、労働三権の否定などの権威主義的な労使関係の動揺
→これ以降、韓国の労働運動が大闘争の中心勢力であった重化学工業・大企業(財閥企業)、男子生産労働者の企業別組合運動によって主導されることになった。
⇒高賃金・長期雇用の大企業と低賃金・不安定就労の中小企業の労働市場が分断された。=二重労働市場化
△1997年12月 「IMF経済危機」
→IMFの緊縮政策、自由化政策を内容とするconditonalityを受け入れることによって高成長・低失業という条件が、低成長・高失業へとドラスティックに変化。労働市場の柔軟化政策(整理解雇制の導入、勤労者派遣制の規制緩和)によって労働者の生存権まで脅かされるようになった。
Ⅱ.労働者大闘争以後の雇用構造と労働市場の変化
△1988~97年:年平均経済成長率7.3%で高成長。失業率2%台で、ほぼ完全雇用状態。
1998年:経済成長率-5.8%。失業率は一気に6.8%に。
△1988~97年:求人難。
1998年:求職難。
△1988~97年:生産労働者を中心に労働力不足。ただし、従業員500人以上の大企業では労働力不足はそれほど深刻な問題ではない。
1998年:規模に関係なく、労働力過剰状態に。
⇒高成長・低失業=労働運動に有利な条件から、低成長・高失業=労働運動に不利な条件へとドラスティックに変化。
△1988~97年は労働費用の上昇に対応するため、大企業を中心に非正規労働者の雇用が増え、1998年になると労働市場の柔軟化政策の進展を受け、全体として景気変動に伴う雇用の調節弁として非正規労働者の雇用が大幅に増えた(賃金労働者に占める非正規労働者の割合は53.1%になり、特に女子労働者の場合、賃金労働者の約8割が非正規労働者となっている)。
=雇用条件の極端な不安定化。
⇒1987~97年:
大企業の常用労働者(中核労働者)
vs
中小企業の労働者+非正規労働者
(周辺労働者)
↓
経済危機以降:中核労働者の縮小と非正規労働者の増大による周辺労働者の大幅拡大。特に女性労働者の非正規労働者化が著しい。
Ⅲ.労使関係の変化
△労働運動の弱体化
労働組合組織率の急速な低下:89年18.6%とピークを記録した後、97年には11.2%にまで低下。
1998年2月6日 労使政委員会「経済危機克服のための社会協約」
→整理解雇制の導入。勤労者派遣制度の大幅規制緩和。
実質賃金の増減 97年2.4%増→98年9.3%減。
↑
従来の大企業の正規労働者を中心とする企業別労働組合に組織できない周辺労働者及び失業者の増大による。
△労働組合運動の転換の模索
大企業の正規労働者を中心とする企業別労組体制→中小・零細業体及び非正規労働者、失業者をも網羅し、組織化しようとする産業別労組体制への模索。
運動形態:個別事業主を相手とした賃金引き上げ重視型の交渉形態→政府と使用者団体を相手とする中央交渉・産別交渉による社会改革・雇用重視型への模索。
(山口大学経済学部助教授)
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韓国自動車産業におけるサプライヤーシステム
金奉吉
1.はじめに
通貨危機以降韓国の自動車産業は、完成車メーカー間の吸収・統合などの大規模な再編が行われ、完成車メーカーは現代、起亜、大宇、双龍、三星の5グループの9社体制から現在は現代・起亜自動車と大宇自動車、三星・ルーノー自動車の3社体制になった。このような完成車業界の再編に伴って部品産業とサプライヤーシステムにも再編が行われており、韓国の自動車産業は現在再跳躍の大きな転換期を迎えていると言える。
本稿では、韓国自動車産業におけるサプライヤーシステムの特徴と問題点を考察し、自動車産業の再編に伴う部品産業とサプライヤーシステムの今後の在り方について考察する。
2.韓国の自動車産業におけるサプライヤーシステム
(1)サプライヤーシステムの形成・深化過程
韓国の自動車産業は、発展の初期段階から小型乗用車中心の輸出需要が牽引力として先行する形で、量産化・国産化・輸出拡大・内需拡大が同時並行的に推進される、きわめて圧縮された発展パターンを見せた。このような、完成車中心の輸出成長段階への急速な移行は、相対的に部品産業の発展を遅延させ、自動車の輸出増加にともなって部品の輸入が増加する輸入誘発的な発展パターンとなった。
