特集
国際高麗学会日本支部 第1回学術大会
日時 1995年10月10日(祝)午前9時
場所 OICセンター 4・5F
シンポジウム「解放・分断の50年」 報告要旨
外勢の影響と主体の責任 ー解放5年史を北朝鮮からみるー
和田 春樹
はじめにー新資料について
1.金日成とその同志の帰国とソ連
イ)88特別旅団野営での生活
ロ)朝鮮工作団と朝鮮工作第一大隊名簿
ハ)金日成のモスクワ行き説
ニ)ソ連からみた金日成
2.ソ連の朝鮮政策
イ)戦時中のソ連外務省文書
ロ)スターリンの1945年9月20日命令
ハ)曹晩植抑圧策
ニ)スターリンの北朝鮮労働党結成のすすめ
3.朝鮮共産主義者の志向
イ)満州派
ロ)延安系
ハ)ソ連系
ニ)国内系Ⅰ
ホ)国内系Ⅱ
ヘ)南労党派
4.分断・対立・力による統一へ
イ)北朝鮮臨時人民委員会・北朝鮮人民委員会
ロ)朝鮮民主主義人民共和国の成立
ハ)軍事的統一への北朝鮮の道
(東京大学・社会科学研究所)
朝鮮解放直後の歴史と土地問題
櫻井 浩
はじめに
朝鮮の解放直後の歴史として、ここでは、1945年8月から1950年末頃までを考えることにしたい。この時期の南北朝鮮の歴史を動かしていった朝鮮内の大きな要因として土地問題があり、これが朝鮮戦争の重要な契機ー朝鮮内部のーとなったというのが私の考えである。以下土地問題と朝鮮戦争の関連について検討しよう。
1.北緯38度線以南の諸政治勢力と土地問題
解放後、南朝鮮地域に形成された諸政治勢力はほとんど地主・小作関係の改革を掲げていた。特に再建朝鮮共産党は封建制打破の観点から土地改革を重視した。他方アメリカは、共産主義に対する防波堤を築くという観点から農地の再分配を主張したが、地主の抵抗にあい、1948年春、旧日本人所有地のみ有償分配した。北朝鮮は批判したが、農民は分配を受け入れた。
2.北朝鮮における土地改革
朝鮮共産党朝鮮分局(1945.10中旬設置)も1945年秋から土地改革の準備をすすめていたが、モスクワ3国外相会議の朝鮮問題に関する決定後の情勢変化にしたがい、46年3月には北朝鮮地域における土地改革を完了した。
3.北朝鮮による南朝鮮地域の土地改革準備と実施
マルクス主義の観点から土地問題を重視していた朝鮮民主主義人民共和国は、韓国の農地改革準備を注視しながら、独自に法令制定や改革実施要員の訓練などを行っていた。1950年6月頃には、もはやこれ以上韓国の農地改革を座視できない状況に達していた。朝鮮半島を取り巻く国際情勢も北朝鮮にとって絶好となった。朝鮮人民軍が38度線を越えて南下するとただちに土地改革が始まった。
(久留米大学経済学部)
朝鮮半島と日本ー「戦後50年国会決議」から日朝百年の歴史的関係を振り返ってみるー
韓桂玉
はじめに
日本の朝鮮侵略と植民地支配、さらに日本の侵略戦争によって朝鮮民族が二重、三重の苦痛を強いられ、戦後50年の現在まで尾を引いている問題点の歴史的な総括。
1.征韓論、征韓思想の系譜
日本の近代化はアジア侵略の始まり
ー江戸末期(幕末)の皇国史観の鼓吹
ー明治時期の八紘一宇、日本優越感・朝鮮・中国などアジア劣等・蔑視感の抹植定着化、侵略・支配の合理化
2.日韓「保護・併合条約」は武力威嚇による強要で不法・無効の論拠
ー委任状もなく、朝鮮国王の署名を偽造、国王と外務大臣の印章を強奪して捺印(保護条約)
ー皇帝(高宗)の強制退位、60余件の法律、勅令を捏造
ー「併合条約」も日本統監の下、内政、外交権を奪い、主権、条約締結能力のない状態で強制下の形式的なもので不法
3.日韓条約(1965年)の問題点
ー旧日韓条約の合法・無効をめぐる論議で15年会議に
ー日本側の発言にみる侵略性
ー政治的妥結ー条約文書の操作
ー朝鮮南北分断との関連性
4.日朝国交正常化会議(交渉)との関連
ー(日)日韓条約を前提に、派生的な問題を強調
ー(朝)戦後問題も提起
5.朝鮮南北分断と日本のかかわり合い
ー明治時期の日・ロ間の分断支配構想
ー日本が植民地朝鮮を軍事基地化し、物的、人的資源を戦略戦争に動員
ー太平洋戦争末期の「朝鮮固守」方針と米ソによる南北分断
(アジア動向研究会)
【人文社会科学分野】
在日同胞と統一問題
鄭甲寿
1.ワンコリアフェスティバル開催の動機
・1985年の「解放40年」をいかに迎えるべきかから始まる。
・在日同胞と統一問題との関係の再検証、再構築。
・そのための発想の転換と新たなビジョンの創造。
