『日本支部通信』発刊にあたって
大村益夫
現在、国際高麗学会の本部は大阪経済法科大学内におかれ、全世界的スケールで11の専門部会が組織されており、会員約900人をかぞえます。一方、専門別部会のほかに各国、あるいは各地域ごとに支部(米州は地域本部)を置き、専門分野を超えて研究活動と研究者間の交流をはかっています。
日本支部は連絡所を大阪経済法科大学内の学会本部事務局においていますが(来年には大阪のJR鶴橋駅近くに日本支部事務局を移す予定で準備中です)、本部との密接な連携のもとに独自な研究活動を行っています。現在、東日本人文社会科学研究会と西日本地域研究会があり、それぞれすでに相当回数の研究会を重ねてきています。また、科学技術部会の研究会、文学部会の研究会も日本地域内で行われています。
今回、学会全体の『会報』とは別個に『日本支部通信』を発行し、その用語を日本語とする事情は次のようです。
第一に、日本支部における上記の各研究会の活動を整理して、記録しておく必要があると思うからです。創刊号の今回は、これまで3年にわたる東日本人文社会科学研究会と西日本地域研究会の記録を中心に編集しましたが、今後は可能な範囲で科学技術部会の研究会報告等も掲載していく予定です。
第二に、研究会の記録以外にも、日本支部内の連絡や、学会全体の『会報』に収めきれない記事も、この『通信』には収録できると考えます。日本支部の会員の研究活動の紹介や、朝鮮学会・朝鮮史研究会などの他学会との相互交流と協力の場としても活用することができればと思います。
第三に、用語を日本語とするのは、日本支部内においてはその方がてっとり早く意志疎通ができるし、非学会員に働きかける場合も、日本語の方が便利だと思うからです。
国際高麗学会はコリア学を研究する研究者の世界的な組織で、文字通り国際的レベルのシンポジウムや研究会を開催し、また近く『国際高麗学会叢書』の発行も予定されていますが、同時に、それぞれの地域の特性に根ざした各支部独自の研究活動が活発に行われてこそ、学会全体の発展に貢献できるのではないかと思います。『日本支部通信』は、学会や日本支部のあり方について、さらにはコリア学の現状と展望について、会員の皆さんからの御意見を寄せていただき、自由な意志の交流の場をつくることも目的のひとつとしています。この『通信』が会員の研究発展のために、コリア学全体の発展のために寄与することを願ってやみません。
1993年9月6日 (早稲田大学教授)
〔西日本地域研究会報告要旨〕
第1回 1991年10月19日(土)14:00~17:00 たかつガーデン(大阪府教育会館)
韓国製造業労働者の現況
滝沢秀樹
「三低時代」に空前の高成長を遂げた韓国は、90年代に入って再び経済的難局に直面している。その主な指標が輸出の減退による国際収支赤字への逆転であり、その要因のひとつとして常に挙論されるのが「賃金コストの上昇」である。「低賃金の比較優位」を武器に輸出指向型工業化戦略を推進してきた韓国は、1986年以降の賃金コストの急上昇によって輸出競争力を失うに至り、それが経済危機からの回復を困難にしているというのが「通説」的見解である。他方で「民主化時代の主役」として中間層(中産層)の成長が注目され、生産職労働者を中核とする「基層民衆」の変革勢力としての意義が色あせたもののように評価されるようになった。
本報告の問題意識は、必ずしも整合性を持つとは言えないこのふたつの「通説」の妥当性を、事実によって検証しようとするところにある。まず、1985年から1989年頃までの生産職労働者の急増と、産業部門間および職業上の地位別の賃金動向を統計的に把握し、部門別・職業別の賃金格差が現存していること、従って韓国の労働者が全体として低賃金状況を脱却したとは言えないことを論じた。次いで、その一方でたしかに重化学工業部門を中心に一群の(1988年で約37万人)「高賃金労働者」が製造業生産職においても形成されたこと、およびその大部分(33万人)が首都圏と慶尚道に集中していることを明らかにした。
これは管理職や事務職上層などを中心とした「都市中産層」の首都圏一極集中とともに、現代韓国における社会変動と各社会階層の形成が、いちじるしい地域的偏倚をもって進行していることを示している。韓国の民主社会への成熟はこの地域格差をどう解消していくことができるかに、大きなポイントがあると思われることを結論として述べた。
本報告の主な内容は、大阪経済法科大学アジア研究所『アジア研究所年報』3号に発表した(さらに拙著『韓国の経済発展と社会構造』御茶の水書房、に収録)。
(甲南大学教授)
第2回 1991年12月21日(土)14:00~17:00 たかつガーデン(大阪府教育会館)
朝鮮朱子学と社会の特質 --16世紀の李栗谷を中心として--
辺英浩
中国の朱子(1130~1201年)が完成した朱子学は、その後朝鮮・日本などにまで受容されたが、その後独自の展開を遂げた。朝鮮朱子学の特徴は従来いろいろと指摘されている。その一つは、哲学上の意見対立がスコラ論争的に繰り返されたのみならず、それが非常に執拗に官僚たちの流血的な政治闘争に結びついたことがあげられる。さらに両班と呼ばれる士族の妾・再婚した女性・道徳上問題のある女性の子孫に対して文科挙の受験資格を剥奪したが、これも中国では見られない特異な現象であった。女性の再婚や女性に対する道徳的な行動の要求は、もちろん中国にも当然あったが、それは道徳的な次元に止まっていたのにたいし、朝鮮では法的な制裁の対象にまで引き上げられていたのである。