一方、完成車メーカーは1980年代半ば以降、生産の急速な拡大に伴う技術・資金などの経営資源の不足による部品外注化の必要性が高まったため、自社専属の部品メーカーを確保・育成するという外注化戦略を取り始めた。そこで完成車メーカーごとに取引部品メーカーの専属化・組織化と取引の長期・継続化を特徴とする「垂直系列」のサプライヤーシステムが形成された。
また、1990年代に入ってからはモデルの多様化、競争の激化などで納入部品のコストダウン、品質・性能の向上、納期の短縮などのサプライヤーシステムを一層効率化する必要性が高まった。それで完成車メーカーは直接取引する1次部品メーカーの専門・大型化を推進するとともに、適時供給方式(JIT)の導入、ユニット発注、競争メカニズムの導入、Design-in制度の導入を通じた部品の共同開発の拡大などサプライヤーシステムの深化を図ってきた。
(2)韓国のサプライヤーシステムの構造的特徴
韓国の自動車産業におけるサプライヤーシステムの主な構造的特徴として、大部分の1次部品メーカーが特定の完成車メーカーに専属されており、しかも他の競争関係にある完成車メーカーとの取引がほぼ禁止されている排他的な専属構造であること、また、サプライヤーシステムが単層構造で完成車メーカーが直接取引する1次部品メーカーの数が多いことなどが挙げられる。サプライヤーシステムのこのような構造的な特徴は、主に完成車中心の発展とその形成時期、完成車メーカーと部品メーカーの技術力の劣位などに起因する。
サプライヤーシステムの排他的な専属構造と単層構造という構造的な特徴は自動車産業の発展初期段階では、部品メーカーの生産基盤の構築・部品の安定的な調達という面で一定の成果があったが、部品メーカーの役割が単純な下請生産機能から共同開発などの技術協力という分業関係の高度化が要求される段階では、むしろ部品メーカーの規模の経済と技術力の向上の制約要因となっている。
専属構造と単層構造は、部品メーカーの規模の経済性実現と競争を抑制することになる。専属構造の下では、市場が分割されていることから部品メーカーの規模の経済性の実現が難しく、同一部品を生産する部品メーカー間でも競争が生じにくくなる。また、単層構造によって完成車メーカーと直接取引する1次部品メーカーの数が多く、完成車メーカーの部品メーカーに対する集中的な支援ができず、外注管理の非効率性を高めることになる。
3.自動車産業の再編とサプライヤーシステム
通貨危機以降、完成車業界の再編とそれに伴う完成車メーカーの発注戦略の変化、多国籍部品メーカーの国内進出などが部品産業の構造調整とサプライヤーシステムの再編をも促進させている。
まず、現代・起亜自動車の統合は両社の購買部門とR&D部門の統合を通じた部品の統合発注が進展し、既存の部品メーカーも同種品目別に統合されるか、あるいは競争力の低い部品メーカーは2次部品メーカー化するなどの再編が進められている。実際、現代・起亜自動車は2000年末現在24プラットホーム(41モデル)を2005年まで7プラットホームへ縮小する計画である。
また、完成車メーカーの発注戦略も変化している。完成車メーカーは競争力強化のため部品発注のシステム化及びモジュール化、競争システムの導入など発注戦略を転換するとともに、系列部品メーカーの他の完成車メーカへの部品納入を自由化するなど部品メーカーの大型化・専門化を誘導している。また、電子取引網(KNX;Korean Network Exchange)を通じた部品発注システムの構築を推進している。
次に、通貨危機以降活発に行われている多国籍部品企業の国内進出も部品産業の再編を促進する主要な要因となっている。最近の進出形態の特徴は、これまでは国内部品メーカーへの資本参加を通じた合併企業の設立が多かったが、最近には経営権確保のため直接国内企業を買収する形態が増加している。それも大企業の系列社及び大型専門部品メーカーを中心に行われており、進出分野も電子制御装置、電子部品、Air-Bagなど主要核心部品分野への進出が大部分である。