2.統一問題の歴史的・理論的な若干の整理
・一世主導の祖国との結びつきの強い主に既成組織によって進められてきた統一運動の意義。
・祖国との関連とくに1972年「7.4南北共同声明」の意義と課題及び1992年「不可侵と交流・協力の合意書」の意義と課題。
・1970年代以降の主に二世・三世によって進められてきた反差別・人権獲得のための運動の意義。
・統一運動と反差別・人権獲得運動との関係のあり方。
・民族運動と市民運動との関係のあり方。
・在日同胞文化創造の担い手の変化とその意義。
・個人個人の能力の開発、向上、発揮と運動との関係のあり方。
3.在日同胞と統一への展望
・世界史とりわけ東アジア史的視野の必要性。
・21世紀の世界像と統一問題。
・在日同胞の歴史的役割と未来。
(ワンコリアフェスティバル実行委員長)
韓国における外国人労働者の産業技術研修制度ーその問題と対策ー
梁官洙
1.問題提起
韓国政府は、賃金上昇による国内外間の平均賃金格差の拡大によって生じている<3D業種、中小・零細企業>の人手不足、この吸収要因によって生み出された<不法滞留外国人労働者>問題の解決方案として、1994年から<産業技術研修制度>を本格的に実施している。
ひとつ用語の問題として指摘しておきたいことは、<不法滞留外国人>は韓国の出入国管理法では<不法>といえるが、韓国の労働法とILO規定上では不法滞留者であっても民法上雇用契約が結ばれた関係は<合法>と認められていることからみると、普通<不法外国人労働者>と呼ぶのは不正確である。
不法滞留外国人労働者に対する十分な対策が欠けている状態で、外国人を<合法的に低賃金で使いたい>という業界の要望に合わせる形で便宜的方便として<産業技術研修制度>を取り入れ、実施したために、かえって<新しい不法滞留者>を増加させ、人権侵害、国内労働市場の二重構造化、外交上の摩擦など、多くの問題を増幅させている。外国人労働者の受け入れをめぐるさまざまな議論には、労働市場論、賃金格差論など、いわゆる経済学的アプローチは外国人を単なる<労働力商品>として扱うものが主流をなしているが、労働者も<生きた人間>であり、生活しながら働かなければ正常な労働力の再生産が生まれない存在であるという見方が欠けている。
外国人を労働者として受け入れなければならない経済的条件に置かれているのであれば、①中・長期的展望をもって、②労・使・政(労組・使用者・政府)三者が協議し合意された対策の上で、③合法的に受け入れ、④国内労働者と同等な法的・制度的待遇をしなければならない。
2.産業技術研修生(以下、研修生)の導入と問題点
1)導入過程:
法務部は、出入国管理法施行令に基づき、91年10月26日<外国人産業技術査証発行等に関する業務処理指針>及び施行細則を発表、91年11月1日から施行。この指針により、研修査証をもって入国、就業した外国人労働者は約八千~九千人である。「研修」というのは名分にすぎなく、外国人を人手不足している「3D」業種に低賃金で本格的に活用しはじめたのは、94年からである。94年末現在、11カ国から受け入れている研修生数は、28,328人で、この中で中国は12,663人(44.7%)、フィリピンは5,050人(17.8%)を占めている。
2)問題点
(1)労働条件:94年末の時点で研修生と不法滞留者の格差を比較してみよう。
1日の労働時間 | 月平均収入 | |
研修生 不法滞留者 | 10.2 10.9 | 282,772ウォン 629,077ウォン |
不法滞留者の賃金水準は韓国の製造業労働者の平均賃金の約40~55%にあたり、同種同規模賃金の約75~85%にあたる。不法滞留者の賃金が研修生より2.17倍高いために、研修の職場を離脱して、<新しい不法滞留者>へ変身するものが増加している。
(2)事業主体:
政府は監督、中小企業協会の会長が研修生の受け入れを希望する<研究業体>を推薦し、産業技術研修協力団が研修業体及び研修生の送出業体を選定、研修生の募集・出入国管理・事後管理等、関連事業一切を担当。
研修企業の資格として製造業、労働力不足率5%以上、中小企業に制限しているため、実際、外国人労働者を必要とする零細企業は除外される。
外国人労働者を募集、教育、管理するのに能力と資格に足りない送出業体を担当機関が恣意的に選定するために、研修生に対する人権侵害、職場離脱など諸問題を引き起こす原因の一つとなっている。
