日本支部通信 第15号(2001.7)

巻頭言

 

グローバリゼーションという「妖怪」、そして「高麗学」

 

文京洙

 

 昨年(2000年)の3月まで一年ほど、済州島で暮らす機会を得て、去年はほとんどその余韻の中で過ごした。周囲からもことあるごとに「済州島はどうでした」と訊かれ、私は、たいてい、宿舎の置かれていた済州大学校の伸びやかな自然を思い浮かべて「快適でした」と答えていた。もちろん、ことはそう単純ではない。研究上のことや四・三事件関連の取組みにくわえて、兄の住む田舎の、ほとんど文化人類学の標本のような生活世界にも身をおき、戸惑いや失敗も少なくなかった。京都に戻って一年以上経ったいまも韓国での経験の重さや意味をはかりかねている、というのが正直な気持ちである。
ところで、私が身をもって体験した韓国社会は、「IMF事態」といわれる未曾有の金融危機のさなかにあって、「国民の政府」(金大中政権)のもと急速な立ち直りへの兆しが見え始めた頃であった。危機のどん底から這い上がり、グローバリゼーションの時代を必死に生き抜こうとする人びとの営みに圧倒される思いであった。世界市場での限りない競争を勝ち抜くために心をひとつにして邁進する人びと、新しいレベルで再現さる国民的一体感=ナショナリズムの昂揚は、それこそがグローバリゼーションの時代を生き抜く唯一の手立てであるかのようでさえあった。南北首脳会談として実を結んだ北への融和政策でさえ、一面では、地球規模の競争に勝ち抜こうとする大財閥の思惑がかいま見えていた。「落薦・落選運動」に国中が沸き、韓国の選挙風土の刷新をもたらした2000年4月の総選挙でも、「新自由主義」というグローバリゼーションの論理に対抗する有効なオルタナティブが示されたわけではない。
グローバリゼーションという妖怪は、済州島の片田舎の地域社会にも影を落としていた。蜜柑とか玉葱・ニンニクといった兄たちの生活の糧となる農業は、問答無用の市場の論理になす術もなく揺れ動いていた。グローバリゼーションは、資本の側からは国を超えたビジネス・チャンスの無限の拡大を意味するけれども、空前の失業率や農産物価格の低落など社会の底辺では自由化や構造改革にともなう痛みが累積する。地域社会の規範とか慣習とか文化が市場の論理や効率性の名のもとで解体され、世界的に標準化された枠組みのなかでつくり変えられようとしているのである。そんな流れに抗うかのように、兄たちは、睦まじい村の共同体の和を支える儒教的な慣わしや義理をかたくなに守ろうとしていた。
もっとも、グローバリゼーションは、単純な生活様式・文化の均質化の過程ではない。時間と空間が圧縮され、異なる文化や社会どうしの触れ合いの頻度と深さが増せば増すほど、それぞれの社会での個別性の意識や感情がいやが応でも高まる。「ナショナリズムのグローバル化」(テッサ・モーリス=鈴木)と言われるように、グローバリゼーションは、世界中で原理主義やナショナリズムに新しい息吹を与え、韓国の「競争国家」としての台頭も、「教科書問題」に見られる日本での「国家主義」も、ひいては私たち在外コリアンのアイデンティティの問題も、そういうグローバリゼーションの文脈を抜きにしては語れない。
ともあれ、グローバリゼーションは、人文、社会、自然の諸科学の垣根を越えた「知の枠組み」の再編を冷戦後の世界につきつけている。「グローバル・デモクラシー」とか「市民的な公共圏」といった地球規模の民主主義や市民社会の論理が、グローバリゼーションという妖怪への対抗軸として模索されつつあり、南北朝鮮の共存と和解への努力がそういう知の枠組みの再編に一つの可能性を示すことが期待される。そして、そんな中に私たちの「高麗学」も置かれている。国境や学問領域をこえた知の結集としての「高麗学」の真価が、いま、問われているのである。


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特 集 国際シンポジウム 激動する朝鮮半島と北東アジア

 

主催 国際高麗学会日本支部
日時 2001年6月9日(土)午後1時~5時
場所 大阪教育大学天王寺キャンパス中央館

 

 6月9日(土)に大阪教育大学天王寺キャンパスで、国際高麗学会日本支部主催による国際シンポジウム「激動する朝鮮半島と北東アジア」が開催されました。
2000年6月の南北首脳会談以来、南北対話が進展し北東アジアでは新たな動きが見られています。また、新しく発足したブッシュ米政権は朝鮮半島政策の見直しを進めており、北東アジア情勢の流動化を予感させています。
今回の国際シンポジウムでは、昨年、金大中大統領の平壌訪問に特別随行員として同行した李鍾先生(世宗研究所南北関係研究室長)が「韓国の太陽政策と朝鮮半島の平和」というテーマで報告されました。李先生は、金大中政権の太陽政策と米ブッシュ新政権のMD(ミサイル防衛)政策・対朝鮮半島政策、第2回南北首脳会談の展望などについて報告されました。
次に、木宮正史先生(東京大学大学院総合文化研究科)が「北東アジア情勢の変化と日朝国交正常化交渉の展望」というテーマで、日朝国交正常化交渉の経過と意義、北東アジアでの安全保障の展望について報告されました。
金己大先生(前新潟国際情報大学)は「朝鮮民主主義人民共和国の経済政策と北東アジアの経済協力」というテーマで報告され、朝鮮民主主義人民共和国の経済状況と克服課題、北東アジア経済協力について言及されました。
シンポジウムでは、米ブッシュ政権の政策変化が朝鮮半島にどのような影響を与えるか、中国の朝鮮半島政策の変化、日朝国交正常化交渉の課題などについて議論されました。

 

 

韓国の太陽政策と朝鮮半島の平和   李鍾ソク

 

1.南北首脳会談の意義
:南北関係のパラダイム転換:対決→平和共存
脱冷戦と社会主義の崩壊、北朝鮮の「資源制約状況の深化」などの構造的要因の作用;平和共存への流れの逆転はあり得ない。
:南北共同宣言文の意義;最高指導者の直接合意、
平和統一問題の主体:南北当事者であることの明確化
:朝鮮半島の冷戦構造解体の契機、南北朝鮮:新しい平和秩序構築の主導力として台頭
:太陽政策の当面課題(離散家族、経済協力、交流、当局間対話)実現への第1歩

2.首脳会談以後の朝鮮半島情勢の展開
1)2000年の情勢
【南北関係】
:共存・共栄の雰囲気、政治・経済・社会文化・軍事・外交全分野での均衡的な関係発展
:政治;長官級会談(4度、定例化)、南北連絡事務所の正常化
経済;京義線連結事業、経済協力実務接触
社会文化;離散家族訪問
軍事;休戦ラインでの誹謗放送中止、南北国防長官会談
外交;南北外務長官のバンコック会談
【米朝関係】
:趙明禄国防委員会第1副議長の米国訪問:米朝共同コミュニケ(2000年10月)
:オルブライト国務長官訪朝、
合意事項;3機の人口衛星の代理発射、テポドン発射中止、ノドンの廃棄検討
ミサイル射程距離の意見の差縮小(北500キロ:米300キロ)
ミサイル輸出の放棄の条件緩和(10億ドル現金補償→食糧支援)
継続課題;現状検証(北朝鮮難色)
*ノドン廃棄用意の意思表示:日朝修交(70~80億ドルの請求権資金期待)を意識
2)挑戦と機会の交錯:ブッシュ政権の登場
:ブッシュ政権の登場と気流の変化
ミサイル防衛計画(MD)、ならず者国家、軍用機衝突と米中対立→域内緊張の恒常化、朝鮮半島情勢の不安定化
:4月以降、平和推進動力の回復
金大中訪米以後、米の朝鮮半島専門家の論調変化(対話路線)
ペーション・スウェーデン首相の南北連続訪問
金正日国防委員長;2003年までミサイル発射猶予宣言、国際世論の動向