以上のように、完成車業界の再編、完成車メーカーの部品発注戦略の変化、多国籍部品メーカーの国内進出などによって国内部品産業にも大きな再編が行われつつある。つまり、部品業界も競争力ある部品メーカーを中心に同種企業間統合されるか、2次部品メーカーになり、1次部品メーカーの縮小、大型化・専門化、分業構造の重層化が一層促進されるであろう。
4.おわりに
世界の自動車産業は、完成車メーカー間の合併、戦略的提携などの再編の動きが活発になっており、部品業界でも、グローバルソーシングの拡大、モジュール化、技術開発負担の増加などを背景にメガサプライヤーを中心とする国際的再編が行いつつある。このような国際競争環境の急変の中で韓国の部品メーカーが生き残るためには、現在推進中の部品メーカー再編の早期完了、サプライヤーシステムの発展的な再構築を通じた部品メーカーの大型化・専門化を促進するとともに、グローバル競争に対応するための相互補完的な戦略的提携ネットワーク構築も重要である。
(神戸大学経済経営研究所助教授)
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韓国における地域間人口移動
阿部 泰之
1.はじめに
「ソウル一極集中」の中でも、とりわけ「ソウル」への極端な人口集中が環境破壊、交通渋滞等の経済・社会問題の原因の一つとしてあげられており、人口の不均衡な分布を改善することによって、均衡ある経済発展が望まれている。
そこで、本報告では、地域間の人口移動がどのように変遷してきたのかについて把握し、「ソウル」の拡大・縮小と人口移動の傾向等を明らかにした。
2.分析の手法、結果
分析対象とした地域区分は、ソウル特別市、釜山広域市、及び各道と、ソウル首都圏(ソウル特別市と仁川広域市および京畿道を併せた地域)からなる12地域とした。また、分析対象期間を1970年から2000年に設定し、各地域間の移動者数、流出割合、移動選択指数等を算出した。
分析の結果(ただし、統計の性質上、時系列での単純な比較はできないが)、ソウル首都圏への直接的な人口流入は88、89年を最後のピークとして減少傾向に移行した。また、京畿道への間接的な(主にソウル特別市からの)流入は95年頃まで増加したが、その後は減少傾向に移行した。一方、これとは対照的に、95年を境にそれまで人口流出地域であった忠清南・北道が共に人口流入地域に転じたことが確認できた。
通貨危機後の98年には、一時的に農業従事者が増加したことが象徴しているように、ほとんどの地域において、それまでとは逆の移動形態(「出稼ぎ地域」から一時的に帰郷する)が認められた。例えば、江原道では前年のマイナス922人からプラス8890人であった。
ところが、99年にそのような状況は一変し、通貨危機前の96年まで続いていたソウル首都圏への流入現象は、再び流入増加の傾向を見せ始めた。
3.おわりに
95年以降、続いている忠清南・北道の傾向は、ソウル首都圏がさらにその圏域を拡大し、周辺地域を首都圏の中に組み入れようとする状況を窺わせるものである。
また、その点も含めて、通貨危機後のソウル首都圏への再集中とも考えられる傾向に対しては、新たな研究の機会を得たい。
(大阪商業大学大学院)
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〔科学技術部会研究報告〕
異方性結晶の光物性評価
沈用球
CaGa2S4、SrGa2S4などのアルカリ土類チオガレート化合物は物質のバンドギャップが4eVより大きく、可視光に対して透過であるため赤外領域から可視領域までのEL素子や固体レーザーへの応用も期待される。とくに、アルカリ土類チオガレートのアルカリ土類イオンは、イオン半径と化学性質が希土類イオンとよく似ているため発光中心である希土類イオンをドープしやすい。また、発光中心の励起に必要な加速電界以上の絶縁耐性をもっているので、数少ない青色EL素子の母体結晶の一つとして研究されている。図1にはCaCa2S4、SrGa2S4の結晶構造を示す。これらの化合物は斜方晶系に属しており、単位格子中に32の化学式数を含むため、224個の原子が存在しており、複雑な結晶構造になっている。