(3)研修生教育:
研修生に対して入国前後におこなう教育と研修業体に当局が実施する教育が、その質と内容において不十分である。
(4)賃金の支払方法:
研修生本人に直接、決まった支給日に払うべき規定が守られていない。
(5)研修生管理:
離脱・逃亡を防止する理由でパスポートを研修業体が保管、「現代版奴隷労働」を強要。同じ理由で研修生一人当たり30万ウォンの保証金を研修業体が預かる。労災予防及び対策が不十分。
3.対策
1)雇用許可制:労働開国論、台湾、シンガポール、ドイツなどで実施中。
2)研修就業制:日本の技能実施制度に近い。
(大阪経済法科大学 講師・研究員)
日本統治政策の歴史分野教材化への一試行ー資料分析による他国との比較検証ー
新田 牧雄
高校では国際社会で主体的に活動しうる日本人としての必要な資質や、生徒の発達段階、科目の専門性等々の視点から、指導要領が改善され、社会科は再編成され、地歴科と公民科が設けられた。歴史分野をみれば、専門性や系統性と選択履修が可能になるようにA・Bとなり、Aは近現代を中心に、Bは従前どおり歴史的思考力と理解力を培い、文化の伝統的特色なり、複合多様性を学習させる内容である。Aの内容と取り扱い(3)に、「19世紀の世界の経緯と展開」の(ウ)に、「アジア諸国の変貌と日本」があり、Bの(2)の「東アジア文化圏の形成と発展」の(ウ)に「中華帝国の繁栄と朝鮮、日本」があり、この線に沿って、三・一運動教材化展開し、あわせて欧米諸国の植民地政策と比較し内容の進化を試みた。
帝国主義の名の下に植民地経営を国策としたのは日本のみではなく、イギリスなどは日本の先駆者であった。しかし、第二次世界大戦後50年がすぎてもいまだに日本のみが怨嗟怨念をもって批判審判され続けられるのはなぜなのか。
使用教科書記述は次のようである。
朝鮮は日本に併合されたのみ、朝鮮総督府による武断統治下におかれ、人民の不満が増大していた。1919年3月1日、ロシア革命やウィルソンの14ヶ条等の影響で日本からの独立運動をおこしたが鎮圧された。これを三・一運動(万歳事件)といい、以後の朝鮮民族運動の出発点となった。(略)この運動は全国に広がり、日本の軍・官憲による弾圧を受け多数の死傷者をだしながらも(略)
日本は徹底した収奪等を前提に、朝鮮文化と伝統伝承の破壊抹消を意図したが、欧米は少なくとも共生共存共栄の統治精神を考慮していた。ここに共生とは互いに利益を得たり、一方のみが利益を得て共に生活でき、共存とは異質のものが共に生存し、存在できることであり、共栄とは異質のものが幸せを享受することを意味する。
この点については、
1)第一次大戦時、ガンディーの「イギリス人の困苦の時にあたって」のイギリスへの忠誠協力。
2)植民地政策としてのプランテーション(PLANTATION)(熱帯栽植農学)が独立後の国家経済の主体となった。
a)インドにおける茶・綿花
b)ファン・デン・ボスによる強制栽培制度
c)マレーシアにおけるゴム栽培は保護地として政治的安定要因。
東アジア文化圏においてさえ孤立無援の現状より名誉回復的処遇を得るには、教育より他に術はないとの主張の一端を陳述し賛同を希求す。
(埼玉県立和光国際高等学校、戸田市医師会看護専門学校)
21世紀の朝鮮と経済美学 ー自律経済とチュチェ文化の発展ー
高良 有政
[Ⅰ]訪朝の意義と課題
1)歴史文化上の親和力
(1)李朝実録 (2)言語文化 (3)EM交流
2)政治・軍事上の契機等
(1)米軍基地・朝鮮戦争
(2)琉球侵攻の契機(島尻勝太郎説)
(3)台風
(4)植民地経験(沖縄は内国植民地性)
3)自立経済の政策構想の展開 (南北朝鮮の政策実験、20世紀は政策体制実験の時代)
(1)国是として憲法で規定
(2)国際分業論的発展政策としての外苑的な発展論に対抗
(従属を通じての自立策の三要件)
①人的資本蓄積策→民族幹部依拠策
②技術革新策→民族技術幹部の養成策
(ビナロンのリ・スニ博士)
③輸出重点策(外需依存)
アジアニーズの優等生国→国内生産力論(内需中心策)
(正当社会主義国)
(3)内部自給型産業構造の編成体系としての内包的発展論
①重工業を優先的に発展させながら、同時に軽工業と農業を発展させるという社会主義経済建設の基本路線
②農業・軽工業・貿易第一主義 (1993年12月)
(4)人格的、独創的指導体制としての現地指導システム(Spot Guidance)