このような現象を考える手がかりをえるために、観念の中身をつつくのを一旦やめ、その背後にある社会に目を向けてみる。宋代以降の中国と李氏朝鮮王朝とは外形的に見ると君主-士-庶民というヒエラルキーが存在し、社会の基底にある村落の階級構成は地主=士、自作、小作の格差構造があるという点で一致している。しかし朝鮮の士が特権的な性格を露にしているのに対し、中国の士はその特権的な性格を朝鮮ほどには露にしていない。朱子の作成した郷約をみると、郷村内での礼秩序は年齢によるとされ地主=士を特別扱いしていない。また宋代以降の中国では「皇帝独裁政治」と呼ばれるほどに皇帝の権限が強化され、臣下たちの力は押さえ込まれていた。李栗谷(朝鮮の朱子学者)の郷約をみると士と、その他の庶民との間に身分的な上下関係が厳格、且つ明確に設定されている。そのほかの朝鮮の朱子学者が作成した郷約でもこの点は変わらない。また李氏朝鮮王朝の国王は中国の皇帝ほどの明確、且つ強大な権限を持っていなかったようで、「両班官僚制国家」と呼び習わされており、決して「国王独裁政治」とは呼ばれない。(この点についての詳細は神戸大学『史学年報』6号の拙稿を参照されたい)
以上の点が確認されれば、初めに述べた朝鮮朱子学の特徴にある程度の見通しを述べることが許されるのではないかと思われる。だが、あくまでも見通しに過ぎない。
まず官僚同士の間での権力党争の多発の問題について。本来「独裁政治が完全に行われておれば、権力はすべて天子に集中されるので、党争は起こるはずはない」ことになる。すなわち李氏朝鮮王朝の国王権力の中国皇帝に比しての弱体さが、凄じく且つ執拗なまでに朝鮮の党争を引き起こしているのではないか。次に科挙試験の受験資格を制限することについて。科挙試験は家柄、血統にかかわりなく能力により官僚を選抜する制度である(ただしその内容は人文的、儒教的教養なのであるから近代的な意味での能力主義とは異なる)。そのため文字通りに運用されれば士族=地主の家から継続的に、系統的に官僚を輩出するとは限らなくなる。いやむしろ官僚を出さなくなる士族が増えてこよう。中国の士大夫はこの意味で身分ではない、といわれるのは、故なしとしない。中国では女子の地位が低く、男子の半分を相続できれば多いほうであったが、男子の間では、長男とそれ以外の子供との区別はしないのはもちろん、正妻の子供と妾の子供をも区別せず、等しく均分であったといわれているようである。士大夫の場合、これは子供の生活基盤を与えるのはもちろんだが、科挙試験の準備機会をできる限り広範に与え、地主=士大夫の家を維持せんとする目的もあるのではないか。李氏朝鮮では科挙試験は後期になればなるほど、両班による不正が大胆に且つ広範に行われる。試験内容も簡略な臨時試験が乱発された。ということは科挙試験が能力主義的に運用されなくなるのであるから、両班の家に生まれればその権勢をバックにして大した儒学的素養がなくとも官僚になりうる可能性が大きくなってきたといえる。この意味で両班は身分化してくると言えそうだ。すると両班の正妻の子供はできる限り自己利益を放棄して、妾の子供まで含めて財産を均分する必要はないのではないか。朝鮮では妾の子供には微々たる財産しか与えられなかった。また再婚した女性・不道徳的な行動をした女性の子供の場合、妾の子供に比して数量的に大したものではなかろうから、以上のごとく科挙と相続とを関連させて考えるのは、いささか苦しいかもしれない。この点は両班が身分化すればするほどそれに見合った厳格な身分倫理が要求されるであろうこと等の面からも考えられる必要がありそうである。
以上いささか、粗い話となってしまった。最後の部分はあくまで現時点で一つの可能性として考えてみても良いのではないかという問題提起であることを重ねてお断りしておきたい。
(大阪市立大学講師)
第3回 1992年2月22日(土)14:00~17:00 たかつガーデン(大阪府教育会館)
従軍慰安婦前史 ーー朝鮮の「からゆきさん」ーー
宋連玉
一 はじめに
「からゆきさん」といえば、すぐに東南アジアを連想しがちであるが、むしろ初期の段階から日本の敗戦に至るまで一貫して「からゆきさん」すなわち日本人売春婦の姿がみられるのは朝鮮から「満州」である。
日本が軍事力を背景に強要した不平等条約、日韓修好条規に始まり、日清、日露戦争、朝鮮の義兵戦争、シベリア出兵、中国大陸への侵略へと続く朝鮮、中国への日本軍の軍備拡張が、「からゆきさん」を吸収するもっとも強い要因となっていた。大陸侵略をにらんだ兵站基地として重要な位置にあった朝鮮は、日本人売春業者にとって廃娼運動の高揚した日本に変わる魅力的な新天地となったのである。
二 開港直後の進出過程
日朝修好条規により釜山、元山、ソウル、仁川の順に開港、開市した。新しい市場を求めて釜山開港4年後の1880年にはすでに吉原の遊郭から朝鮮に渡っており(1)、居留男子10人に娼妓1人といった日毎に勢いを増す売春業に対し、管理の必要性を感じた領事が1879年に日本政府に売春公許を願いでた。外務省はこれを受けて1881年、釜山、元山に日本国内に準じた貸座敷および娼妓の営業を公許する(2)。
1883年に開港した仁川でも開港と同時に売春公許を求める業者の要請を受け、仁川領事は外務大輔へ厳重な取締は効を奏しないばかりか、韓人や外人の嗤笑を招いていることを訴え、釜山、元山、ロシア領のウラジオストックのように公娼制を公許するように求める。公許の根拠として公娼制を認めた方が密売春の取締に要する費用を節減でき、梅毒の蔓延も防ぐことができることをあげている(3)。
これに対し、外務省は日本や中国の外国人居留地に公然と貸座敷や娼妓の営業が認められていないのに朝鮮の日本人居留地にのみ許可したのはやむをえない理由があったが、欧米に対する日本の国家的体面を考慮して領事の提言を退け、仁川には貸座敷を公許しなかった(4)。1882年以来欧米諸国が順次朝鮮と修好条規を結び、欧米人が開港、開市した地にぞくぞくと居留しはじめた。日本が朝鮮における足固めをするために売春業の存在がやむをえないものとして認めていた(5)が、国家的体面のために急遽、仁川には許可しなかったのである。