3.現段階の朝鮮半島平和への基本論点:MD問題と米朝交渉、そして韓国の立場
:米、MD推進の名分:北朝鮮脅威論→米朝交渉の障害
:韓国政府の立場;米国に対する米朝交渉の必要性の説得
米朝交渉の意義;北朝鮮による「米国の東北アジア地域でのヘゲモニーの認定」
米国主導の世界秩序へ加わる意思表示→米国の国益にも合致
対朝強硬策→中国の北朝鮮支援(北朝鮮を屈服させることは困難)
むしろ米国の指導力に打撃、北のミサイル開発を促す危険
:ブッシュ政権の新しい政策方向;MD推進と米朝交渉の並行戦略
NMDからMDへの「意味の広域化」、
北朝鮮脅威論のMDの名分に占める比重の減少
:北朝鮮問題とMDの分離についての韓国の立場:
「完全に満足すべきものではないが」「現実的で有力なオルタナティブ」
「韓国政府が並行戦略を主張するからといって、それがMDを支持することを意味しない……分断国の現実の中で民族問題を解決し、米国の同盟関係という現実を前提に朝鮮半島の平和を求めなければならない韓国政府の立場では米政府に全面的に反対してMD反対を主張することができない。このことから導き出されるのが“戦略的模糊性”である」。
:韓国政府のMD支持→中・露の北朝鮮との軍事政治協力関係の強化、新冷戦の可能性→したがってMDについては韓国は、最小限、中立を維持
MDに対する韓国政府の“戦略的模糊性”=韓国外交の譲ることの出来ない基本政策

(世宗研究所南北関係研究室長)

 

 

北東アジア情勢の変化と日朝国交正常化交渉の展望   木宮 正史 

 

1 日朝国交正常化交渉の意味
歴史:歴史の清算(植民地支配に対する清算と冷戦下における敵対関係の解消)
安保:北東アジアにおける安全保障
経済:北東アジアにおける経済協力による経済的繁栄

2 日韓(国交正常化)と日朝(国交正常化)との関係
[日韓]・[日朝]間関係の歴史的展開:相互排他的関係形成のダイナミズム
日韓国交正常化に対する歴史的考察と日朝国交正常化に対する含意:両者の共通点と違い
日韓関係に対する日朝国交正常化交渉の及ぼす影響

3 朝鮮半島冷戦解体の意味とそのプロセス:金大中政権の太陽政策とペリー・プロセス
1990年代の朝鮮半島をめぐる国際関係:[南北]・[米朝]間関係の力学
金大中政権の太陽政策のオリジナリティ:[南北]優先に固執しない帰結としての[南北]優先
ペリー・プロセスの意味:アメリカの対北朝鮮政策の帰結と太陽政策による影響
南北首脳会談の評価:その歴史的評価とその後1年の推移

4 ブッシュ政権の対北東アジア政策:アーミテージ・レポート及びランド研究所報告書をてがかりとして
クリントン政権とブッシュ政権の外交戦略の比較
アーミテージ・レポートとペリー・レポートとの比較
ランド研究所報告書をどのように見るか
ブッシュ政権の対北朝鮮政策

5 日朝国交正常化交渉の戦略:日韓関係に即して
南北関係の現在:経済協力と安全保障
日朝国交正常化と南北経済協力
日韓国交正常化に対する日韓の評価:歴史の清算と経済協力方式をめぐって
日朝国交正常化に対する韓国国内の視角

6 日朝国交正常化交渉の国内的基盤:対北朝鮮強硬論に対抗して
「奇妙な」同居:「新しい歴史教科書をつくる会」と対北朝鮮強硬論
対北朝鮮強硬論の国内基盤とその分断・解体の必要性
日朝国交正常化交渉推進のための多数派形成:何に基づいてどのような勢力を動員するか
日朝国交正常化の理念と現実:その乖離をどのように埋めていくか

7 朝鮮半島と北東アジアにおける安全保障の展望:多国間安保の枠組みの構築の必要性
どのような北東アジアが望ましいのか:いくつかのシナリオ
既存の2国間安保レジームの有効性とその限界
多国間枠組みの必要性とその担い手およびその条件

(東京大学大学院総合文化研究科)

 

朝鮮民主主義人民共和国の経済政策と北東アジアの経済協力―第3の国際化時代の朝鮮半島と国際経済競争力の構築―
金己大

 

はじめに
2000年6月の南北トップ会談の歴史的意義は一言でいえば、近代史以降の150年間の民族史を総括し、21世紀のこの国のかたちをつくる諸問題で南北のトップが画期的な合意をみたことだと考える。私の報告はその合意を具体化し、政策立案化していくために必要な一般的な作業として、過去の総括と未来の展望を社会科学的視点から私なりに整理したものである。
このテーマには多くの問題があるが、報告は二つの問題にしぼっている。
(1)第1の問題はトップ会談の評価の方法論について考察する。結論を言えば、状況の総体的な評価と自分の専門分野で現場を見て判断できる能力が必要だ。第1章では前者を扱う。
近代史以降150年間の国家の興亡と国内外状況の構造的変化、さらに今後の展望を明確に認識するためには、3つの時代区分(第1、第2、第3の国際化時代)が必要だ。これによって自らが生きている世界の時代認識と行動をより明確にすることができる。
では現代をどう認識するのか。現代は国際化・情報化の時代であり、グローバル化と相互依存の時代(つまり1国だけでは国家経済が成り立たない時代)、東西冷戦後の世界経済大競争が行われている時代だ。日本や韓国では巨大企業も競争に敗れて続々、倒産している。企業だけでなく政府も欧米や中国、ロシア、韓国、日本など各国は制度の大変革を行っている。
南北トップ会談の意義と内容、行く末を見定めるためには、こうした世界史的な東西冷戦後の大変革が進行している中で、先行諸国の経験を研究し、比較して、総体的な時代の動きを理解し、世界的な視野からみた客観的な評価が必要だ。後世の歴史的評価に耐えられる東西冷戦後時代の国造りの戦略的構想と見通しが必要である。
急速に変化する世界の経済情勢地図や自分の現在地の確認なしには、道に迷って競争から退場せざるをえない。
人間はロマンと感動を求めて生きている。南北トップ会談は人々に感動を与えた。しかしそれは社会を構成している人々の日々の1歩1歩がなければ実現しない。それはまた21世紀の共通の北東アジアを構築していく過程である。世界の諸国や内外の多くの人々の理解と信頼、創造的協力が必要である。
民族史に刻まれた苦難の時代を受け継いだ私たち7500万人は誰よりも献身的に働き、外国の友人から信頼されるとともに、21世紀に相応しい理念と実務能力を磨き上げ、課題と政策を構想、立案し、具体的な選択肢の提案で人々をひきつけねばならないだろう。
(2)報告の第2の問題は世界的経済大競争のなかで朝鮮半島南北の経済分野の国家競争力の現状と対策について考察する。これは配付した統計資料と解説で行うが、自分の子供の成績表や家族の診断書と同じく、しっかり理解しなければならないと思う。

1 現実認識・方法論の確立

 この章では大局的な現状認識の方法として近代以降の世界史と自国史の中で国家の興亡とその教訓を明確にする。朝鮮民族はこの150年間、大きく振り回されて生きてきた。こうした歴史をしっかり回顧、評価し、歴史的経験と教訓をしっかり学びとることが重要だ。そして自らが生きる時代的環境の特徴と見通しを自覚し、南北トップ会談の成果をしっかり受けとめて、生かさねばならない。
(1)朝鮮半島第1の国際化(開国)時代(19世紀中葉~第2次大戦の終結まで)
(2)朝鮮半島第2の国際化(開国)時代(第2次大戦後~南北首脳会談まで)
(3)朝鮮半島第3の国際化(開国)時代(南北トップ会談以降、21世紀の時代)

