日本支部通信 第3号 (1994.12)

国際高麗学会日本支部の活性化のために


張年錫


 1990年8月、歴史的な第3回朝鮮学国際学術討論会が大阪で開催された。これを機に、さらに朝鮮学を発展させるために国際高麗学会が誕生したと言える。その後学会では日本、中国、米国の国々で国際会議などを開き、韓国、共和国をはじめとする多くの国から多数の学者、研究者がこれに参加している。一方、日本では東日本、西日本地域において日常的な研究会を、主として人文、歴史、社会、経済学部門等に加えて科学技術部会でも定期的に公開の研究会を開いている。
本年の8月中旬、学会の第2回拡大運営委員会が新しく開設された日本支部事務所のあるOICセンター内の会議室で開かれた。いずれ運営委員会の内容は詳しく報告される予定であるが、2、3のことについて触れてみたい。その中にはかなり重要な人事のことが含まれている。会の創世記から献身的な努力をされた崔応九会長、とくに困難な財政や組織の問題を前進させた呉清達副会長の業績を指摘しなければならない。現在学会が正常に運営されているのは前執行部をはじめとする多くの人たちの協力によるところが大きいと思う。ご両人はこの機会に現役を退き、常任顧問として残られるというのは大変心丈夫である。次期会長としては滝沢秀樹教授が推挙された。先生は従来から学会発展のために非常な努力をしてこられた。今後ともますますのご指導を期待しているものである。
さて、過去約5年間日本地域での活動を振り返ってみよう。長い間日本支部の代表であった大村益夫教授は東京を中心とする東日本地域で地道で着実な研究会活動を進めてこられた。どんな学会でもそうであるように、学会の総会や国際会議の開催等は重要である。加えて、平素の日常活動として、地域に根をおろした活動こそ学会を支える基本であるとも考えられる。西日本地域でも東日本と同様に研究会を滝沢秀樹教授を中心として進めている。このたび、健康の問題やその他の理由で大村先生が日本支部の代表を辞退されることになった。そこで国際高麗学会日本支部の第1回評議委員会において、次期代表として私にというお話があった。元来、朝鮮学の範疇は主として人文社会科学と民俗学関係というように相場は決まっているように思える。科学技術部会が朝鮮学という学問分野の中でその座席があるかどうかということは大変気になることである。
第3回朝鮮学国際学術討論会開催のおりに、10回を越える準備会での議論がなされたが結論を得るにいたらなかった。文化とは人間の生活そのものであり、その様式を含めて、全く自然の形での定着であると考えたい。文化と文明の相関がどうであれ、文明の進歩が科学技術と強く結びついている事実を考えるとき、非常に間接的であるが緩やかな形で科学技術が朝鮮学の発展のために関われるとの抽象的な結論を出したような記憶をもっている。いずれにしても、私には日本代表という重い役割はそぐわないように思えるが、学会の事情もあるので次の適任者が見つかるまでということでお引き受けすることになったのであるが、全く忸怩たる思いであると言える。しかし、お引き受けした以上できるだけ努力したいと思っていますので、会員皆様のご協力をお願いいたします。
最後に、私が属している科学技術部会の活動について若干触れることにします。部会では1991年9月に初めて第1回の研究会を開いた。たまたま、その時期に朝鮮半島に稲の害虫が広がったということもあって強い関心を呼び、農学専攻の会員を囲んで話し合ったことを記憶している。その後も研究会は継続され現在に到っている。それらの内容については、いずれ報告する予定である。ここで、簡単に私の希望を述べたい。在日する前途有望な研究者や技術者が当然のこととして、南北という枠組みを越え、各自の持ち場ばかりでなく国際高麗学会に於いても大いに活躍してほしいということである。もちろんこのことは科学技術部門に限ったことでないのは自明である。

(国際高麗学会日本支部代表・大阪電気通信大学教授)



【西日本地域研究会報告要旨】


第14回 1994年4月2日(土)15:00~17:00 OICセンタービル4F会議室


在外朝鮮人の現状


呉 清 達


1.はじめに 

 最近、在外朝鮮人、特に在日朝鮮人に関する様々な研究が行われている。こうした研究の動機は、以下のような事情によるものと推察される。
1)在日朝鮮人をはじめ在外朝鮮人社会全体で世代交代の問題が重大な段階にある。
2)在外朝鮮人の出入国に対する制限が緩和され、海外渡航が頻繁になり、交流が活発化することによって、多角的な比較研究を行い得る状況が生まれている。
3)日本の情報化、国際化の中で在日朝鮮人の人口統計などの資料が豊富になった。
4)世界的に国境を越えて移動する人口が大量に増加しており、国際移住者の問題が全人類的課題の一つとして提起されている。