①青山里精神方法→「農村テーゼ」「教育テーゼ」→チュチェ思想
②大安の事業管理体系→チュチェ工業
③水産指導体系→チュチェ工業
④計画的商業体系→チュチェ商業
4)チュチェ思想哲学の発展
(1)チュチェ思想哲学の発展(チュチェ科学院等)
(2)主体的人間論(自主性、創造性、意識性をもった社会的存在)
(3)チュチェの国家・社会理論(人民政権プラス三大革命改造)
(4)チュチェの芸術文化論(主体的美学、チャモ式舞踊譜等)
(5)独創的な指導体系としての現地指導(人民・党・領袖の三位一体説)
(6)チュチェ思想創始の契機(コミンテルン不参加説)
(7)モラルポリティクス+パワーポリティクス→ヒューマンポリティクス
①縁と知的文化と自立経済の三位一体的内発的発展論
②Small is beautifulの超近代合理主義的な発展論
③「想いは高く、暮らしは質素に」→「美と健康と永続性」
[Ⅱ]20世紀の小括と21世紀の展望
1)20世紀の特徴
(1)ソ連社会主義国家体制の成立と崩壊
(2)世界大戦・内戦で1億人戦死
(3)核兵器出現(ABCR、プラズマ兵器体系)
(4)平和哲学(アインシュタインの1%提案)、科学者は逆1%
(5)宇宙体験(重力制約説克服の可能性)
2)K.E.ボウルディングの20世紀文明の課題
「落とし穴」
①戦争 ②発展格差 ③人口 ④エントロビー
3)ラビ、バトラのプラウト・システム改革構想での根本問題
(1)社会循環法則による社会主義(2000年)、資本主義(2010年)、必然崩壊論(1978年提言)
(2)経済的だけでなく、知的精神的搾取廃止で平等実現策
(3)プラウト社会実現で「黄金の21世紀」
4)経済学の第3の危機としてのカジノ化経済と南北問題の深刻化
(1)経済学の第1の危機(1930年代恐慌) 雇用の水準(慢性大量失業 ケインズ)
(2)経済学の第2の危機(1960年代公害環境)雇用の内容(J.ロビンソン女史)
(3)経済学の第3の危機(1990年代カジノ化バブル経済)雇用の本質(高良説)
[Ⅲ]朝鮮の現状と課題の21世紀展望
1)現状の問題点と課題
(1)ポスト・キムイルソンのキム・ジョンイル体制 (モラル・ポリティクス中心のヒューマンポリティクス)
(2)朝鮮式社会主義の構築(伝統に基づく近代化路線)
(3)南北の自主的平和的民族統一と国連同時加盟問題
(4)対外3点セット政策の展開
①コメ供与(第1次30万トン)問題←「天災・人災・ソ連崩壊のインパクト」
②軽水炉問題(約10年間必要)
③国交正常化(日朝・米朝・特に日本の責務)
(5)後継問題=指導思想創始発展+人民愛+政括的リーダーシップ
(6)国名=DPRK、「鮮やかな朝の国」、「金日成共和国」、「金正日共和国」
2)21世紀展望
(1)「金正日時代」と自主的社会主義市場経済(体制保持的改革)
(2)自主的国民経済(自立発展と平和開発のグローカル・エコポリシー)
(3)伝統的朝鮮式文化の発展
(4)日朝米国交正常化で協調体制強化
(5)南北統一(一国二体制論・統合論)
(6)人間経済美学の構築=チュチェの経済学+美学論理+主体思想
①主体的価値論(交換価値→使用価値一般)
②三段論的認識論・方法論(感性的認識・悟性的認識・理性的認識)
③主体的美学論・発展論
(沖縄大学地域研究所副所長、沖縄経済学会会長)
【自然科学分野】
透明ポリビニルアルコールハイドロゲルの作製と医療への応用
車源日
機能性材料に対する関心が高まるとともにハイドロゲルの性質が注目され、ハイドロゲルに関する多くの研究がなされてきた。特にわれわれの身体の約60%は水分であり、骨、歯、爪のような硬い組織を除けば柔軟なハイドロゲルによって生体が構成されていることから多くのハイドロゲル材料に対し医用材料としての応用研究が行われてきた。しかしながらそれら材料が生体が保持している優れた機械的特性と耐久性に劣るために、ソフトコンタクトレンズ材料を除きほとんど医用材料として用いられていない。
ビニロンの原料であるポリビニルアルコール(PVA)は側鎖に水酸基を有する結晶性の汎用高分子であり、その化学的構造から医用材料としての多くの研究が行われ、生体適合性に優れた材料であることがよく知られている。PVAは水酸基の化学的あるいは物理的架橋によりゲル化することが古くから知られ、さらに濃厚水溶液の凍結と融解を繰り返すことにより高強度・高含水率PVAハイドロゲルが得られるようになり、ハイドロゲル材料としてとくに注目されるようになった。