2 第3の国際化(開国)時代、朝鮮半島の国際競争力
(1)朝鮮民主主義人民共和国、トップ会談後の五つの課題
第2章では南北トップ会談成功後の歴史的状況を受けて、朝鮮半島の潜在的力量を発揮するための朝鮮の政治的経済的課題を考察する。
現在、朝鮮が当面している課題は内容からみてつぎの五つに要約できる。
①軍事問題、核兵器、ミサイル、大量殺人兵器などの規制、軍縮、安全保障の確立など
②外交問題、アメリカ、日本などとの国交樹立
③経済問題、国際開発銀行への加入、先進的技術・経営の導入と農業、工業の再建、債務の返済と信頼性の回復、市場経済の習熟、競争原理の導入など
④市場経済に呑み込まれないで経済を管理運営し、発展させられる人材の育成、技術者の育成、文化の国際化
⑤急速に変化する内外情勢の中での政治の指導力堅持と厚い指導層の育成、民衆の判断力の向上
このうち①、②の軍事・外交問題はトップの決断と担当エリート幹部たちの外国との交渉で解決できる問題である。それだけに早急な解決が望まれるし、また実現も可能であるが、その日程はまだ明らかでない。
③、④、⑤の課題は少数のエリートたちによる保障だけでは解決できない。民族の主体を構成する全勤労者の社会的構成が変化する課題であるだけに、歳月のかかる問題である。
どれくらいの年月が必要か。北東アジア地域諸国の先行経験を見てみよう。
まず韓国の事例、韓国が本格的な経済開発に取り組んだのは朴政権成立後である(1961年)。日本と国交を樹立(1965年)して離陸に成功し、その後高成長経済政策が成功した。そして権力掌握後30年の歳月をかけて社会構成が変化し、文民政権が登場(1992年)した。
社会主義国中国の事例をみると、ニクソン米大統領の訪中(1972年)、日本との国交樹立(1972年)、米国との国交樹立(1979年)をへて、中国は改革開放に向かった(1978年)。農村での生産責任制の実施や私営小企業、委託加工、合弁企業で市場経済の経験を積み、競争経済に必要な制度を導入、整備した。今日では大型国営企業の改造に乗りだし、世界経済大競争時代のWTO加盟の段階に達している。広大な中国には各分野、各段階の豊富な経験がある。朝鮮にとっては学ぶべき経験の宝庫である。
日本は明治以来130年の国家指導による市場経済建設の経験がある。また発展途上国支援の蓄積がある。何よりアジア諸国が生産した製品の巨大な市場である。日本の経験はこの点からみても重要である。
独立後、社会主義経済を建設した朝鮮が今日、全世界を網羅、支配している市場経済に慣れ、その大浪に呑み込まれないで国土と経済を管理・運営し、成長を保障する構造を備えるには、先行する諸国の経験から見て、1世代はかかる長期的で歴史的な大事業である。
しかしあまりにもテンポが遅く、周辺諸国の展開(速度と内容の質)について行けなければ、朝鮮王朝末期か大戦後の東ドイツのように、周辺の大状況に呑み込まれる危険性もでてくる。したがって今後、朝鮮が展開する変革の速度とかかげる理念と現実の質(内実)がつねに問われてくるし、人々の注目を集めるだろう。
(2)朝鮮半島の国際競争力と朝鮮経済の現状
朝鮮側の経済競争力については本国からの研究者や担当者が報告し、ともに討論する日を期待したい。ここではまず韓国の世界競争力の実体をみる。ついで南北間の経済格差をみ、最後に朝鮮に対する国際的評価を見ることにする。
朝鮮のカントリーリスク採点表は100ヵ国のうち最低である。合弁企業法の公布、ラソン経済特別地帯設置などがあったが、評価点数は改善されず、83年から99年にかけて悪化した。南北トップ会談後、政治的指標は若干上向いた。経済的指標はほとんど動いていない。朝鮮と日米との国交樹立と中国・ベトナムなみの評価をうける抜本的政策が必要だ。

3 結びにかえて
ボランティア活動での現実参与、信頼関係の構築、人材の育成、先行諸国の経験吸収、共存時代の後発の有利性、北東アジアの経済協力、足元を見よう。

(朝鮮半島経済研究者)

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[特別講演会報告要旨]
2001年5月18日(金)18:30~20:30 OICセンター 会議室

 

東北アジア経済協力の現状と課題   柳鐘一 

 

1.東北アジア経済協力論議の背景
△世界化と地域主義の並行発展
△東北アジア経済協力の必要性
△東北アジア経済協力の障害要因
△最近の地域経済協力論議活性化の要因

2.東北アジア経済協力の現況
△東北アジアの地理的範囲と対象国家
△東北アジア経済協力の性格
△東北アジア経済統合の現況
△東北アジア経済統合の問題点

3.東北アジア経済協力の課題
△経済協力の推進方向
△金融協力の推進方向
△東北アジア経済協力増進のための政治的課題

(KDI(韓国開発研究院)大学院教授)

 

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〔東日本人文社会科学研究会報告要旨〕
第18回 2000年11月25日(土) 15:00~17:30 法政大学市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー22階 現代法研究所 会議室

 

旧韓国統監府の司法制度関連政策   李英美

 

Ⅰ はじめに
・統監府の名称
朝鮮:1392~1897年(李成桂による朝鮮王朝建国)
大韓帝国(韓国、旧韓):1897~1910年、「韓国統監府」
日韓併合後(朝鮮):1910~45年、「朝鮮総督府」
大韓民国(韓国):1948年、大韓民国政府樹立~現在
・1905年11月第2次日韓協約:韓国の保護国化(韓国外交権の剥奪、統監府設置)
・歴代統監
伊藤博文:1905年12月~1909年6月(辞任、同10月暗殺)
「韓国施政改善に関する協議会」(毎週火曜・翌日御前会議、伊藤全66回中36回)
対韓政策観:韓国国土の防衛、韓国の外交管理、韓皇室康寧の保証、韓国の施政改善
曾禰荒助:1909年6月~1910年5月(辞任)(上記協議会、97回まで)
寺内正毅:1910年5月~同10月(陸相兼任、のち初代総督)
・日本の朝鮮(及び韓国)施政改善計画
1、大鳥圭介駐韓公使「内政改革案五か条」(1894年7月、同8月日清戦争)
2、井上馨駐韓公使、「内政改革綱領」提案(同11月)
3、統監府の施政改善策:司法制度の整備、金融制度整備(銀行設置・宮中府中の区分・皇室財政整理・貨幣整理)、教育振興策、殖産興業策など
・統監府の司法制度関連政策:裁判制度の改革、法典編纂事業、慣習調査事業
・梅謙次郎:韓国政府法律顧問(不動産法調査会会長、法典調査局顧問、1906年7月~1910年8月)
・小田幹治郎:和仏法律学校卒業、現職判事(長野地方裁判所判事補兼同区裁判所判事)のまま渡韓、韓国平北地方裁判所法務補佐官、韓国統監府法典調査局事務官を経て、中枢院書記官など朝鮮総督府における韓国慣習関連政策に従事、1907年1月~1923年5月(依願免官)