2.在外朝鮮人の現状認識のための諸要件

 在外朝鮮人の現状を分析し、その諸問題を解明するには以下のような事柄に留意しなければならない。
1)在外朝鮮人問題は、朝鮮に対する日本の朝鮮侵略と植民地統治によって産み出された。
2)朝鮮民族は国土が分断された民族である。
3)朝鮮は地勢学的な特徴として、周辺強大国(ロシア、中国、日本)に取り囲まれており、歴史的にこれら周辺強大国の影響を絶え間なく受けてきた。
4)朝鮮と日本双方において単一民族国家観が支配的である。
5)在外朝鮮人の分布上の特色として、中国・アメリカ・日本・CIS、すなわち国際的影響力の強い四大国に、それぞれ数十万人以上の単位で居住しているという他に類をみない民族であるという点がある。

3.在外朝鮮人の現状
(表・略)

(大阪経済法科大学教授)



第15回 1994年6月25日(土)15:00~17:00 OICセンタービル 4F会議室


朝鮮戦争当時に南北でうたわれていた歌


山根 俊郎(尼崎市役所勤務)



【東日本人文社会科学研究会報告要旨】


第9回 1994年6月6日(月)17:30~ 法政大学69年館963教室


マイノリティ起業者供給試論 ーー在日コリア人起業者の分析ーー


河 明 生


 マイノリティとは、国民国家の枠内で社会的権力をもたない集団規模の小さい異質な少数派をいう。起業者とは、新しく事業を起こした創業者をいうが、その企業規模や永続性を問題とはしない。
民族上、宗教上のマイノリティは、営利活動において卓越性を発揮し、起業者活動の有力な供給源となるといわれている。しかし、その原因解明につき定説が存しない。そこで本研究はその原因を解明することを目的とする。なお、本稿では、その社会的文化的原因のみを論述する。
複数のマイノリティに同様の経済的社会的条件が与えられてもそのすべてが起業者活動の有力な供給源となるわけではない。それぞれの集団が営利活動に対し、異なる価値観を有しているからである。その基底には、固有の伝統的文化意識があり、それは現実として彼らの行動様式を左右する。すなわち、マイノリティが有力な起業者供給源となるためには、営利活動を正義とする固有の教義、思想、倫理、規範等の伝統的価値観を享有していなければならない。この価値観を有するマイノリティは、営利活動による利潤獲得が成功の明確な指標となり、その集団内でのステータスを高めるという確信をもつことができる。これは、営利活動従事への動機となる。
マイノリティ起業者供給の外生的原因は、マジョリティのマイノリティに対する迫害あるいは差別である。その中、マイノリティ起業者供給に強い影響を与えるのは、職業選択の自由を抑制する就職差別である。それ故、マイノリティの多くは生存のため独立した起業者活動を強いられる。これは起業者活動への契機となる。しかし、マイノリティの従事できる産業は限定されている。それは、マジョリティ側の支配的価値観が好意的でない営利活動中の未成熟な産業もしくはステータスの低い産業あるいはいわゆる「賎業」と呼ばれる産業等である。この産業は、当該国家社会において一定の役割を担うものではあるが、マジョリティはその産業への従事を敬遠あるいは忌避する傾向が否めない。それ故、その産業にマジョリティ側の優秀な人材が従事することは稀である。他方、その就職差別は、マイノリティ中の優秀な人材をその産業における起業者活動に従事させるという効用をもたらす。彼らにとって起業者活動は、自己がおかれた低位の階層から抜け出し、他の舞台で発揮できない名誉欲を満たす限られた手段となるため、マジョリティ側の支配的価値観は何ら意味をもたなくなる。すなわち、その就職差別は、マジョリティの敬遠あるいは忌避する産業にマイノリティ側の才能を集中させるのである。とすれば、マイノリティ起業者供給は、マジョリティのマイノリティに対する就職差別と相関関係にたつ。逆に、その就職差別改善の進行に応じて、マイノリティ起業者供給は減少するであろう。マイノリティ中の優秀な人材が多方面に分散するからである。
マイノリティ中の優秀な人材が、起業者活動においてその才能を発揮するためには、当該国家がマイノリティの起業者活動を完全に抑制する政策を実施できないことが絶対条件となる。具体的には、マイノリティの財産権、営業の自由、適正課税等が最低限保障されなければならない。また、彼ら自身が、そのマイノリティ固有の伝統的宗教教育や民族教育等によって後天的に付与された主観的な「選民思想」や「強い矜持」等を信奉していなければならない。自己が属する集団が優秀であると確信をもつことのできるマイノリティは、成功の度合いに応じて強まるマジョリティ側の迫害、憎悪、差別等に能動的に対処することができるのに対し、自己の属する集団が劣等であるとするマイノリティは、マジョリティ側の圧力に抗しきれないからである。前者の著しい特徴は、「過度の自尊心」をもつが故に、現実に進行する自然な同化を人為的に抑制しようと試みることである。特にその傾向は、マジョリティに対する敵愾心をもつに十分な歴史的経験を有しているマイノリティに顕著である。同化は同胞から「裏切り行為」として非難され、その集団の成員資格さえ喪失する恐れがあるため、その多くは同質性の担保をはかり非同化を志向する。このようなマイノリティに属する起業者は、その思考がマージナルになりやすい。彼らは、その主たる取引先や顧客及び従業員をマジョリティに求める以上、必然的に一定の「マジョリティ化」をはからなければ起業者活動を遂行できないからである。B.F.Hoselitzによれば、マージナルマンは与件の変化に応じて創造的に適応することに適している。すなわち、自己が属する集団は優秀であるという確信をもつ、非同化志向の強いマイノリティ中の起業者は、その思考がマージナル化するが故、当該国家の経済的諸変数の変化に能動的に対処するという起業者資質を備えることができるのである。
この仮説を実証すべく、日本におけるマイノリティ中の代表的起業者を分析対象とする。戦後の日本では、コリア人から多くの起業者が供給された。日本人がその事実を認識できないのは、彼らが事実上、日本式氏名(事業名)を用いるからである。本研究は、在日コリア人の起業者活動の軌跡を実証的に考察することにより、「民族上、宗教上のマイノリティは、営利活動において卓越性を発揮し、起業者活動の有力な供給源となる」という原因の解明を行うものである。