それに対し、仁川領事は黴毒患者が総患者数の4分の1で、居留婦人の8~9分が黴毒にかかっているという報告を添付して再度公娼制の認可を求める(6)。
しかし陸奥外務大臣から井上公使宛にすでに公娼制が認められていた釜山や元山も1年という期限を設けて業者の転業を申し渡すのである(7)。
領事館では外務省の申し渡しを受け入れ、売春そのものを日本国内の罰則で取り締まることにするが、増加する一途の売春業には焼石に水であった。釜山領事は1885年に井上外務卿宛に密売春が増え、性病、特に「遙ニ虎列刺病ノ上ニテ」ある黴毒の蔓延の実態を報告する。そして一連の弊害を解決するために貸座敷・芸娼妓営業の公許を強く要請するのである(8)。
それに対し、外務省は日本国内の罰則以上に重い上海での罰則を適用し、きびしく取り締まることを命じた(9)。
厳しい罰則規定にもかかわらず、仁川の場合などは表向きは洗濯、針仕事、髪結いに従事しながら、その内実は雇主が年期や人身売買まがいの契約で売春をさせていたり、雇主そのものも旅籠や料理店の名目で貸座敷となんら変わることのない営業をしていた(10)。
仁川においては「売淫取締ノ儀ハ至難ノ事情」であることを認めた外務省は、ついに1884年4月に仁川領事に行政取締を厳重にする方針に切り替え、営業取締をすることとした(11)。すなわち、貸座敷という用語を用いない公娼制を認めることにしたのである。この時に「旅店料理店飲食店諸遊戯場取締概則案」(12)が定められた。同じく元山、釜山、ソウルにも、もともとあった貸座敷規則と芸娼妓営業規則を改正して(13)その営業を引き続き許可することにしたのである。
開港当初は日本政府も貸座敷営業を日本国内と同様に認めていたが、国家的体面と居留民当地のはざまで公娼制を容認しながら、形式としては国内とは違ったものを取らざるを得なくなる。貸座敷という用語は1910年の「韓国併合」まで公的には使えなくなり、遊廓は料理店と称することで営業できたのである。
開港当時は賑わっていた各開港地の売春業も1890年前後には衰えを見せるが、続く日清、日露戦争が第二、第三の遊廓ブームをもたらすのである。
(1)森崎和江『からゆきさん』朝日新聞社1976年
(2)『韓国警察史』第一巻387P、398P
(3)同 上 416P
(4)同 上 388P
(5)『韓国警察史』第三巻 512Pによれば売春客の多くが軍人であったために十分な取締ができなかったとある。これもやむを得ざる理由の一つであろう。
(6)『韓国警察史』第一巻 422、423P
(7)同 上 389P
(8)同 上 394P
(9)同 上 412P
(10)同 上 427P
(11)同 上 434P
(12)同 上 438P
(13)同 上 411P
三 「からゆきさん」の実態
ーー仁川の場合
仁川で発行された日本人居留民の新聞『朝鮮新報』紙上に1907年7月から11月まで敷島遊廓で働く47人の娼妓のプロフィールが紹介されている。仁川の娼妓数は1908年12月末日(『統監府統計年報』)で106名となっているので、1907年の娼妓数を100名と概算してもほぼ半数の娼妓が紙上で紹介されていることになる。このような記事が掲載されること自体、植民地における売春が公に受入られていたことがうかがえる。
それによれば、出身地域で最も多いのは府下出身も含むと大阪で全体の51%を占める24名が紹介されている。それに次ぐのが広島(郡部含む)の5人で、10%強となる。3位は神戸出身者である。
仁川に渡った日本人の出身地は山口県2300人、長崎県1640人、大阪府957人、福岡県884人の順で、大阪は地理的に近い福岡をしのいで第3位となっている(『朝鮮新報』1907年8月8日)。
また「からゆきさん」といえば、森崎和江氏や、山崎朋子氏の著作からも長崎の天草を連想する。確かに日本の廃娼運動を担った婦人団体矯風会でもシベリア地方の踏査・調査した際、島原・天草地方出身者が多いことを報告している(1)。
この新聞紙上で紹介された娼妓の数から朝鮮全体の「からゆきさん」像を描くことはできないが、仁川の娼妓数では山口や長崎より大阪出身者が圧倒的に多いことは次のように解釈できよう。
日本と朝鮮の貿易は阪韓貿易といわれたくらい、大阪の占める経済的位置が大きかったが、それは物品に限らず、売春という人身売買の場面でも同様にいえることであった。西南戦争の兵站基地として軍需景気にわいた大阪は、東洋のマンチェスターとしての地歩を固め、大都市に成長していく。明治期日本の社会矛盾が周辺の都市貧民を襲い、都市貧民の娘たちは早くから売春婦予備軍として存在した。そのような娘たちを仁川ー大阪間の直行船便が組織的に運び出すことになったのである(2)。天草の口入れ屋が手工業的に娘を集めるのと違い、大阪の業者は頻繁な人と物の運搬のかたわら、日本から売春婦を運び、朝鮮から「女工」を運んだのである。
また中には大阪から筑前を経て朝鮮に行った者もいれば、大阪から呉を経て朝鮮に行った者もいる。広島から大阪に出てきた後朝鮮に行った者、神戸から台湾に行き、神戸を経て朝鮮入りした者もある。
年齢は19歳から30歳までにおよび、平均すると24歳となる。士族出身が二人いる外はすべて平民である。
多くが日露戦争の景気をあてこんで自ら渡韓しているか、業者に連れられている。概して朝鮮に渡って初めて娼妓となった者が多いという(3)。ムラの共同体的意識が根強く残る国元からできるだけ遠くへ行き、「醜業」を知られたくないという意識が朝鮮行きを決意させているという。
芸妓の無断外出に罰金2円という厳しい罰則で臨んだケースもあるが、逃亡する娼妓も日本以上に多かったことが伝えられている(4)。政治、軍事都市のソウルは芸妓・娼妓が多く釜山には酌婦が多かった(1907年『統監府統計年報』)。