われわれはPVAを水と有機溶媒との混合溶媒系に溶解させた後、低温結晶化させることにより凍結と溶解を繰り返すことなく高強度で高含水率PVAハイドロゲルが得られることを見いだした。われわれの方法により得られたPVAハイドロゲルは従来の高強度・高含水率PVAハイドロゲルより機械的特性に優れ、その強度は2倍以上であった。さらに従来の高強度・高含水率PVAハイドロゲルが不透明であるのに対し、われわれのPVAハイドロゲルは透明であり、医用材料として重要な特性の一つであるタンパク質の吸着性においてすでに市販されているソフトコンタクト材料より低い値を示すとともに、角膜内への埋入実験において生体に安全であることが認められた。また、透明PVAハイドロゲルはハイドロゲルを乾燥させた後、熱処理を行うことにより種々の含水率を有するハイドロゲルを容易に調整することができ、機械的特性をさらに高めることができる。その結果、人工関節材料において重要な特性である摩耗特性においても従来のハイドロゲルにみられない優れた耐摩耗性を示した。ソフトコンタクト材料、および人工関節材料としての可能性について報告する。
(㈱バイオマテリアル・ユニバース)
輸血医療の現況について
李悦子
近年、高齢化が急速に進み、また医療のめざましい進歩にともない、輸血をめぐる変化は著しい。全血輸血の適応は激減し、成分輸血が主流となり、特に血小板輸血は悪性腫瘍治療の支持療法として大きく貢献している。このように血液製剤は高度医療に欠かせない存在となっているが、ヒト細胞の一部であり、無制限な供給は不可能であるので、その有効利用が大きな課題となっている。有効利用の方法として、手術では血液を多めに確保する傾向があるのでその是正のため、術式別に最大血液準備量(MSBOS:Maximum Surgical Blood Order Schedule)を算出したり、輸血する可能性が低い術式ではT&S(Type & Screen)という待機方法を導入することが厚生省から推奨されている。
輸血検査ではまず赤血球型である、ABO式およびRh式血液型検査を行うが、亜型や、疾患により血液型が変異した場合など、その鑑別が重要である。同時に不規則性抗体検査を行い、過去の輸血や妊娠によって生じた抗体を見つけ、安全な適合血を選択する。そしてこれらの検査結果に基づいて、受血者と供血者の交差適合試験を実施している。一方、白血球型であるHLAの検査は、骨髄移植をはじめ臓器移植において大変重要な検査であり、近年はDNAによる型判定も行っている。また、血小板型検査も急速に進歩している。
輸血は貧血や大量出血に対する優れた治療法である一方、他人の血液細胞の移植であるので種々の副作用が起こる可能性がある。即時性のものとしては溶血や発熱、蕁麻疹などがあり、遅発性のものとしては輸血後肝炎や、AIDS、成人T細胞白血病および輸血後GVHD(Graft Versus Host Disease)などがある。これらを回避するため、十分な輸血前検査を行い、リスクの高い患者には白血球除去赤血球、洗浄赤血球等の製剤を輸血に用いている。輸血後感染症は、現在は血液センターで検査が十分になされているので感染の危険性はほとんどない。しかしGVHDは輸血された白血球が患者組織を攻撃する恐ろしい病態で、その予防には血液製剤を放射線照射してリンパ球を不活化しなくてはならない。最近は造血因子エリスロボエチンが臨床適応されたことにより、自己血輸血も盛んに行われるようになった。
平成7年には認定輸血検査技師制度が発足し、輸血に携わるものの技術および知識の一層の向上が求められている。
(徳島大学医学部附属病院輸血部)
阪神大震災時における被災地病院の災害医療の経験
徐昌教
5500名を超える死者をはじめ、神戸・阪神淡路地方に多大な被害をもたらした阪神大震災からはや9カ月が過ぎ去り、被災した地域から復興の槌音がようやく聞こえるようになりました。幸いにも当院においては、種々の幸運が重なり病院は生き延びることができました。
その要因はプロフェッショナリズムと使命感に支えられ不眠不休の活動を展開した職員の奮闘と、ボランティアをはじめとする多くの善意と協力とが結合したことにあります。
地震当日はライフライン(水、電気、ガス)の途絶により血液検査、X-P撮影ともにできなくなり、病院機能は大幅に低下しました。職員の出勤率は、電話連絡もつかないなかで約6割でした。