(日本学術振興会特別研究員。神奈川大学大学院経済学研究科)



第10回 1994年7月2日(月)15:00~18:00 法政大学69年館963教室


日本における朝鮮人の文学の歴史 ーー1945年までーー


任 展 慧


 近代日本における朝鮮人の文学活動は1883年に李樹廷によって始められ、それは漢文を中心にしていた。李樹廷は朝鮮政府使節団の一随員として来日し4年間の滞日期間に、聖書を朝鮮語に翻訳・出版し、1885年発行の『明治字典』の編集者の一人として「韓音訓」の表記を担当した。それ以後1905年前後から1930年にかけては、日本留学生たちが主となって朝鮮語による文学活動を行った。1896年発行の『親睦會會報』から、1914ー1930年発行の『學之光』まで、留学生たちの機関誌は6種類、延べ百余册が出版されている。
1883年から1945年までの朝鮮語と日本語の作品数の合計は1488篇にのぼっている。そのうち、朝鮮語の作品総数は788篇である。その内訳をみると1906ー1915年(325篇)、1916ー1925年(265篇)、1896ー1905年(41篇)、1936ー1945年(14篇)、1883ー1895年(5篇)の順位である。いずれも留学生雑誌が発行されていた時期が1、2位を占めている。1945年以前の日本において、朝鮮語の文学活動の中心を担っていたのは留学生たちであったことが、この点からも指摘することができる。
李光洙、崔南善ら留学生たちは国権回復、旧習打破を主要目的として、留学生会の機関誌に朝鮮語による詩、小説、評論、エッセーを発表し、同胞の啓蒙と朝鮮の近代文学創造に刺激を与えた。朝鮮に自然主義の文学思想を導入しようとした金東仁、田榮澤、朱耀翰による朝鮮最初の文芸同人誌『創造』(1919年)、原作からの翻訳をめざした鄭寅燮、異河潤らによる『海外文学』(1927年)は、いずれも、この時期に留学中であった彼らの手により日本で発行されている。
日本における朝鮮人の文学活動のうち、日本語による作品数が朝鮮語による作品数を凌駕するのは、1920年代後半の日本プロレタリア文学運動が盛んになりだした時期からである。朝鮮人は『プロレタリア芸術』『文芸戦線』『ナップ』等のプロレタリア文学雑誌に拠って、日本語による作品を発表した。これは在日朝鮮人の形成と、その数の増加に関係がある。朴慶植は『8.15解放前在日朝鮮人運動史』(1979年3月、三一書房刊)のなかで、「在日朝鮮人は1945年8月15日以前、日本帝国主義の朝鮮植民地支配の遂行過程で、また侵略戦争時の強制連行政策によって形成された」と書いている。そして在日朝鮮人の数にふれて、1919年(3万人)、1930年(30万人)、1938年(80万人)、1945年8月(240万人)である、としている。
1883年から1945年までの朝鮮語と日本語の作品数の合計が1488篇にのぼっていることは前述した通りである。そのうち日本語の作品総数は700篇である。その内訳をみると、1936ー1954年(379篇)、1926ー1935年(273篇)、1916ー1925年(45篇)、1906ー1915年(2篇)、1896ー1905年(1篇)の順位である。いずれも在日朝鮮人の数が増えていた時期が1、2位を占めている。1945年以前の日本において、日本語の文学活動の中心を担っていたのは在日朝鮮人であったことが、この点からも指摘することができる。