Ⅱ 裁判制度の改革
第1期:法務補佐官傭聘時代、第2期:次官時代、第3期:司法権委託時代
1、法務補佐官制度(1907年1月~1908年7月)
1)韓国裁判制度の現状
・1894年法律顧問星亨による「裁判所構成法」:法部、全国13の地方裁判所と各級裁判所存在
・経国大典、刑法大典
・行政と司法の未分離、裁判官の専門的裁判知識の欠如、裁判所の行政官庁との合設、拷問制度による自白主義、監獄設備の不足、賄賂の横行、民事被告人の拘留、罪因未決者の長期・無期限拘留
・韓国における日本人の裁判(2審制):初審裁判所(治外法権を行使していた従来の駐韓日本領事裁判権を引きうけた統監府下部機関の理事庁)、統監府法務院(理事庁裁判に対する上訴審を管轄、京城)
2)伊藤の韓国司法政策観
・韓国司法制度改善の緊急性:韓国における諸外国治外法権の撤廃、公正な裁判制度と基本法典が具備されていない韓国の国政改善
・懸案:将来韓国内の司法権を、日本の裁判権下に統一するかor日本保護下における韓国裁判権として帰一させるか
・漸進主義:現状を維持しながら漸次改良
3)専門的裁判知識を有する現職の日本人司法官を傭聘し、韓国人判事の裁判事務を補佐させる(人選:梅の直接面談の形式、統監府職員でない)(資料①)
・法務補佐官(15名)
4)法務補佐官会議
・『法律新聞』:韓国の各地方に赴任された法務補佐官らからの書信
・任地赴任約5ヶ月後、京城の法部にて6月12日から4日間:実務に関する打合せと将来の改善について協議(伊藤統監と法務補佐官)
・結果:法律第1、2号制定(資料②)
・表勲(韓国法部大臣)(「法政大学の歴史その31」)
2、次官時代(1908年8月~1909年7月)
1)第3次日韓協約(1907年7月)と統監府官制改正
・行政と司法の区分(第3条 韓国の司法事務は普通行政事務と之を区別すること)
・政府各部(省)の次官に日本人任用:法部次官倉富勇三郎
2)新裁判所構成法
・大審院・控訴院・地方裁判所・区裁判所の4階級からなる3審制度を始めて採択
・各級法院に司法行政事務の監督者(所長・院長)、書記課(今日の事務局の元祖)、裁判部(刑事部・民事部)を設けて部長制度を置く
・特別法院の王族裁判制度を変更(刑事事件は一般法院、民事事件は同地方法院に)
・施行法と称する単行法を設ける(法制定における経過規定などの必要事項について、従来は各法の附則としていた。)
3)規模:1大審院・3控訴院・8地方裁判所・112区裁判所、司法官総数220名(日本人160名)
人事:大審院長渡辺暢(東京地方裁判所長)、大審院検事総長国分三亥(大阪地方裁判所検事正)、京城控訴院長世古裕次郎(京都地方裁判所検事正)、平壌控訴院長土井庸太郎(広島地方裁判所長)、大邱控訴院長永島巖(和歌山地方裁判所長)
・開庁:新法施行予定(1908年1月)、実際(同7月20日法部令第11号「各裁判所開庁期日」)、同8月1日各級裁判所の一斉開庁(区裁判所は16ヶ所のみ)
・遅延理由:大多数の法官任命、庁舎確保問題(増設裁判所建物の新築)、刑法大典の假修正、監獄署設備確保の必要
3、司法権委託時代(1909年7月「韓国司法及び監獄事務の委託に関する覚書」~1910年8月日韓併合)
・韓国の法部と裁判所の廃止、統監府司法庁と裁判所の創設

Ⅲ 法典編纂事業と慣習調査
1、韓国政府法律顧問:梅謙次郎法学博士(韓国の法典を完備するための専門家として)
2、経国大典とその他:朝鮮建国500年以来の統治体制の大綱を規定した基本法典
(規範=礼こそが第一義的、法はその実践のための補完物、礼の重視・法の軽視)
3、不動産法調査会(1906年7月~1908年7月)
1)土地制度改革の必要
・従来の制度:量案(資料③)・文記(資料④)(文記紛失、詐偽行為、一度も改正されたことのない量案、地方官吏の密帳、量案紛失、土地の境界の不明確=土地紛争・二重持ち主)
・韓国側:土地制度整理と歳入増加の効果を得る手段として、土地所有者に地券交付
・伊藤:地券交付前に土地に関する法律制定(先法律制定後測量)
2)不動産に関する韓国従来の伝統的慣習及び制度の調査
・会長:梅博士
・10項目の土地(及び不動産)に関する実地調査(資料⑤)
・調査員:中山成太郎、山口慶一、平木勘太郎、川崎萬蔵、石鎮衡(法大OB)
・近代的意味での所有権概念とは違った韓国固有の伝統的な所有権意識の存在確認
3)土地家屋証明規則の公布施行
・目的:現行土地取引上の弊害防止
・現状:居留地と居留地外10里(日本里1里)以外の外国人土地所有禁止
・伊藤:目下の緊急事項に対応すべき臨時法(梅:恒久法の制定担当)
・草案(法部、「不動産権所管法」)→修正案(梅、法律の専門的アドバイス)→法律第6号(両者協議、1906年10月16日)→勅令第65号(「土地家屋証明規則」、外国人規定特設、同26日)
・評価:土地収奪立法第1号(外国人=日本人に韓国内の土地所有を認める法的措置)
:近代的土地所有権への転換点(家屋と宅地の主従逆転、無主空山=人民誰もが任意に使用できる無主の山、近代的資本主義的土地所有権を強行させたもの)
4、法典調査局(1908年7月~1910年8月)
・目的:基本法典の編纂(「民法民事訴訟法刑法刑事訴訟法」)
・組織:委員会(委員長倉富、日韓人の委員)、顧問(梅)、事務官(小田)、慣習調査員
・梅:慣習調査に基づく韓国固有の「民商二法統一法典」の構想
5、慣習調査事業
・調査員:山口慶一、平木勘太郎、下森久吉、川原信義、室井徳三郎(法大OB)
・調査事項:日本法の編別順序に沿った民商事項の206項目
・調査方法:実地調査(日本人調査員と韓国人通訳、全国各地に一定期間滞在、全事項調査
地域13ヶ道・特種事項調査地域9ヶ道38地域)、典籍調査(古法典・古文献・各種文書)(資料⑦)
・調査期間:約2年半
・調査結果:『慣習調査報告書』(個別的「慣習調査報告書」を編集し編纂・小田)(資料⑧)

Ⅳ 終りに
・伊藤の対韓政策:保護政治(韓国の独立・殖産富国、日本の利益)から併合の方へ
転換の原因:韓国内閣・国王・国民の抵抗、日本国内の反対、経済的理由等など(資料⑥)
・統監府と総督府(連続と不連続)
・課題:(以上の政策面における考察から)実生活にどのように反映されたかという観点からの考察へ(方法;判例分析)

(法政大学:現代法研究所)

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〔科学技術部会研究報告〕
第20回 2001年4月7日(土) 16:00~18:00 OICセンター 会議室

 

半導体超微粒子の光物性   金大貴 

 

 ナノテクノロジーの一端を担う超微粒子が現在非常に注目を浴びている。ナノメートルオーダーの微小サイズを有する超微粒子は、サイズの有限性のために、バルク結晶とは異なる物性を示すことが期待されることから、様々な観点から研究されている。超微粒子の応用分野は広く、光触媒、セラミックス、医療分野、化粧品にまで及んでおり、各分野で超微粒子の優れた特性が明らかになってきている。
半導体デバイスの分野でも、新たな光機能性材料の開発を目指し、超微粒子の研究が現在も盛んに行われている。その中でもⅡ-Ⅵ族半導体は、バンドギャップエネルギーが可視域に位置することから、光デバイスへの応用が期待されている。半導体の光学特性において重要な役割を果たす励起子の性質は、結晶構造の違いや結晶サイズによって大きく変化することから、超微粒子の粒径を制御することにより、光機能性を制御できる可能性がある。
しかしながら、これまでの超微粒子研究においては、粒径の不均一性、すなわち超微粒子の広い粒径分布が大きな問題になっている。近年、この問題の解決を目指し、新たな試料作製方法の開発が模索されている。また、超微粒子を構成する原子の約半分が表面に存在するため、表面状態は超微粒子の発光特性に大きな影響を及ぼすことが予想されるが、その詳細については現在も明らかになっていない。
我々は化学的方法により作製したCdS超微粒子を対象として、光エッチングにより超微粒子の粒径分布を制御すること、さらには超微粒子の発光特性に対する表面の効果を明らかにすることを目的とした研究を行っている。実験は、コロイド法及び逆ミセル法を用いて作製されたCdS超微粒子を試料として、光吸収、発光、及び時間分解発光スペクトルの詳細な測定を行った。その研究成果の概要を以下に述べる。
(1)光エッチングを利用することにより、当初30~40%あった超微粒子の粒径分布を5%まで狭めることに成功した。このことは、透過型電子顕微鏡による直接観察からも確認した。また、試料作製条件と光エッチングに用いる照射光のエネルギーにより、狭い分布を有する超微粒子の粒径を制御することに成功した。
(2)超微粒子の表面改質が発光特性を大きく向上させること、また、光エッチングと表面改質を組み合わせることにより発光エネルギーを制御できることを見出した。
(3)超微粒子の表面改質前後で、発光の減衰時間が大きく変化することを観測し、表面改質が超微粒子表面でのキャリアの無輻射消滅過程を大きく抑制していることを明らかにした。