そういう困難な状態で災害医療を行い地域医療を回復させてきました。表ー1は5日間の外来数と新入院患者数です。震災当日より3日間外傷患者で待合室があふれかえり、懐中電灯の灯りのもとで縫合したり消毒するといった状況でした。その内訳は、切傷、打撲、挫傷などがほとんどで、骨折が5%でした(表ー2)。当日DOA(来院時心拍停止)6例が運び込まれ、3名に挿管が行われましたが、功を奏しませんでした。
震災後2、3日すると肺炎、ストレス疾患、心不全など慢性疾患の悪化した患者が入院してきました。これらの地震後入院した患者の疾病を昨年の同時期と比較しました。外傷および肺炎、精神疾患については明らかに昨年より今年の方が増加していました。
次に1月17日から2月28日の間の入院患者のうち死亡者を検討しました。その数は25名(男性15名+女性10名)でした。肝細胞癌死など明らかに地震と無関係な症例13例を除くと12名(男性6名+女性6名)となります。これらは、広義の震災関連死と考えられますが、推定によると神戸市全体で700~1000名とされています。
被災地内での病院災害医療の実際とそこから得られた教訓について述べたいと思います。
(表ー1 略)(表ー2 略)
(神戸朝日病院)
大阪における在日同胞の結核
李民実
<はじめに>
近年日本では国際化にともなう外国人急増のなかで、在日外国人における結核が重要な問題となっているが、在日同胞の結核の実状に関する研究は数少ない。私たちは、大阪府における在日同胞結核死亡率を日本人と比較し、また共和病院で経験した在日同胞結核患者の臨床像を検討することにより、在日同胞における結核の問題を考察した。
<対象と方法>
結核死亡率は、大阪府の死亡小票から在日同胞の結核死亡数を得、これと在日同胞年齢別人口を用いて算出した。臨床像の検証は、共和病院で診療した在日同胞結核患者201名に対しおこなった。
<結果と考察>
1973~91年の19年間を5年ごとの4期にわけ、大阪府での在日同胞と日本人の年齢調整結核死亡率を算出した。各々、Ⅰ期(1973~77)で20・81と11・74、Ⅱ期(1978~82)13・01と6・47、Ⅲ期(1983~87)7・72と4・20、Ⅳ期(1988~91)5・30と3・10で、いずれの時期でも在日同胞は日本人に対し約2倍有意差をもって高かった。検討期間を、1973~82年と1983~91年の二期に分け、10歳ごとの年齢階級別結核死亡率をみても、いずれの年齢階級でも在日同胞は日本人より高率であった。1978~92年の15年間に共和病院で診療した在日同胞結核患者は男性152名、女性49名、計201名である。
年齢別では60歳前後が多く、20・30歳代の若年者も多く、平均年齢は52歳であった。対象者の世代別人数は、1世が95名(47.2%)と約半数を占め、2世が58名、3世20名、4世も2名認められた。対象者の中には、1世からの曾孫の4世にわたるすべての世代で、発病がみられた家族内感染の事例も経験した。発見動機では、検診発見は家族検診率の低さをうかがわせた。在日同胞の1世は、ほとんどが戦前に朝鮮の農村より日本へ渡航している。当時結核の高蔓延国であった日本の都市に密集して居住したこと、在日同胞が1970年代初期まで国民皆保険制度から除外されていたことなど、種々の要因がからまりあい、在日同胞を結核のハイリスク集団にしたことが考えられる。日本でもっとも結核罹患率の高い大阪で、日本人に比べ在日同胞の結核死亡率が高いことは、在日同胞結核患者へのより一層の現状把握と施策が望まれる。
(みのり呼吸器クリニック)
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国際高麗学会日本支部 第2回評議員会
国際高麗学会日本支部第1回学術大会当日の1995年10月10日、大阪OICセンターにおいて第2回評議員会が開催された。ここでは1995年度の活動中間報告がなされ、1996年度の事業計画等(とくに学術大会のあり方)について論議された。また1994年度の会計報告がなされ、承認された。
国際高麗学会日本支部 第1回総会
第1回学術交流大会終了後に第1回総会が開催された。
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【西日本地域研究会報告要旨】