日本のプロレタリア文学雑誌に作品を発表した作家に韓植、金熙明、詩人に金龍濟、白鐵、姜文錫らがいる。その運動の解体しはじめた頃、朝鮮人としては初めて張赫宙が日本文壇に登場した。張赫宙はデビュー作「餓鬼道」で植民地下朝鮮農民の現実を骨太な筆致で描いて好評を得たが、のちに皇民化政策に荷担した。1934年秋、新たな文学的抵抗者として金史良が「光の中に」で登場し、李殷直の「ながれ」とともに、第10回芥川賞候補となった。この頃、洪鐘羽(青木洪)の長編『耕す人々の群れ』、韓植の詩集『高麗村』などが刊行された。また、金素雲は『朝鮮民謡集』をはじめ、朝鮮の童謡・現代詩紹介に活躍した。太平洋戦争直前の暗い時期に『芸術科』に拠った李殷直、金達壽らの若い世代は、強いられた日本語を用いて反日本帝国主義の文学的営みを可能にする、という在日朝鮮人文学者の多様なたたかいの下地を意識的に切り拓いたのである。日本の植民地支配によって形成された在日朝鮮人の手による文学としての「在日朝鮮人文学」は、この時期に始まったといえよう。そして、その試みの真の開花は1945年8月15日以後に実現した。

(朝鮮文学研究家)

——————————————————————————–


報 告


朝鮮学会第45回大会に参加して


池 貞 姫


 10月1日、2日の両日にかけて、天理大学2号棟において朝鮮学会第45回大会が行われた。
1日に公開講演、総会、懇親会が行われ、2日に研究発表会および朝鮮語教育報告会が行われた。
昨年度より、研究発表会(語学・文学分野/歴史学・民族学・考古学分野)ののちに朝鮮語教育報告会の場が持たれるようになった。朝鮮語を必修あるいは選択科目として外国語科目に取り入れられるようになった高校、大学が増えた昨今の状況をかんがみると、このような場が設けられたことは朝鮮語教員たちの情報交換の場ができたということで、大変、意義があるものだといえよう。
ここでは、今年行われた第2回朝鮮語教育報告会に参加して、感じたことを述べたい。
テーマは「外国語科目としての朝鮮語教育」で、発表は藤井幸之助(桃山学院大学)、徐尚揆(筑波大学)、熊谷明泰(新潟女子短期大学)、油谷幸利(愛知教育大学)、白川豊(九州産業大学)、大村益夫(早稲田大学)の各氏によるものであった。藤井幸之助氏によって、大阪府立高校における状況が発表された他は、各氏が所属する大学における、朝鮮語科目ができた経緯、カリキュラム、制度、教材、学生の反応、問題点、課題などが発表された。
全体として、朝鮮語教育の現状が発表されたわけだが、私は同じ朝鮮語教育に携わる者として、いつも頭を悩ましている教材について、ことのほか、興味を持って聞いた。主として、朝鮮語の文章を解読できることを目的とした教材が、多く使われているとの印象を受けた。
現在、入手しうる朝鮮語の教材は、文法形式から入っていく教材が圧倒的に多いと言える。朝鮮語の場合、語順や発想がほぼ同じということで、そのような学習方法も効果的なのであろう。
会場からの提言があった通り、朝鮮語の授業によって、いったい何ができるようになるかという目標設定が、もっと話し合われるべきであり、まさにそこから教材がどうあるべきかが見えてくるのであろう。
私自身は、言葉とは、人と人とのコミュニケーションの手段であり、コミュニケーションをしようとする発話者の発話意図から出発する発想の教材が、従来のものに加えて必要なのではないかと思っている。現在、そのようなことを目指す教材を作り、教室で試用している段階だが、改善の余地がまだまだあり、改めて教材作りの難しさを肌で感じている。諸先生方の意見や教えを乞い、これからの朝鮮語教育をより発展させていくため、少しでも貢献していきたいと思う。