 

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〔西日本地域研究会報告要旨〕
第40回 2000年4月26日(水) 18:00~20:00 OICセンター 会議室

 

製造業の展開と雇用成長の地域格差―拡張シフト・シェア分析の韓国デ-タへの適用―
許文九 

 

1.本稿の目的
1980年代半ばまでの韓国の経済成長は製造業の成長によるものであると仮定し、韓国における製造業の雇用成長の地域的変化を業種別に分析し、シフト・シェア分析を用いて当該期間における雇用成長の地域格差変化について解明を試みる。

2.データと分析方法
◇地域区分:デ-タの一貫性を保つために、釜山を除き1980年代以降、直轄市に昇格した大邱は慶北に、仁川、光州、大田、慰山はそれぞれの元の道である京畿、全南、忠南、慶南に統合して11の市道の行政区分を用いて分析を行う。
◇データ:雇用の地域格差を分析するにあたっては『産業総調査報告書』と『鉱工業統計報告書』に掲載されている「1ヵ月平均従業員数」を、産出の地域格差は同報告書掲載の「付加価値額」を使用する。
◇分析方法:シフト・シェア分析(Shift‐Share Analysis)
シフト・シェア分析は、地域の経済成長に関する要因を、その地域の産業構成によって説明できる部分と、説明できない部分とに分解する手法である。したがって、地域成長における格差のどれだけの割合が産業構成の差異によって説明できるかを明らかにする。

3.製造業における地域別長期推移と最近の動向
◇首都圏
ソウルは1977年まで全国平均の3倍を上回る雇用者を維持していたが、1970年以降年々指数格差が減少し続け、1973年、82年、93年の3ヵ年を除いて対前年度の雇用者総数を上回ったことがない。分析対象期間である32年間の平均をみると、依然として指数格差は京畿に次いでソウルの比率は高いが、1997年の格差指数は1966年の3割程度に縮小しており、ソウルの製造業の地位が絶対的に低下していることが分かる。
ソウルの周辺地域である京畿は、ソウルと逆の傾向にある。〈図1〉で確認できるように、ソウルは毎年、製造業の雇用者数が大幅に減少しているのに対し、京畿は年々伸び続けており、ソウルを離れた就業者を受け入れたことを示すかのように「X型」になっている。と同時に、ソウルが雇用者を失った分以上に京畿の雇用が増加したことをも意味しており、ソウルから京畿への、特に工業団地が集中している仁川への雇用者の移動、つまり大都市から周辺地域への「X型」の雇用者移動パタ-ンが読み取れる。
◇東南圏
釜山の場合、1977年までは全国平均の約2倍の雇用者を維持していたが、それ以降1980年代後半まで横ばいの傾向を、1990年代に入ってからは急速に減少し始め、1994年からは全国平均を下回っている。これに対し、慶南は1976年まで雇用の伸びが停滞して全国平均を下回っていたが、それ以降は年々着実に増加し、近年に入ってからは京畿に次ぐ雇用者を抱えていることが分かる。
◇大都市圏とその周辺地域
首都圏の雇用者推移は1980年に逆転しているが、東南圏の釜山、慶南の推移は約10年遅い1989年になって同様の現象が起きている。このような移動パタ-ンは、付加価値額においても同様の傾向にあり、またソウル、釜山に次ぐ大都市である大邱とその周辺地域の慶北においても同様の結果が得られた。
⇒このような新たなパタ-ンが成立した理由としては、政府による投資効率の最大化のため、70年代までは大都市中心の政策がとられ、80年代からは大都市の過密解消のため製造業の地方への分散・移転政策が行われたことによるものと考えられる。

4.拡張シフト・シェア分析の実証結果
市道ごとの雇用成長は〈表1〉と〈表2〉をあわせると読み取りやすいが、経済成長期である第1期における雇用成長をみると、地域ごとの就業者数の推移と雇用成長はほぼ比例した値を表している。済州のみが製造業の雇用が実質的に減少して負の値を示し、他地域の雇用成長は正の値を示している。特に、〈表2〉のように、1970年に対して1983年の京畿と慶南の雇用成長はそれぞれ5.3倍、4.6倍の増加をみせており、大都市の周辺地域に雇用者が急速に集中している傾向が分かる。また、政府の抑制政策がとられたにも関わらず、大都市であるソウルや釜山といった従来の製造業活動の中心地でも、雇用の増加は見られるが、ソウルの雇用の伸び率は他地域に比べて大幅に減少している。ソウル、京畿の雇用効果に最も影響を与えている部門は、繊維・皮革と金属製品・機械部門であり、釜山、慶南の場合は石油化学製品と金属製品・機械部門が大きく影響している。
経済安定期である第2期(1984-97年)の市道ごとの雇用成長の動向を第1期とあわせて示したのが〈図2〉である。第2期で大きな変化が見られる地域は、雇用の伸びが停滞し、負の値が示されているソウルと釜山である。これは、上で述べたように政府の政策の影響を受ける一方で、韓国の大都市は第2次産業の製造業中心から第3次産業のサ-ビス産業へ著しく転換しつつあることが指摘できよう。ソウルの場合、第1期で大きなシェアを占めていた繊維・皮革と金属製品・機械部門が第2期に入って大幅に減少し、釜山の場合も第1期に8万8000人の雇用増加が見られた石油化学製品部門が第2期に入って10万5000人も減少したことによって、両地域における雇用効果は負の値が示されている。また、第1期と同様に京畿、慶南での雇用は伸び続けており、忠北、忠南の雇用増加も第1期に比べて目立っている。このような製造業の地方への広域化は、ソウルに集中していた製造業が仁川を含む京畿だけでなく中部圏である忠北や忠南にまで拡散していることを示唆する。
成長効果は、すべての地域で第1期より第2期に入ってから減少していることが分かる。これは、第2期における全国の雇用成長が第1期の約25%の水準に過ぎないことに起因している。また、成長効果の高い値を示している地域は、第1期でソウル、釜山、京畿の順であったが、第2期ではソウルと京畿が逆転しており、これらの地域はすべて大都市とその周辺地域である。また、部門別にみると、2期にわたって11地域において最も貢献している部門は金属製品・機械であり、成長効果はこの部門によって左右されているものと思われる。
構成効果は、第1期は従来の製造業の中心地であったソウルと釜山のみが正の値を、第2期は近年製造業の活動が活発な京畿と慶南、忠北のみが正の値を示し、他地域はすべて負の値を示している。しかし、ほとんどの地域において、金属製品・機械部門が正の値を示す場合は当該地域の構成効果も正の値を、負の値をとる場合は構成効果も負の値を示しており、この部門が構成効果に大きく影響していることが分かる。また、この構成効果には、製造業企業の事業所配置が反映されており、本社、大規模支社、研究開発部門などの雇用者が多い地域は正の値を示す。
競合効果は、伝統的シフト・シェア分析における差異効果から部門特化分に相当する配分効果を除いているため、より厳密な意味での競合度を表している。また、この競合度を通じて、雇用の集中・分散の強弱が把握できるという長所を持っている。製造業全体に関して得られた結果は、第1期には既存の工業集積地であるソウルが大幅に減少しており、雇用の分散傾向の強さを表している。しかし、雇用集中傾向にある地域は、ソウルから京畿、釜山から慶南、大邱から慶北へというように大都市からその周辺地域への集中パタ-ンが見られる。第2期における競合度はソウル、釜山のみが負の値を示し、第1期の分散傾向をより強めており、政府による製造業の大都市から地方への移転が行われた結果であると考えられる。
配分効果は、競合度の強弱があるそれぞれの部門への特化度による雇用の増加を特定するものである。第1期においては、江原、忠南、全北、全南、済州など、活発な製造業活動の見られなかった地域が正の値を示しているが、これは競合度の強い部門に特化していることを意味する。第2期にはソウル、京畿のみが特定部門に特化し、他地域は負の値を表している。特に、忠南、全北、全南などの地域における特化の程度が低く、他の地域よりかなり不利に作用していることが明瞭に読み取れる。