これまでこれらの化合物は主に薄膜での発光特性が評価されてきたが、母体材料の基本物性に関する評価はあまり報告されていない。そこで、垂直ブリッジマン法によりCaGa2S4単結晶の作製を行い、単結晶を用いてこの母体材料の基本物性について研究を行う。
図2には単結晶CaGa2S4作製用の三段炉を示している。成長温度、速度、坩堝の材質などの条件を変えて、単結晶が作製可能な条件の探索を行っていく。そして、作製したCaGa2S4の光物性の評価を行う。CaGa2S4は斜方結晶構造をしており、屈折率や誘電率などの基礎物性値も結晶の方位により異なるために偏光測定からこれらの評価を行う。
(大阪府立大学工学研究科助手)
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ハワイ大学に留学して
高龍秀
2001年8月から1年間の予定でハワイ大学のCenter for Korean Studiesに留学することになった。あっという間に4ヵ月がたち、今は常夏でのクリスマスと年末年始を迎えている。この間に体験したハワイ大学の留学事情をお伝えしたい。
留学先となったCenter for Korean Studiesは、1972年に設立され、ハワイ大学におけるKorea研究・教育の拠点となっている。1980年に完成した現在の建物は、ソウルの景福宮をモデルにした色鮮やかなもので、大学を歩けば自然と目に付く存在になっている。外観の華やかさとは別に、内部には会議室・講演室・図書室・研究室が備わっており機能的な建物だ。流暢な韓国語を話すEdward Shultz歴史学部教授が現在の所長で、Hugh H.W. Kang歴史学部教授(国際高麗学会会長)、前所長のChung Hoon Lee経済学部教授、Hagen Koo社会学部教授などがスタッフとして運営にあたっている。2001年後半には、キノネス氏の講演会や韓国の大学との国際学会などが開催された。ハワイ大学における韓国人大学院生の研究会も、Center for Korean Studiesを会場に毎月行われており、Korea研究に関する多彩な行事が行われている。
Centerの紀要であるKorean Studies も年刊で発刊されている。
Center for Korean Studiesも含めてハワイ大学全体として、とてもアットホームな雰囲気であることが印象的だ。Centerの行事以外にも、経済学部のChung Hoon Lee先生の授業や経済学部のセミナーにも参加したが、教授たちはアロハシャツ(ハワイでは正装)、学生はTシャツに短パン、ビーチサンダルという服装も多い。セミナーが終わるやビールとコーラが出されて教授と学生が歓談するという和やかな行事が定例化している。大学のもう1つの特徴は、アジア各国から来た多くの学生・教員がいることだ。Chung Hoon Lee先生の授業には、タイからの交換留学生、中国・韓国・日本出身の学生、フィジー出身の学生、白人、アフリカン・アメリカンなど多彩な学生が参加している。日本とは違い、先生が矢継ぎ早に出す質問に学生が答え議論し、半年に1・2回のレポートと2回の試験があり、学生を教育するシステムがかなり整備されているといえよう。各学部に、日本・中国・韓国出身の教員がいる。韓国人教員をあげれば、経済学部と社会学部に各3名、歴史学部に2名、政治学部の徐大粛教授、音楽学部や語学・医学部などで多くの教員が教育にあたっており、マイナーな存在とはいえないだろう。また、ハワイ大学内にあるEast West Centerには、北東アジア経済ファーラムの運営をされているLee-Jay Cho(趙利済)教授や、人口問題を研究されているChoe Minja Kim教授などの韓国研究者がおられる。ハワイ大学教授が最近出版された研究書で興味深いものとして、次のものがある。
Hagen Koo,2001, Korean Workers ―The Culture and Politics of Class Formation, Cornell University Press.
Lee, C. H. (ed.),2002, Financial Liberalization and the Asian Crisis, Routledge.