(関西学院大学非常勤講師)



投 稿


世界大乱か? 地球的秩序か? ーー次世代のプロパガンダーー


末永 茂


 世界資本主義の第5期にあたる21世紀は、いかなる世界を構築するのか、今こそ問われている時期は他にはないのである。世界資本主義の大循環から見た歴史区分は、古典的循環期にあたる第1期が1830ー1862年、第2期は長期停滞期の1862ー1915年であり、第3期は戦時経済期の1915ー1953年、第4期はその延長線上にある平時経済の高度経済成長期の1953ー1993年である。この世界資本主義観からみた20世紀の総括は、「国家と経済」の対立、「戦争と革命」の地球的規模での再現であり、次世代は真にこの「負の歴史的教訓」を高度に解決しなければならない。
諸課題はいずれも、人類の生存に関わるより深遠な問題となっている。すでに、19世紀以降の「パワー・ポリティックス」型国際政治は、米ソ二大軍事力の限界的均衡破壊によって有効性を喪失している。これは全面核戦争を回避した点で高く評価できるが、代わって地域紛争が多発し、その累積化が懸念される。今後、軍事関連諸部門は国際的非軍事化のためにも、最大値原理に基づいた人的資源の再配分を進めなければならないだろう。このような情勢下にあって問われている課題は、何よりも世界の政治的枠組みの早期確立である。アメリカ経済が弱体化し、軍事部門を経済的に擁護できなくなる事態が最も懸念される。その前に国際機関によって、世界全体に各国の軍事部門を危機管理の「網」にかけることこそ早急に行われなければならない。
だが、1990年代の現実の世界は極めて憂慮すべき時期である。ユーゴ内戦はヨーロッパ大乱への危機をはらみつつ、ジェノサイド的地域紛争を展開している。「正義と正義」の戦いがいかに不毛なものであるか。民族の誇りと独立自尊を謳歌する「民族のための戦い」が、いかに排他的で非生産的なものであるか。ユーゴ内戦は内需的発展の限界と累積債務問題、二重経済化による結果として、内部から経済社会が崩壊した典型例として後世まで伝えられよう。
他方、アジア情勢も朝鮮半島情勢、中国高度経済成長による社会経済的流動化を促しつつある。急速な経済発展の成果として懸念される事態である。おそらくこの事例は、軍事力をもっても抑えることができないほどのポテンシャルを内蔵しているだろう。NIESや中国の外需的発展は限界に達しつつあり、北朝鮮は外需・内需的発展志向の狭間で、すでにその活路を失ってしまっている。
さらに国際経済的問題として、輸出志向工業化政策による「経済特区」は商品の洪水を生み出し、今や、世界市場に生産要素を過度に集積させ、その集中は高エネルギーを放ち、「収穫逓減期」を迎えようとしている。その結果、地球環境問題はより深刻となり、解決不能の事態を招きかねないのである。
人口抑制政策の推進は宗教・教義の地球的視野にたった改変を要請しつつ、女性の権利以上の世界的課題として、取り組まなければならない。各国・各地域・人種・民族・個人のあらゆる階層において、自由主義の原則を貫かなければならないが、すでに私権の制限を検討しなければならない基本的部門もある。また、原子力・石油エネルギー関連開発はその廃棄処分のコストと、地球環境という二律背反のシステムを内包し、今や経済発展の桎梏に転化している。そのため気象・立地的諸条件を含めたエコロジカル・システムを導入しなければならないだろう。
そうした意味においても、市場原理による世界統合は世界各地域の独自性を保持しつつ、国境を越えるのである。資本はすでに国境を越えており、民間企業のモラルの向上と人材の最適配分、労働慣行の向上はこれまで以上に求められる。民族を越える経済活動は、反体制勢力の不毛な戦いをも消滅させ、企業家に長期利潤追求を可能にする開発戦略の政策的対応を求めることになるであろう。人種、民族、種族等のグルーピング化は、究極的には個人まで分裂が進み得る。だが、そうした無限連鎖のモザイク化は、破壊のポテンシャルを増幅するのみである。
以上の諸課題について根本的解決を導く方策の一つとして、既存のシステムの一元的集合を進めつつ「国際ネットワーク・システム」を構築し、それを媒介に各国経済は、世界単一市場形成に向けて統合されなければならない。また、国際資本・国家利益・国際公共性等の利害関係、農業保護政策と市場原理の対立や内外各階層の新たな利害対立は、「より高次の世界市場原理」によって解決されるべきものである。しかも、世界統合は「富と権力」が分離した高度な政治体制によって初めて実現しうるのである。
(国際高麗学会会員・国際経済学専攻)