5.おわりに
韓国製造業の就業者の業種別デ-タにこの分析を適用した結果、経済のソフト化に有利な条件を備えていると考えられる構成効果が正の値を示しているのは、第2期では大都市の周辺地域である京畿、慶南と忠北のみであることが分かった。伝統的シフト・シェア分析における差異効果から配分効果を除去した競合効果から、製造業雇用の集中・分散の傾向をみると、全体としては集中の傾向が強いことが確認された。また、分散の傾向にあるのは、ソウル、釜山の大都市のみであり、当該部門別では金属製品・機械部門で多くの雇用が分散しているが、他地域ではこの部門の雇用増加が著しい。したがって、競合効果は金属・機械部門の雇用が減少するか増加するかによって当該地域の分散・集中の傾向が大きく左右されていることが明らかになった。
上述した結果でみる限り、韓国における政府主導型の経済開発5ヵ年計画は、短期間に急速に成長可能ないくつかの特定地域に経済の中心地を形成するというものであって、過去20年間(1960年代半ばから80年代半ばまでの)はソウル中心の首都圏、釜山中心の東南圏の急速な成長が、経済成長戦略を成し遂げるために大きく貢献したことを示唆する。しかし、一部の地域に偏ったアンバランスな経済成長は負の効果も明白である。豊かな地域である首都圏、東南圏と後進地域である中部圏、西南圏の間には所得不平等や政治的な緊張が存在する。本稿の分析は、豊かな地域の圏域内部では所得の移転が行われているものの、後進地域では経済成長の恩恵を受けておらず、いまだに製造業の地域格差は根強く残されていることを示すものである。したがって、近年の経済懸案の一つである地域格差の解消は、分析対象期間中には実現されないまま、今後の課題として残されているといえよう。 

(大阪府立大学大学院)

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第41回 2000年6月26日(月) 18:00~20:00 OICセンター 会議室


日本と韓国の産業内貿易の時系列的分析
金栄緑

 

1.報告の目的
産業内貿易に関する研究では、一般的にG-Lの指数を使って計測及び分析が行われている。しかし、南北間で行われる産業内貿易や多数の国を比較する場合G-Lの指数ではその産業内貿易の内容を明確にすることは困難である。例えば、日本のG-L指数が韓国と中国で同じ値であることから、日本にとってその2つの国との産業内貿易が同じ意味を持っているとはいえない。本稿は、日本と韓国の産業内貿易をユニット・プライス・アプローチを用いて水平的・垂直的産業内貿易に分類し、また垂直的産業内貿易を高品質と低品質の産業内貿易に分類する。1991年から1999年度の貿易データを用いて、産業内貿易の減少・一定・増加趨勢の3部門に分類してその特徴を分析する。

2.産業内貿易(Intra-Industry Trade;以下IIT):
・定義:両国がお互いに同一の用途をもつ密接な代替財を輸出し合う貿易
・理論的前提:独占的競争・規模に関する収穫逓増の生産関数・製品差別化

3.産業内貿易の計測とHIIT、VIITの分類
1)水平的IIT(Horizontal IIT)と垂直的IIT(Vertical IIT)
・HIIT:性能及び品質に差が存在しない製品間のIIT
・VIIT:性能及び品質に差が存在する製品間のIIT
・HQIIT(High Quality):輸出品の品質が輸入品の品質より高い製品間のIIT
・LQIIT(Low Quality):輸出品の品質が輸入品の品質より低い製品間のIIT
2)IITの構成
・TOTAL IIT=HIIT+VIIT
・VIIT=HQIIT+LQIIT

4.データと分析
1)産業の分類:日本の統計資料に一般的に使われているHS-CODE分類方法で産業を分類する。
2)結果
①産業内貿易の増加趨勢の部門:
集積回路及び小型組立、受像機、無線電話機、無線通信用、ラジオ放送またはTV用の送信機器およびTVカメラ等
②産業内貿易のコンスタント部門:
レコード、テープその他の記録用の媒体もの、無線電話用、無線電信用又はラジオ放送用の受信機器、印刷回路、熱電子管、冷陰極管及び光電管、半導体、蓄電池等
③産業内貿易の減少趨勢部門:
家庭用電気機器、有線電話用又は有線電信用の電気機器、ビデオの記録用又は再生用の機器、録音その他これに類する記録用の媒体(記録してないものに限るもの)、テレビジョン受信用アンテナ、TV受像機、ラジオ用チューナー、固定式、可変式又は半固定式のコンデンサー、フィラメント電球及び放電管、電気絶縁をした線、ケーブルその他の電気導体及び光ファイバーケーブル等
3)主要製品別の詳細
①集積回路及び小型組立(HS8542、増加趨勢):日本から韓国への輸出はコンスタントで、韓国からの輸入が持続的に増加している。LQIITとHIITの割合が高い
②半導体デバイス、圧電結晶素子(HS8541、一定):LQIITとHQIITは同じ水準でHIITは低い水準
③コンピュータ部門(HS8471、減少趨勢):日本から韓国への輸出はコンスタントで、韓国からの輸入が顕著に増加しこれが原因でIITは減少する趨勢となる。同時にHIITよりはVIITの傾向が非常に高い。

5.終わりに
1)今までのIITに関する研究で議論されたように、他の先進国と比較するとHIITのレベルが低くなっている。
2)水平的に差別される製品のHIITは低く、品質で垂直的に差別される製品のVIITは高くなっている。
3)産業内貿易のレベルが変化するということは、一方の国からの輸出(輸入)が変化したということである。
4)貿易の全体からみた産業内貿易が高いレベルであっても製品を細かく分類したとき(HSコード9桁)VIITの割合が高い水準であれば、産業全体のG-L指数は意味が薄くなる。

(大阪経済法科大学アジア研究所客員研究員、熊本学園大学経済学部講師)

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第42回 2000年12月16日(土) 16:00~18:00 OICセンター 会議室


中国朝鮮族の民族自治権~延辺朝鮮族自治州成立過程への一考察   鄭雅英 

 

1.はじめに
1952.9.3:延辺朝鮮族自治区(55年憲法制定により自治州に改称)創建一地専級(省級の下)行政区として出発
「民族区域自治」原則
・「国家の統一的指導下に、各少数民族の聚居する地方は区域自治を実行し、自治機関を設立して自治権を行使する」(民族区域自治法序文)
・「各民族自治地方は全て、中華人民共和国の分離不可能な部分である」(同第一条)
・自治地方行政機関の長は、自治民族の公民が分担する。
・自治地方人大(議会)は当地民族の特点に応じた各種単項条例を制定できる。
・民族言語の公用、民族教育の優遇ほか
*朝鮮族自治の議論は、どのような経緯をたどったのか。
*延辺自治州成立過程における問題点