ハワイ州全体の民族構成を見ると、最大の民族グループの白人ですら25%しか占めておらず、続いて日系人、フィリピン人、ネイティブ・ハワイアン、中国人、韓国人の順となっている。州人口がおよそ120万人の中で、2万3千人、一方の親のみが韓国系の場合も含めると4万1千人いる韓国人グループは無視できない存在となっている。通称キアモクと呼ばれるKeeaumoku通りには、多くの韓国料理店があり、韓国食材のスーパーマーケットや韓国系の教会も多数あり韓国人社会のネットワークを形成している。ハワイ州・ホノルル市政府も各エスニック・グループの共生を重視しているようで、月ごとに、各エスニック・グループの文化公演などの行事が行われた。コリアン・エスニシティの日には、ホノルル市庁舎に多くの韓国人や他のエスニック・グループが集まり、民族舞踊の公演が行われた。どのエスニック・グループも多数派にはなれないハワイでは、各エスニック・グループの共生が比較的スムーズに行われているといえよう。
2003年はハワイ(米国)への韓国人移民100周年にあたる。多くの韓国人団体や教会などが「韓国人米国移民100周年委員会」を組織し、今から様々な行事を準備している。ハワイ州も州法で韓国人移民100周年記念委員会をサポートすることを決めており、この行事に積極的な支援を行っている。
最後に、参考となるホームページ・アドレスは以下のとおりである。
ハワイ大学マノア校 http://www.uhm.hawaii.edu/
ハワイ大学Center for Korean Studies http://www.hawaii.edu/korea/
East West Center http://www.ewc.hawaii.edu/
韓国人米国移民100周年委員会 http://www.koreancentennial.org/
(甲南大学教授)
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書籍紹介
『統一コリアのチャンピオン ──ボクサー徳山昌守の闘い』
高賛侑 著
2000年8月、在日朝鮮人3世のプロボクサー洪昌守(リングネーム「徳山昌守」)選手は、韓国の曺仁柱選手を破りWBCスーパー・フライ級世界チャンピオンの座を獲得した。
この試合は、同年6月に実現した南北首脳会談後の高揚した情勢のなかで行われたため、プロボクシング世界戦史上初の「南北対決」として注目を集めた。勝利の瞬間、リング上で「チョソヌン ハナダ!(朝鮮は一つだ)」と叫んだ洪選手は、民族的英雄として脚光を浴びた。
彼はその後、初防衛戦に成功したのち、昨年5月に生まれて初めてソウルに渡り、曺仁柱選手とのリターンマッチで鮮やかなKO勝ちをおさめた。
本書は洪選手の闘いの軌跡を描いたノンフィクションであるが、紆余曲折に満ちた道程や、彼を支えた父、金沢ジム会長、恋人たちとのドラマはフィクションのような劇的要素に彩られている。と同時に、在日朝鮮人の歴史や民族問題にも言及しており、単なるスポ根物とは異なる深みを加えている。
また、ほとんど知られていない戦前・戦中の朝鮮人ボクサーたちの肖像は興味深い。特に不世出のボクサー玄海男の闘いには胸打たれるものがある。
洪選手は今年3月に柳光選手と闘い、それに勝てば、5月には彼自身が夢見てきた史上初の平壌での世界タイトルマッチが予定されている。在日の中から生まれたチャンピオンにこぞって声援を送ろう。
※集英社刊 700円+税。ホームページ http://users.goo.ne.jp/sangbong-net参照
編 集 後 記
21世紀は、米国での同時多発テロ事件をはじめ世界各地で緊張が高まる波乱に満ちた幕開けとなりましたが、国際高麗学会はコリア学研究の一層の発展に向けた新たな第一歩を踏み出しました。
昨年12月に実現した平壌支部の開設は、本学会の長年の念願がついにかなったものであり、まことに喜ばしいかぎりです。
また今年7月には、本学会と韓国精神文化研究院、AKSE、KASSとの四者共催による「第1回世界コリア学大会」がソウルで開催されることになりました。
世界のコリア学研究者が一堂に会し、前近代、近現代双方の時代におけるコリア文化と外国文化の相互作用と連携を見出すことを目的とするこの大会は、コリア学の展望を切り開く上で画期的な意義があります。
日本支部の皆様も積極的に参加されるようお誘い申し上げます。 (K)