釜山についで早く開けた元山はウラジオストックへの抜け道としてもその役割を果たし、1ヶ月に1人の退韓処分者を出す有様であった(5)。悪徳業者にだまされ、元山の警察に保護された女性が帰りの船賃を稼ぐために結局売春をせざるを得ないケースもあった(6)。
(1)『婦人新報』261号 1919年4月
(2)釜山ー下関間の定期航路が開かれる(1905年9月)までは仁川は交通の要衝であった。
(3)『朝鮮新報』1907年10月5日
(4)同 上 1907年2月6日、1907年11月2日
(5)同 上 1906年11月6日
(6)同 上 1906年11月6日
五 結 論
日本政府は欧米諸国への手前、売春を無条件取り締まろうとするが、2年も経たないうちに料理店の名を借りた公認売春業を認め、税金の徴収をすることにより、朝鮮での植民地統治の財源に当てていくのであった。
しかし新天地の朝鮮の遊廓も戦争が一段落するたびに不景気に見舞われた。日本に戻る女性もいたが、前貸し金を残す女性の中には新たな戦地を求めて釜山からさらに朝鮮の北の地へ、さらに中国へと吸収されて行くのであった。
(立命館大学講師)
朝鮮の日本人売春婦
表(略)
注①統監府時代は職業別統計に芸娼妓酌婦と明示していたのが、総督府の統治が定着すると芸娼妓酌婦の分類はなくなり、その他の有業者として組み込まれる。その後の数値は警察上取締り営業者の統計から取り出したものである。
注②1908年・1910年の(A)は芸・娼妓・酌婦数を合計したものであるが、統計年報の職業別統計には(B)が記されている。
第4回 1992年4月25日(土)14:00~17:00 たかつガーデン(大阪府教育会館)
在日朝鮮人の経済活動について
金哲雄
在日朝鮮人とは、いわゆる日本の植民地政策によって日本に定着するに至った人々とその子孫を指し、単なる移民とは異なる。第二次大戦末期には240万の在日朝鮮人がいたが、解放後その大部分が帰還し、現在その数は70万程度である。在日朝鮮人の場合、例えば、基本的に教育と経済的チャンスを求めて移住した在米朝鮮人と比べて、慶尚道と済州道の農民出身者が多く、教育及び経済水準が貧弱であった。また、民族の同一性の長所のみをあまりにも強調する日本と、異質性と複合性の可能性を主張するアメリカとでは、両社会の朝鮮人に対する政策と反応が著しく違っているのである。
とりわけ、日本政府は、在日朝鮮人の経済活動の権利を全面的に保障しておらず、行政指導の面から様々な厳しい差別や規制を加えている。それらの具体例として、鉱業権、無線局の開設の禁止、水先案内人や競馬の騎手などの職業からの締め出しなどを挙げることができる。その社会的差別も重大であり、それらを端的に示しているのが、営業・企業活動を始めるに際しての融資拒否や、通名(日本名)、日本式屋号などの強要である。さらに無視できないのは、国籍を唯一の理由として公共事業の指名業者としての入札から締め出されていることである。
また、在日朝鮮人に対する職業選択の自由は極度にせばめられており、自分の希望する職場に入れないでいる。近年、在日朝鮮人にとっても就職環境は若干好転しつつあるのは事実であるが、民間の大手企業などでは、いまだに国籍を理由に、才能のある前途有望な在日朝鮮人の青年を採用しないでいる。このことは、在日朝鮮人において自営業が多いことの理由にもなっている。
このようにして、在日朝鮮人は、中小企業の下請けや零細工場になるか、焼肉、パチンコや不動産、町金融を選ぶなど、道はきわめて限られている。
総合的にみると、在日朝鮮人の経済活動全体の第二次産業に占める比率は約40%で、日本サイドのそれに比べると約2倍になっている。とくに関西地方にその割合が高く、その特徴は零細さにある。これは、いうまでもなく、在日朝鮮人の形成の歴史や日本の朝鮮人政策が重要な要因をなしている。日本全国において朝鮮人が最も多く居住する大阪府の地域的特徴について言えば、例えば、プラスチック(ビニール)製造業は東大阪市、紡績業は泉州地区、革製履物は西成区、土建業は西淀川区に多い。
また、第三次産業に占める比率も高く、日本のサイドのそれの約2倍に達している。ここにも在日朝鮮人が強いられている構造的差別の影響を見ることができる。しかしながら、第三次産業においてその成功例が多い。それは、在日朝鮮人が自ら開拓してきたパチンコやゲームセンターなどの遊戯場、焼肉、バー、クラブなどの飲食業、そして町金融などの金融業、不動産業などである。
前述したような様々な厳しい差別や規制の中で、在日朝鮮人のうちには、商工人として、その活路を見い出してきたものも少なくなかったのである。一般的に、差別とハンデを背負っている民族は、経済活動に、それも特殊な領域に追いやられるが故に、その領域を自己固有のものとする開拓精神を発揮し、工夫、努力、忍耐、先見性によって、また同族内の緊密な結びつきによって事業において成功を収めることが多い。このような特徴は、在日朝鮮人の経済活動においてもほぼ同じように見られる。
在日朝鮮人の経済活動におけるパワーは、祖国への投資などへと展開していった。とくに、最近注目されているのが、1986年から操業し始めた在日朝鮮人と朝鮮民主主義人民共和国との合弁事業である。共和国におけるすべての合弁事業の約7割が在日朝鮮商工人とのものである。1991年4月現在では、合弁事業で働く従業員はすでに1万人を越し、操業中の合弁事業は約60件になっている。契約見込みも含めた合弁事業の総数は200件で、投資額は180億円になる。
投資内容をみると、在日朝鮮人の出資はほとんどが設備、技術、ノウハウ、流通資金などであるのに対して、共和国の出資は建物、土地、材料、労働力、エネルギーなどである。この合弁事業は、この6年間大きく進展しながらも、さまざまな難問を抱えている。しかしながら、現在、共和国の経済は、在日朝鮮人のパワー抜きにしては語られなくなりつつあり、それが朝・日の経済関係にも影響をもち始めているのである。