2.抗日闘争のなかで
1936年6月:「在満韓人祖国光復会十大綱領」
一、朝鮮民族の総動員によって広範な反日統一戦線を実現することにより、強盗日本帝国主義の支配を転覆させ、真の朝鮮人民政府を樹立する
二、中・朝両民族の親密な連合によって、日本及びその手先「満州国」を転覆し、中国人民が自ら選挙した革命政府を創設して、中国の領土に居住する朝鮮人の真の自治を実行する
――朝鮮民主主義人民共和国と延辺朝鮮族自治州の「一卵性」的出自
「真の自治」をめぐる論争
1)初期中国共産党の民族自決権規定
1931年:中華ソビエト共和国憲法大綱(瑞金中華ソビエト第一次全国代表大会)十四「蒙古、回、チベット、苗、黎、高麗人など、およそ中国地域内に居住する彼らは完全な自決権(中国ソビエト連邦への加入及び離脱、あるいは自己の自治区域建立)を有する」
←1930年、在「満」朝鮮共産党各派組織の解消と朝共党員の中国共産党加入決定(朝鮮人党員の中国革命参加)
31年5月:満洲省委「満洲韓国民族問題ニ関スル決議案」―「完全ナル民族自決問題ヲ提出シテ韓中人分離シ独立国家組織ノ権利ヲ承認スル」
1933年4月:小汪清群衆会における中共代表報告「中国共産党が少数民族自決権を徹底実行しうることは問題にもならない(事実だ)。中華ソビエト共和国憲法大綱──に、はっきりと規定している」
2)民生団事件
「間島韓民自治」の系譜:20年代反日民族主義団体「韓族総連合会」
「延辺自治促進会」
民生団:1932年2月毎日申報副社長朴錫胤、「延辺自治促進会」副会長金盛鎬中心に結成。「間島韓人自治」請願、日本軍歓迎活動、自衛団組織を目指す。5ヶ月で解散。
民生団事件:32年10月以降、中国共産党満洲省委下の東満特委で「民生団」浸透の噂。11月、反民生団闘争開始「民生団、韓国民族主義、派閥主義者は日帝の走狗」。33年春から満洲省委全体に拡大し朝鮮人幹部の粛清、殺害(431人)進行。延辺での組織活動停止。
満洲省委は33年、「分離独立」付きの「民族自決」スローガン取り下げ。以後「民族自決」は、「自治区」「人民革命政府の一部分」と解釈。
1935年2月:満洲省委「東北臨時人民革命政府綱領(草稿)」第十一項「東北境内の少数民族(蒙古人、朝鮮人、韃靼人)を号召して日本帝国主義及び「満州国」に対する共同作戦を進行し日本帝国主義駆逐後に於ける各個民族の自由権を認む。ただし人民革命政府は日本帝国主義及びその走狗の民族自主を口実とする帝国主義併呑の企図には反対する」
3)「民族自決」から「民族自治」へ
1935年:コミンテルン第7回大会「反ファシズム統一戦線」。同8月。
中共八一宣言
35年11月:楊松(中共代表団満洲巡視員)「満洲における反帝単一戦線について」―「在満党団体は間島に朝鮮民族自治区創設のため進出せねばならぬ」(その実現のため東北の)「現存人民革命軍第二軍及びその他の反日遊撃隊を朝鮮の独立を任務とする中朝合同抗日軍に改良すべく諸方策を講じつつある」
36年6月:祖国光復会綱領
36年7月:中共南満党第二次代表大会「韓人工作回復に関する決議」第3項「革命勝利後、満洲3千万民族の人民政府を建立し、東北地方において韓人の自由解放を目的とする韓人自治区を建設し、中国東北地方における韓人の福利増進を期する」

3.社会主義政権の誕生と延辺自治州創建
1)「民族区域自治」論の登場
中国共産党中央:1930年代中盤以降、長征中の体験から「中国は4億5千万の人口を有し中華民族を組成する」「中華民族は中国境内各民族の総称の代表である」→統一した多民族国家への志向1940年以降、中共中央実効支配の陜甘寧辺区内で回族とモンゴル族の自治政権を樹立、1947年5月、内モンゴル自治政府誕生─少数民族の分離独立権を否認する地方自治の一形態たる「民族区域自治」政策の正式な出発点
1949年新政権発足直前「中国人民政治協商会議共同綱領」第五十一条「民族的区域自治」、52年8月「中華人民共和国民族区域自治実施綱要」第二条「各民族自治区は統べて中華人民共和国の分離できない一部分となす」
2)延辺の解放
8月、ソ連軍延吉解放(18日)、間島省臨時政府(20日)
10月、中共延辺臨時委員会(20日)、民主大同盟(27日、延辺内労・農・青ほか各団体の協商体)
11月、延辺各族各界人民代表大会と延辺行政督察専員公署設置(20日)
3)民族自治議論と延辺公民権問題
専署「布告第一号」:「十、民族団結と民族平等政策を実行し、中韓人民の政治、経済、文化上の平等を保障する」
中共延辺臨時委員会:「中韓民衆に告げる書」(11月7日)「民主連合政府を建立しなくてはならない」「独立、自由、民主、統一、富強の新中国の道に沿って前進しよう」
延辺人民代表大会:「延辺同胞に告げる書」(11月20日)「延辺各民族は団結一致して民主建設に積極参加し」「自由幸福な新延辺建設のために奮闘しよう」
→民族自決、民族自治についての言及なし
中共中央東北局:「1945年9月末、すでに東北の朝鮮民族問題に注意を傾けており、華北抗戦に参加した朝鮮義勇軍を除き東北在住の朝鮮居民一般は中国境内の少数民族と同一視している。~党は――実際上は朝鮮人に対し一少数民族としての平等政策を執行していて~。」(周保中「延辺朝鮮族問題」)
梁煥俊(中共吉林特別支部朝鮮人分支部書記):45年11月「(国共内戦という)状況で、我々が民族自治問題を提起することは、まだ時期尚早であると思う。我々は、中国の一少数民族になり、中国共産党の指導下に政権建設と軍隊建設事業に参加し、蒋介石を打倒し、新中国創立のために貢献するべきだ」(東北行政委員会臨時代表会議中に開かれた朝鮮人討論会で)
1946年、土地改革運動
朝鮮族への土地分配をめぐり公民権問題
土地分配に「民族標準」等の議論
劉俊秀(中共延辺地委、漢族):「彼等のこうした感情(二重祖国)を尊重し、朝鮮が彼等の祖国であることを承認する一方、彼等は中国の公民で中国の一少数民族であると見なしてはいけないのだろうか?つまり彼等の二重国籍を承認することで中国公民としての全ての権利を享受させ、中国の解放戦争に寄与するようにさせればよいのではないか?」
→二重国籍の承認による土地分配問題の解決
しかし土地改革終了後、48年8月中共延辺地委は「延辺民族問題」決議で「我が党と政府は中国境内における延辺朝鮮民族人民の少数民族としての地位を認可」し、同時に中国公民と朝鮮僑民を明確に区分
→二重国籍の再否認
4)民族区域自治の受容と自治機関建設準備
劉俊秀「民族政策に関するいくつかの問題(草案)」(48年12月9日)
「延辺境内に居住している朝鮮人民を中国境内の少数民族とし、中華民主共和国の一部分として承認する。」「党の民族政策を堅実に貫徹するため、計画と秩序をもって下から上に至るまで人民の民主的自治政府を建立し、民族自治を実現する」、中朝往来時の手続きについて
49年1月21日中共吉林省委と吉林省政府「民族事業座談会」
林春秋(延辺専署専員、のち北朝鮮帰国)=延辺の北朝鮮帰属主張
林民鎬(党紙「吉林日報」朝文版主筆、モスクワに留学経験)=ソ連式の加盟共和国を主張
朱徳海(「北満」での地下工作後延安で朝鮮革命軍政学校教官、東北行政委員会民族事務処長)=区域自治受容による民族自治地域創建を主張
49年3月林春秋専員解任、朱徳海延辺地委書記及び専員(7月)に就任
民族幹部養成、教育機関拡充(延辺大学)、新聞創刊、ラジオ局の開設
5)延辺自治区創建
朝鮮戦争勃発、「抗米援朝」と国境緊張で自治区創建延期
1952年、中共延辺地委と延辺専員公署「吉林省延辺朝鮮族集居区域自治設置計画」を吉林省政府に提出
7月「吉林省延辺朝鮮族自治区各界人民代表会議組織条例(草案)」「吉林省延辺朝鮮族自治区人民政府組織条例(草案)」作成
7月30日、吉林省人民政府省長、副省長の名義で、上記三つの文件を東北人民政府に送付
8月24日に東北人民政府は3個文件と吉林省政府の該当意見を認可7月24日~8月2日中央東北訪問団延辺来訪
朱徳海の「大延辺」構想:民族自治区域を確定する作業段階で、省と中央に自治区等級と領域に関して要望あげる
「民族区域自治実施要項(52年8月)」第五条「当地の経済、政治上の必要性に依拠し、かつ歴史状況を参案した上で、各民族自治区内に一部分漢族居民区と都市を包括できる」根拠に
吉林省敦化県、蛟河県、長白県及び黒竜江省東寧県と寧安県を延辺に帰属させ延辺を、内蒙古と同じく省級の自治区に
領域拡大問題は自治区創建後も中央や吉林省と協議継統→反右派闘争時に批判される
1952年8月21日、延辺各族各界代表大会準備委員会第1期人民代表会議(代表者総数300名中朝鮮族206名)延辺自治区の「人民代表会議組織条例」と「人民政府組織条例」を可決
1952年9月3日、延吉市で延辺朝鮮族自治区創立大会
朱徳海人民政府主席が自治区誕生を宣言