第20回 1995年4月24日(月)18:00~20:00 OICセンタービル4F会議室
朝鮮半島における南北経済交流の現況と今後の展望
裴光雄
第二次世界大戦後、朝鮮半島は日本帝国主義の敗戦によって、植民地支配から解放されたにもかかわらず、ただちに米・ソによるいわゆる東西冷戦の最前線として位置づけられ、「冷戦体制」が終焉した現在においても、南北の分断を余儀なくされている。
朝鮮戦争休戦後に敷かれた軍事境界線を境に固定化した南北の分断とは、南半分に大韓民国(以下、韓国)、北半部に朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)という、事実として二つの主権国家が存在し、そして互いに対立関係にあることを意味する。南北二つの主権国家の厳しい対立関係は、具体的には軍事的緊張状態、国民経済の発展・成長の優位性を誇示する経済開発の競争として現れた。ゆえに、両政権が樹立し、朝鮮戦争休戦を経て約40年にも及ぶ長期間、実質上南北間には経済交流が行われることはなかったのである。
しかし、1980年代末以降、南北間の経済交流が行われるようになった。では、このように厳しい対立状態を基本的関係とし、分断約40年間行われることのなかった朝鮮半島における南北経済交流がいかなる要因をもって生じたのか、現在までどのような内容と経緯を示しているのか、そして今後の展望はいかに描き出しうるのか。
本報告では、(1)南北交易始動の背景と交易の推移・実態、(2)共和国の対外開放政策および韓国企業の対共和国投資の現況と展望、に焦点をあてて、これらの問題を検討した。
(1)において、①盧泰愚政権の基本的性格と韓国社会の勢力構図の変化、②「転換期」に直面した韓国資本からの必然性、③南北交易の始動と「国民経済」、④共和国の対外貿易縮小と南北交易の拡大の重要性、について論じた。
(2)においては、①共和国における外国人投資法制定以前の対外開放措置ー1984年合営法の限界ー、②対外開放政策の本格的始動への模索ー外国人投資法制定と自由経済貿易地帯設置ー、③韓国企業の対共和国投資の現況と展望、に関して言及した。
結論は、米朝協議合意以後、米朝関係がわずかながら改善の方向に進展している今日、南北経済交流の動向は、韓国政府の対共和国政策によってもっとも大きく影響されるといえる。韓国政府の対共和国政策とは、いうまでもなく統一政策に他ならない。金泳三政権の統一政策とは和解協力期、南北連合期、統一国家期という3段階漸進的統一であり、言葉にはけっして表れないが、本質は究極的には韓国による共和国の吸収統一に他ならない。だが、共和国政府の立場からはこの吸収統一が受け入れられないのはいうまでもなく、既存の政治体制に動揺をもたらさないという限定的範囲内でのみ、対外開放政策及び南北経済交流を推進するに留まらざるを得ない。
ならば『夜明け』としての段階を終えた南北経済交流が、今後どのような展開をみせるであろうか、まさに歴史の検証にかかっているとしか、いわざるを得ないであろう、と締めくくった。
なお、本報告の内容は、『大阪教育大学紀要 第Ⅱ部門』第44巻第1号、1995年9月、pp.27~44、に掲載された。
(大阪教育大学専任講師)
第21回 1995年6月17日(土)15:00~17:00 OICセンタービル4F会議室
朝鮮語の字母『彪』と『舞』について
韓南洙
現在、朝鮮の北と南で字母の順序がちがうというのは周知の事実である(KMJ研究センター紀要「青鶴」第6号、1993、12p.57別表参照)。辞書・事典類の単語配列順にみられる字母順序は歴史的にみてA、B、C、Dの4方式があり、現在、南はC方式、北はD方式で固定したようだ。中国や旧ソ連、ロシアもD方式である。
ここで論じるのは字母の順序方式についての是非ではなく、字母<彪> (戚誓)のとりあつかいについてである。《繕識源鋭骨増》(朝鮮語規範集、1987.5、ピョンヤン)では総則につづいて第1章朝鮮語字母の順序とその名称、第1項ではその40の字母をあげながら、つけくわえて“彪(戚誓)を生ではなく誓と呼ぶこともできる”としたのが目につく(6ー7ページ)。このことは<彪>がパッチム(終声)にだけ使われるという意味でこの位置に定めたようだが、だとすれば初声の位置にある<彪>は一体なになのか? 辞書や文法書にはっきりした説明がみつからない。発音しない文字、いや字母だから無視したのか? ちなみに《繕識源企紫穿》(朝鮮語大辞典 2巻本、1991年、ピョンヤン)では第2巻の背文字に“2標ー舞”としながら本文では部首としての<彪>がなく、したがって字母としての<彪>の説明がない。ただ<戚誓>の項に“酔軒 越切《舞》切税 戚硯”(p.1689右上)とだけ記述されている。“北朝鮮では事実上初声の位置には彪はないことになる”(p.985)(『コスモス朝和辞典』白水社、1988)といった菅野裕臣教授の指摘は正しいことになる。