ところで、最近、「北東アジア経済圏」がにわかにクローズアップされ、朝鮮民主主義人民共和国、中国、ロシアの国境を流れて「日本海」に注ぐ豆満江流域の開発などの大規模な経済協力が重要な課題として浮上している。この経済圏においても、コリアンのネットワークが重要な役割を果たすなかで、在日朝鮮人のパワーが発揮されることになるだろう。
(大阪経済法科大学助教授)
第5回 1992年6月20日(土)14:00~17:00 OIC大阪情報コンピューター専門学校
「韓国NIES化の政治経済学」 ー支配三者体制下の開発と社会変動ー
朴一(大阪市立大学助教授)
第6回 1992年11月14日(土)14:00~17:00 なにわ会館
在日朝鮮人にとっての就学通知
李月順
就学通知とは、市町村教育委員会が就学予定者の保護者にたいし、入学期日と学校指定の通知をするもので、就学保障という性格とともに義務教育の履行を保護者に促す目的をもつものである。ところで、1952年のサンフランシスコ講和条約締結にともなって出された法務省民事局長名による通達によって、在日朝鮮人は自らの国籍選択権を与えられることなく、一方的に「日本国籍」を喪失され、「外国人」ゆえに、義務教育の適用を受けることがなかった。したがって、「就学通知」を受け取るといったことがなかった。
1991年1月10日、当時の韓国政府と日本の政府との間で覚え書きが交換された。この覚書のなかで、教育問題に関し2点確認されたが、その1点が「就学案内」を発給するといったことであった。即ち、義務教育の適用のない外国人である在日朝鮮人にたいし、就学通知を発給することはできないが、公立学校への就学を希望するかどうかの案内としての就学案内を発給するというものであった。
しかし、この覚書以前に就学案内を出している自治体もあり、実際の状況を調査すべく、「就学案内・通知に関する総合的研究」チームを作り、共同研究を行った。1985年の国勢調査から、在日朝鮮人の居住数が多い上位2都市、東京23区、大阪・兵庫から上位5都市、神奈川・愛知・京都から上位3都市、合計126の都市を各都道府県から抽出し、アンケート調査を行った。この調査の結果は、「在日韓国・朝鮮人に関する就学手続きの研究ーー在日韓国・朝鮮人に対する就学案内・通知に関する調査報告書ーー」(京都精華大学紀要第3号、1992年7月20日)にまとめている。この調査結果から就学手続きをみても、方法や名称等実に多様であることがわかった。そして、就学案内・提出書類・就学通知の側面から、大きく3つに分類することができた。「在日配慮型」「日本人同様型」「在日放任型」である。詳細は上記の調査報告書を参照されたいが、何れの型にも共通しているのは最終的に「就学通知」が出される点である(京都市は就学案内のみ)。
ところで、在日朝鮮人は、定住外国人として当然受けるべき行政サービスとして「就学案内」を理解しているように思われる。日本人にとっても、公立の小学校入学時にしか経験しないといってもよい就学通知に関し、深く考えるといったことはほとんどなかったといってよいだろう。しかし、就学通知とは、義務教育履行と深く関わっており、「国民」教育と無関係ではない。義務教育の適用がない外国人だから「就学案内」といった発想ではなく、日本に在住するすべての子どもに対する教育権の保障といった視点から、「就学案内」「就学通知」の問題を考えていく必要があるのではないか。そうした意味で、「就学案内」の問題は、新たな課題を提起しているといえよう。
(関西大学講師)
第7回 1992年12月19日(土)14:00~16:30 大阪国際交流センター
高麗人蔘産業の韓日比較
金孝仙
明治以後、科学的で即効性をもつ西洋医学が導入されることにより衰退してきた漢方医学が、医療分野において、最近新たに注目を浴びている。その理由として、西洋医学だけでは治療の困難な難病が「現代病」の大きな部分を占めるようになり、「科学」や「技術」にのみ依存する西洋医学への疑問が出されはじめ、それを補完するものとして再評価されつつあることが考えられる。また成人病の増加や高齢化社会の到来、自然食品志向の高まりのなか、副作用の少ない漢方薬に対して、その効能が科学的に解明されて来るとともに、見直しが進んできたことも考えられる。
こうした状況のなかで、代表的な漢方薬で、なお韓国と日本において栽培されている高麗人蔘を、生産および流通の側面から考察して、近年直面している諸問題を明らかにし、改善策を模索することを目的にした。
もともと、両国の経済規模からみた場合、比較すること自体に無理が生じる。1990年現在、日本の総輸出額は約2,869億ドルで韓国の650億ドルの4.4倍に達する。また、総輸出額に占める農産物輸出額の比率をみると、日本は0.4%、韓国は1.2%を占めている。さらに、農産物輸出額に占める高麗人蔘輸出額の比率は、日本が0.7%で韓国は12.5%を占めており、韓国の場合、農産物輸出品のなかで単一品目としてはトップを示している。
このような実態をふまえて、強いて両国の高麗人蔘産業を主に生産状況に重点をおいて比較してみると、次のように要約される。
まず、日本は現在長野県、福島県、島根県の3つの地域で栽培されており、これらの地域の高麗人蔘の土根生産はそれぞれかなり異なった方向を追求している。すなわち、島根県では6年生の高品質の生産にほぼ特化しており、長野県でも6年生が中心で次いで5年生が多くを占めているのに対して、福島県では6年生は例外的で4年生以下に相当の比重が占められている。福島県の低品質人蔘生産への移行は、経済規模を拡大し、低価格の輸入人蔘の大量流入に対抗するためであると考えられる。