4.おわりに~その後の延辺
社会主義建設(合作社)―反右派闘争と人民公社―文化大革命―改革開放―社会主義市場経済
政治路線とともに動揺する「民族自治」
90年代―「朝鮮族危機論」
朝鮮族は在日社会の後を追うのか?

(甲南大学)

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第43回 2001年2月17日(土) 15:00~17:00 OICセンター 会議室

 

民主化以後の韓国における社会運動の展開~総合的市民運動を中心に~   飯田 竜司 

 

1、はじめに

◇軍事政権下の民間団体

 ①国家の庇護を受ける形の官辺団体
 ②戦闘的で抵抗的な社会運動団体
 ③脱政治・非政治化された民間団体

 このうち②が80年代民主化運動を主導、1987年の「6・29民主化宣言」を政府から引き出す

2、民主化と社会運動の分化

◇民主化宣言以後、あらゆる社会運動が噴出 例:87年7~8月労働者大闘争(労働運動)

◇民衆運動と市民運動の分化

 ・①民衆運動と②市民運動の性格区分
 <主体>①―労働者、農民、貧民
 ②―ホワイトカラー・自営業などの中間層や知識人、学生、宗教者、主婦などの周辺層
 <目標>①―根本的な構造改革を志向
 ②―社会内的な目標と漸進的な制度改善
 <方法>①―ストライキ、デモ、座り込みなど急進的
 ②―キャンペーン、市民広報、講演会など合法的
 <争点>①―経済的・階級的不平等と権力の不平等
 ②―社会内のより広範囲な争点を包括

◇市民運動の台頭

 ・象徴としての総合的市民運動(あらゆる問題を扱う、デパート型市民団体の運動)を行う経済正義実践市民連合(経実連、1989年結成)の成功
 ・市民運動の浮上要因

 ①社会主義陣営の崩壊
 ②政府による保守的な「上からの改革」
 ③中間層と基層民衆の階級分化と、階級間利害関係・政治志向の分化
 ④「民衆的な言説」における軟化・開放化の不在

 ・特に総合的市民運動としての浮上要因

 ①社会の複合化にともなう問題意識の多様化に対応
 ②改革を進められない政府と政党に代わる「代議の代行」現象
 ③マスコミの権力監視・批判機能も代行

3、経実連の分析

◇経実連の性格区分
 <主体>運動主体―専門家と実務者中心の組織
 会員 ―ホワイトカラー、知識人、学生層
 <目標>経済正義と脱不正腐敗の実現、公共善の追求、漸進的な制度の改善、意識改革
<方法>「合法性」と「平和性」、専門家中心、マスコミを媒体として活用
<争点>当初は経済的な争点が中心。その後環境、教育、労働、南北統一、地方自治など多様に運動領域を広げる

◇組織の発展
 ・当初500人で出発→5年間で会員1万2000人、地方支部27を擁する

◇経実連としての成功理由
 ・専門家による政策代案の作成→強い信用と影響力
 ・合法的な活動による参加者への軽い負担

◇課題点
 ・世論への迎合。共生関係のマスコミが改革の対象であるというディレンマ
 ・消極的な会員参加→会費の回収不足による財政難

4、市民運動の分化と参与連帯

◇参与連帯の結成(1994年)
・多様な市民運動の分化の中で、既存の市民運動とは違う親民衆・労働運動的な「進歩的市民運動」として登場。

◇参与連帯の性格区分
 <主体>経実連と変わりないが、より急進的・進歩的な人が参加
 <目標>国家の横暴化の阻止、財閥の規制に対する市民の介入と実践を通じた民主主義の実践
 <方法>基本的には合法的だが、時によっては不法も辞さない。専門性を備えながらも市民の参加を重視
 <争点>市民による権力の監視、不正腐敗追放、人権、社会福祉、情報公開など経実連と同じく総合的

◇その他の経実連との相違

 ・内部からの政界進出を認めず
 ・地方の市民団体の発展を阻害しないという方針から地方支部を持たない

◇問題点

 ・反共主義が強い中で労働運動と連帯することのディレンマ
 ・会員の参加の少なさは経実連と変わらず

5、落選運動と韓国社会運動の展望

◇議会監視活動→国政監査モニター活動→落薦・落選運動(参与連帯が主導)

・落薦・落選運動―腐敗、選挙法違反、憲政秩序の破壊を優先基準に、政党公認不適格者名簿を発表。最終的に86名の当選不適格者名簿を発表し、当選反対を呼びかける運動を行う。結果59名が落選

◇落選運動をとりまく社会内的な動き

 ・当初421の団体→各種団体の参加表明により859へ
 ・市民運動と労働運動の連帯
 ・離反していた経実連の協力(市民運動のイニシアティブが参与連帯へ)
 ・広範な国民の支持

◇落選運動後浮き彫りになった問題

 ①地域主義に効果がなかった
 ②落選運動で結集させた市民社会勢力を維持できず
 ③どのように市民社会領域から改革的代案勢力(政党)を組織化させるか

このうち③については労働運動勢力が議会政治進出をはかり、市民運動がそのための法整備、市民社会の刷新をはかるのが現実的。

6、結びとして

◇社会運動を発展的に捉える視点
 ①社会運動の変化の中、改革的代案勢力の政治組織化が現実味を帯びてきた
 ②内発的な運動の合理化
 ・インターネットの活用による新動員
 ・政界進出の撤回(経実連)

(立命館大学大学院)

 

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編 集 後 記
昨年6月の歴史的な南北首脳会談からちょうど1年が経過した時期に日本支部が主催した国際シンポジウム「激動する朝鮮半島と北東アジア」は、参加者たちの熱い関心のもとに活発な議論が交わされ、後日、朝日新聞にも大きく報道されました。
特に韓国から来られた世宗研究所南北関係研究室長の李鐘ソク氏は、金大中大統領の特別随行員として平壌訪問に同行されているだけに、その報告に強い関心が寄せられました。
李氏は、昨年に比べれば南北交流がトーンダウンし、米朝関係にも変化が生じているが、もはや南北交流の流れに逆戻りはあり得ないことを強調されていました。
私たちも目先の出来事に一喜一憂するのではなく、確かな主体性を持って、和解と統一に向けた歴史の創造に取り組んでいきたいものです。 (K)