訓民正音(ハングル)ができてから、ながいあいだ<彪>と<舞>の両方が子音字母として初声にも終声にも使われた事情がある。のちに終声の<彪>(パッチムがないという意)と初声の<舞>が使われなくなり、ふたつは合体して字体が<彪>に統一された。これは偶然とはいえ理にかなったことである。<彪>を母音とみなす(梶井、1971)のは論外としても、願社軒・黙音(朝鮮語学会、1947)、ゼロ子音(青山・石原、1963)、子音(廃厩嬢紫穿、1976)、noconsonant sign(A HANBOOK OF KOREA、1978)、a silent letter(同、1987)、無音字(南廣祐 1980)、子音の音価がゼロ(渡辺・鈴木、1981)、音価ゼロの子音字(菅野、1981)、子音ゼロをあらわす文字(梅田、1985)、ゼロ子音(中村、1986)、無音の子音(金容権、1985)、無声・無声音(姜求栄、1985)、無音価(金裕鴻、1987)等々を引用するまでもなく、初声字<彪>は「音価のない子音字母」と規定できる。
D方式の場合<彪>が2度出てくることになり問題である。(NHKラジオ ハングル講座、1990年4月号p.43)初声字母<彪>を「音価がない」、「意味のない記号」、「形式的で便宜上つけたもの」として使用しながら軽視してきたことによる矛盾であるといわざるをえない。いうまでもなく初声字母<彪>の存在理由は、①母音ではじまる音節を表記する場合に必要である。②子音でおわる音節に母音ではじまる音節がつづく場合、連音現象ーーリエゾンがおこる。たとえば、源戚 [原軒]、股嬢 [袴暗]、伊精 [暗紅]、増拭 [走今]など発音されたとおりに書かないで形態保持という立場からの正書法にもとづき<彪>は欠かせない。朝鮮文字ーーハングルが音節文字あるいは単位文字といわれるわけである。
<彪>は喉音系統の<彪>や<評>の基本形であり、牙音系統の<舞>の作字上の基本形でもある。したがって<彪>を基本字母として積極的に認めるべきだ。当然ながら辞書の記述は、<彪>を部首としてもうけ、<彪>の説明、<焼>の説明、<焼奄>の説明というふうにすべきである。<彪>の位置を従来のA、B、C方式の辞書のように<謬>と<標>の間におくか、D方式のように<氷>のあとにおくかは別問題としても、そういう記述がのぞましい。ちなみに台北で発行された『韓華大辞典』(名山出版社、民国72年)はD方式で<彪>を<氷>のあとに部首としてあげている。また《繕稽紫穿》(1958年、モスクワ)の見出し字母(部首)は<焼>であるが、《繕稽企紫穿》(1976年、モスクワ)では<豹>になっている。
(関西学院中学部・非常勤講師)
第22回 1995年9月30日(土)15:00~17:00 OICセンタービル4F会議室
中国朝鮮族の教育ーー学校教育にみる朝鮮族の今日ーー
鄭雅英 (法政大学・大学院)
特別講演会
講 師 姜光錫氏(米国ニュージャージー州立工科大学 産業経営部 教授)
演 題 コリアン女性と人権
日 時 1995年12月18日(月)18:00~
場 所 OICセンター(4F会議室)
<講師略歴>
- 1931年 神戸市出身
- 1954年 関西学院大学法学部 卒業
- 1956年 同大学院 卒業
- 1957年 フォード財団奨学生として渡米留学。テュレーン大学法学部で比較法専攻
- 1960年 エール大学法学部で労働法専攻
- 1976年 ニューヨーク大学法学部より法学博士号を授与
- ニューヨーク市にあるアジア系米国市民人権擁護委員会を創設
- 1979年 人権運動に関する貢献が認められ、カーター大統領の招待を受ける
- 1984年 最優秀教授賞を授与
- 1990年 反差別国際運動顧問を勤める
- 現 在 米国ニュージャージー州立工科大学産業経営学部 教授
- 労働法、団体交渉、商法と経営学を担当