しかしながら、栽培地域ごとに品質の異なったものを生産し、それぞれ異なった需要層に対応して、独自に輸出市場に結びつくとともに、独自の国内流通ルートをもっている体制をとっているとはいうものの、人蔘需要の著しい増加傾向をみせている国際市場において、日本産人蔘の輸出価格は低下しており、他方では安価な中国産が氾濫している国内市場において、輸入品より割高の日本産人蔘が独自の地位を占めることは極めて難しいと考えられる。
一方、韓国は最初から紅蔘用土根(6年生)と白蔘用土根(4年生)に分けられて栽培されている。紅蔘用土根は朝鮮半島の中央地域に位置している京畿道地域と、江原道、忠清道の一部地域で栽培しており、白蔘用土根は中部以南の忠清南道、全羅道、慶尚北道で栽培している。
高麗人蔘事業は政府主導の紅蔘類及び紅蔘製品分野と、民間主導の白蔘類及び人蔘製品分野に分けられている。政府の政策としては高品質・高価格政策をとっており、1987年の一部民営化により人蔘製品を扱う会社が乱立し、国内市場は需要が伸びているなかで価格の乱れが目立っている。反面、国際市場においては、低価格の中国産におされて市場シェアを狭めており、原料蔘においては品質の向上を、加工人蔘においては高付加価値の製品開発を図り、それを基礎にして安価な中国産の脅威に対抗している。
ともあれ結論的にいえば、日本産高麗人蔘は、国内人蔘生産の停滞と輸出量の減少、さらに輸出量の激増というきびしい市場環境のもとで、高品質の韓国産人蔘と低価格の中国産人蔘に対抗できうる人蔘の新製品開発に成功できない限り、今の円高の状況では生き残るための政策模索は非常に難しいし、今や日本産高麗人蔘は存亡の危機に直面しているといえる。
(近畿大学大学院)
第8回 1993年5月22日(土)14:00~17:00 大阪社会福祉センター
「韓国資本主義論争の性格について」
李東碩 (京都大学大学院)
第9回 1993年7月10日(土)14:00~17:00 たかつガーデン(大阪府教育会館)
韓国経済の構造転換と金泳三政権
高龍秀
本報告では、1980年代後半以降の韓国経済を検討し、その中で登場した金泳三新政権の性格とその経済政策の内容を検討した。
まず第1に、80年代後半の韓国経済が重要な構造転換期にあることを示した。それは85年以来の「三低現象」が88年頃より「三高現象」に変わり、先進国の保護主義も強化することで従来の成長のエンジンであった先進国向けの輸出が停滞し、成長率の鈍化が余儀なくされたことを背景にしている。この構造転換について渡辺利夫は、1)内需主導型成長パターンへの転換、2)海外投資の拡大により克服可能であるとしているが、80年代末の内需拡大は建設投資に主導された側面が強く、今後も持続可能であるかは未知数であり、海外投資も国内での産業高度化を目的として設備投資以上に増大することによって産業空洞化の危機を招いているという問題がある。韓国の輸出停滞は、韓国商品がいまだ価格競争力を最大の武器としており、品質・性能・ブランド等の非価格競争力で劣位にあることに原因があり、今後高賃金・為替レート上昇という高コストに見合う、先端技術の開発、産業構造の高度化が課題として残されているといえよう。
第2に、93年に出帆した金泳三政権の性格について、韓国でのチョヒヨン、崔章集らの分析を紹介しながら以下の点を指摘した。①第三世界での資本主義的発展に伴い上部構造が第三世界類型の自由民主主義体制へ変化を遂げつつあることと類似して、ポスト軍事政権(Post-military regime)として「韓国型ブルジョア民主主義の初歩形態」の性格をもつこと。つまり、60年代以降の工業化過程で確立されてきた資本主義的土台と軍部政権下でのファシズム的上部構造が乖離し、資本主義的土台に相応した「ブルジョア的」上部構造が形成されてきた初歩形態であり、支配と蓄積の「合理化」を成し遂げ、ブルジョア的支配秩序の成立を目的としたものである。②旧支配権力と断絶した形で政権交代が行われるのでなく、旧支配権力の変形を通して、“上から”成立したという矛盾と歪曲された性格をもつ。従って新政権の「改革」的性格は、新政権内の旧政治勢力と新勢力の対立の中でその限界が決定される。③政治的民主化は一定程度行うが、独占的蓄積構造・不平等な分配構造を革新する経済的民主化では限界性をもつ。
第3に、金政権の経済政策を検討した。李経植・経済企画庁長官、朴在潤・大統領経済首席秘書官を中心とする経済チームの下で、3月22日に発表した新経済百日計画により、設備投資資金供給の拡大、金利の引き下げによる景気浮揚策と共に、規制緩和・自由化政策を打ち出した。続いて7月に、新経済5カ年計画(1993~97)を発表したが、それは経済政策を政府主導型から民間自律型(自由化による効率向上)へを基調に、①改革政策として、金融の自立化(96年までの金利自由化、金融機関の人事・資金運用の自律化。政策金融の縮小、銀行の民営化)、財政改革(米の政府買い上げによる二重穀価政策の段階的縮小ー財政赤字の縮小、総合土地税の課税標準の段階的引上げ公示地価への一致)。②行政規制の緩和(企業活動の制約を大幅に緩和、輸出入通関手続きの緩和、土地利用制度の規制緩和)。③財閥の改革:百貨店式の非能率経営を改革し業種専門化政策を93.9から実施。3業種以内の専門業種中心の企業集団に改編し国際競争力向上を計る。主力企業に与信規制解除。系列企業間での相互出資の限度の縮小、株式公開、一族株式支配率の縮小を図る、という内容である。これらは当面の景気沈滞に対する刺激策と共に、財閥政策に見られるように、従来の政権との癒着や前近代的経営(株式非公開、一族による所有・経営支配)による非正常な蓄積を是正し企業体制の合理化による競争力向上を図ったものであるが、80年代後半より課題となった労働政策や公正な分配という問題では課題が残っていることを指摘した。
研究会では報告の後に参加者の間で活発な討論が行われ大変参考になった。感謝したい。
(甲南大学講師)
〔東日本地域研究会報告要旨〕
第1回 1991年12月7日(土)15:00~18:00 法政大学大学院棟 2F202教室
戦後アジアにおける米国の「地域統合」構想と韓日関係1945~60
李鐘元
私の報告は、1991年3月に東京大学法学部に提出した同名の助手論文を要約したものである。同論文はその後、最初の章を独立論文として書き直し、「戦後米国の極東政策と韓国の脱植民地化」という題で『岩波講座・近代日本と植民地・第8巻・アジアの冷戦と脱植民地化』(岩波書店、1993)に収録された。また、論文の本体に当たる部分は、「アイゼンハワー政権の対韓政策と『日本』」として『国家学会雑誌』に1993年末から3回に分けて掲載される予定である。詳しくはこれらの論文を参照されたい。
これらの論文に一貫した関心は、通常「空白期」として捉えられる1950年代の日・米・韓の三国関係の形成・展開過程を、近年機密解除が進んでいる米国側外交文書などの1次史料に基づいて実証的に跡づけることにある。米国側1次史料は、概ね1950年代末~60年代初めまでのものが解禁されており、ようやく50年代が歴史研究の対象になってきたといえよう。本論文では、主として米国国立公文書館およびアイゼンハワー大統領図書館に所蔵されている大統領府・国務省・国防省・統合参謀本部・国家安全保障会議・対外援助機関(ECA・FOA・ICAなど)のファイルを利用した。
1950年代の日・米・韓関係が「空白期」とされるのは、単に史料の制約による研究上の空白という意味だけではない。実際に、戦後東アジアの冷戦体制の一角を担った三国関係は1965年の韓日国交正常化までは、公式には米国を媒介として辛うじて成立していたのみであり、韓日関係は文字どおり「断絶」状態にあった。朝鮮戦争によって確定的となった反共独裁の李承晩政権に対する米国の支援、米国の援助にあぐらをかいた無能・腐敗した李承晩独裁政権の緩やかな自己崩壊の過程、李承晩の「盲目的」(もしくは「政治的」)な反日政策・言動のみが際だった不毛の韓日会談の断続的展開などといったものに集約される「空白」のイメージが、1950年代(とくに朝鮮戦争以後)の日・米・韓関係についての活発な研究を妨げてきた大きな要因であった。
こうしたステレオタイプを乗り越え、50年代の意味を捉え直すために、本論文では時間と空間の二つの「連続性」に着目する。その一つは、「地域的ひろがり」というべきもので、例えば米国の対韓政策を従来の外交史のように二国間関係の次元ではなく、対日政策との関連など地域政策のコンテクストの中に位置づけようとするものである。そのための手がかりとして、米国のアジア政策におけるいわゆる「地域統合」構想に焦点を合わせる。J・ダワーの「日本スーパー・ドミノ論」以来、M・シャラー、W・ボーデンらの実証研究によって、冷戦期米国のアジア政策における「地域統合」構想(即ち日本の経済復興を支える後背地としてアジア諸国と日本との垂直的国際分業体制を再構築するという構想)をめぐる議論の過程について歴史的解明はかなり進んでいる。しかし、従来の研究においては、地域的に東南アジアが主な対象となっており、時期的にも朝鮮戦争までに限定されている。本論文では、こうした「地域統合」の概念を地域的には韓国に、また時期的にも朝鮮戦争以後にまで拡張してみようとする試みを行ったわけである。事実、1950年代の韓米関係の最大の焦点は「日本」というファクターであったといってもよい。よく知られた韓日会談への米国の圧力と調停だけでなく、例えば対韓経済援助の対日購買問題、援助による韓国の工業化の程度と形態、日本の再軍備と韓国軍の強化問題など、朝鮮戦争以後の韓米間のさまざまな対立点はその多くが日本を中心とした地域的秩序の構築を目指した米国のアジア政策を背景に展開された。冷戦戦略の一環としての「地域主義」(=日本重視政策)と、李承晩政権のある種の「ナショナリズム」との対立の構図をそこに見いだすことができるのである。
こうした視点に立つと、50年代を東アジアの国際関係において、戦前・戦中と60年代以後の時期とをつなぐ時間的連続性の中に位置づけることが可能になる。つまり、韓日条約と日本資本の対アジア進出など、日本とアジア諸国との政治・経済的結び付きが再び強化され、「大東亜共栄圏の再来」が言われるようになるのは1960年代中盤からのことであるが、戦後の「空白期」においてこうした連続性を担保にしたのは米国の政策であったということである。その意味で、韓日関係のみならず、アジアの国際関係において「60年代的状況」を生み出したいわば「前史」として1950年代を照らし直すことができるであろう。
(東北大学助教授)
第2回 1992年1月25日(土)14:00~17:30 東京大学 本郷校舎内「山上会館」
韓国における福祉国家への模索
兪和 (東京大学大学院)
第3回 1992年3月7日(土)15:00~18:00 法政大学大学院棟 2F202教室
金龍済と金鐘漢
大村益夫
金鐘漢(1914~44)と金龍済(1909~ )はともに1930年代に活躍した朝鮮の詩人であるが、本国の文学史の中ではほとんど取り上げられない。たとえ取り上げられても「親日」文学者として唾棄されるだけである。しかし、当時の状況に照らしてみるとき、「日帝下暗黒期」の文学行為を、抵抗文学か親日文学かという一線だけで載るのでは、把握しきれないものが残るのではないかと思う。
金鐘漢は1944年に30歳の若さで病死するまでの5年間、詩人として、評論家として、また翻訳家として秀れた仕事を残した。日本の敗戦を間近には予見できず、自分の命よりは日本の支配が長引くと考えた時、それでも民族的良心を失わない文学者が、何を思い何を書き残したかという一つの典型を金鐘漢に見ることができる。
彼は小説家では李泰俊・李孝石、詩人では鄭芝溶の芸術的香気を満喫しながら、佐藤春夫を師と仰ぎ、中野重治に自分の将来の進路を相談するほど傾倒していた。
金龍済は1927年に苦学目的で来日し、1937年に強制送還されるまでの10年間と帰国後の2年間、日本の支配層と植民地支配にもっとも果敢に抵抗したプロレタリア詩人であった。
彼は在日10年の間に4度逮捕され、そのうち3度目は3年9カ月の長期にわたった。
日本の左翼文学者たちが軒なみ転向していく中にあって、金龍済は「百回掃払百一修」(百回掃払すれど百一修す)と、払っても払ってもまた巣を作るクモを「獄中漢詩」の中でうたっているが、金龍済自身もクモのように最後まで非転向で貫き通した。治安維持法による裁判で、みずから上告趣意書を書いて大審院(最高裁)まで争った。
1939年以降、彼は親日文学に走るけれども、その結果をもって、それ以前の業績すべてを否定し去ることは、一人の詩人の評価としても、朝鮮文学史の叙述としても、妥当性を欠くといわざるをえないと思う。
(早稲田大学教授)
第4回 1992年5月9日(土)15:00~18:00 法政大学大学院棟 2F202教室
「私的自治と裁判所制度」 ーー韓・日比較に関する一考察ーー
河正慶 (帝京大学講師)
第5回 1993年6月5日(土)15:00~18:00 法政大学92年館 大学院701教室
1980年代後半における韓国社会の変化
滝沢秀樹
本報告は、金泳三「文民政権」の成立によって韓国社会がひとつの転機を迎えた今日の時点で、韓国社会の構造変化を「三低時代」以来の社会階層の変化とかかわらせて考えてみようとしたものである。
素材として、昨年末の大統領選挙におけるソウル市内における金泳三氏と金大中氏の得票傾向の相違について、1990年の人口・住宅センサスと大統領選挙の洞別得票数を対比した表を提供した。金大中氏は相対的に「基層民衆」に厚い基盤を持って来たし、その傾向は今日でも認められるが、中産層を標的にした「ニューDJイメージ作戦」のため、「基層民衆」のかなりの部分が棄権にまわったとみられるという内容である。
民主化の主体として「中産層」をどう位置づけるかという点と、これは直結している。中産層の成長という否定し難い事実を十分におさえたうえで、中産層が全ての問題の鍵を握るという「中産層神話」にやはり疑問を持たざるを得ないというのが、報告者の立場であった。
これに関連して、朴政権以来の‘権威主義体制’(と概念規定することの是非も含めて)の歴史的位置づけを、市民社会論のレベルで試みること、それはさらに根本的には解放前後史にさかのぼって分断社会固有の問題としての位置づけを必要とする問題ではないかということを述べた。
当日、在京の朝鮮・韓国研究者の一線級の人々の多数の参加を得て、最後に述べた点についての活発な論議がもてたことは、報告者としても望外の喜びであった。
(甲南大学教授)
本年7月7日より11日まで、国際高麗学会米州支部、ミシガン州立大学・漢陽大学校(韓国)の三者共催で「第1回米国Korea学国際学術会議」がアメリカのミシガン州立大学で開かれました。日本支部から参加した医療部会の金守良氏より次の大会参加記を寄稿していただきました。
21世紀に向けての韓半島の変化
ーー平和・調和・進歩ーーについての国際シンポジウムに参加して
金守良
去る7月8日~11日まで、米国ミシガン州、ランシングにあるミシガン州立大学にて行われた、上記シンポジウムに参加する機会を得た。参加者は、在米韓国人を中心として、在加、在日、在中、在露のコリアン600人あまりで、一部米国、欧州人の参加もあった。北朝鮮からの参加はなかった。分科別には、政治学、経済学などの社会人文系と技術・医学系など10数分科に別れた。この4日間、分科別のシンポジウムは、朝8時から夕5時まであり、1時間の夕食をはさんで、全体集会と文化行事を含め夜10時すぎまでのハードな日程であった。その上、公用語は、ハングルと英語ーーそのいずれも私にとっては、外国語である。ーーであり、4日間は緊張の連続であったが、私にとって学ぶべきことが多く、大変有意義なシンポジウムであった。分科別には、もちろん医学系に参加したが、参加者は50人あまりであった。テーマは、免疫・移植・肝炎・エイズなど、現代医学の中心的テーマが取り上げられ、私は「C型肝炎研究の進歩ーー疫学と治療を中心にして」という演題を発表した。米国・韓国の医科大学教授を含む研究者から充実した内容の発表討論がなされ、私自身勉強となった。また、このような研究者と交流を深めることができたことも大きな収穫であった。
短い時間であったが、米国をはじめとする世界各地から来た海外在住コリアン(Korean overseas)と交流して感じたことは、わずか数十年の間に、彼らがそれぞれの国において強く根を張ってさまざまな様式で生活していることであり、コリア民族の、生活力、適応力の巧みさについて、再認識した次第である。
民族意識や祖国とのスタンスなどの違いからみて、これらの人々及び在日同胞を海外コリアンという言葉でくくれるかどうかは疑問である。しかし、今重要なことは、その違いを強調するのではなく、いかにして共通の言葉、感情を持って民族的同質性を確認できるかどうかであると考える。そのための方法こそが、模索されなければならないであろう。
会期中に文化行事の一つとして、現在韓国で大ヒット中の、伝統芸能であるパンソリの継承を描いた映画「西便制」を見る機会を得た。私が見た、韓国映画の中では、最高の作品であり、そこで受けた感動は、今回のシンポジウムの印象を一層忘れがたいものとした。
1993.9.1 (神戸朝日病院院長)