投 稿


丹波マンガン記念館と『ワシらは鉱山で生きてきた』の紹介


李 貞 鎬


 丹波マンガンは約2億年の昔、深い海の底に沈殿した。その後、海は山に変じ、人々の利用に供されるところとなった。
1896年頃に採掘開始、1985年頃まで約90年間、丹波の山々(日吉町、京北町、美山町を中心に福知山市、亀岡市、大津市、朽木村、等)から掘り出された。最盛期(第2次世界大戦)には約300ヶ所もの鉱山が活況を呈していた。
マンガン鉱床は、金、銀、銅、鉄の鉱床にくらべてその規模が小さく、そのため大手鉱山会社は、採掘事業に参画せず、かわって零細な企業や個人による開発にゆだねられた。
マンガン鉱の採掘作業は厳しい条件のもとですすめられ、朝鮮人も含む多くの鉱山労働者は、現在もじん肺症などの病に苦しんでいる。

【主たる展示内容】
1.丹波マンガン鉱の生成
2.開発の歴史
3.マンガン利用などに資料収集
4.かつての坑内作業の再現
5.朝鮮人労働者の作業実態
丹波マンガンの全体像を後世に伝えようとしている。

丹波マンガン記念館
京都府北桑田郡京北町字下中、西大谷
TEL 07715-4-0046 FAX 4-0234

『ワシらは鉱山で生きてきたーー丹波マンガン記念館の精神史』の主な内容

 当記念館の評記事を抜粋したものをまとめた。
1.解放への日々ーーある日じん肺とわかって
京都新聞 1989年12月2日~12月24日
2.肺塚ーー京都・北山の丹波マンガン記念館
月刊誌「世界」1990年8月号
3.苛酷な思い出の保存にかける、ある男の苦闘
ニューヨークタイムズ国際版89年12月5日(火)
4.鉱山跡に記念館建立、強制連行された朝鮮人鉱夫を心に刻むため
ジャパンタイムズ 1989年9月24日
5.小さい鉱山記念館の紹介 広島通産局、
月刊誌「保安のしるべ」1990年7月、8月号
6.マンガンとはどんな鉱石か。
7.終りにーー精神史の始まりとして。
(丹波マンガン記念館 館長)



投 稿


神戸電鉄と同胞一世たち


金 慶 海


 六甲山の東にある名湯・有馬温泉に行く神戸有馬電鉄が敷設(1927~28)され、そののちに世界的名門コース・広野ゴルフ場に行くための三木電鉄が敷設(1936~38)された。共に、お金持ちたちが遊びに行くため、が始まりだった。この二つの電鉄が、戦後の1947年に合弁して神戸電鉄㈱となる。この二つの鉄道工事に同胞一世たちが深くかかわり、深刻な問題があった、ということがわかった。以下、その実情と現在について報告する。

 Ⅰ.神戸電鉄を敷設した同胞一世たち

 この電鉄の敷設工事と同胞とのかかわりについて調べた結果、次のような四つの特徴的なことがわかった。

①この鉄道敷設工事にたずさわったのは、全員が朝鮮人ではなかろうか、と推測される。日本人がたずさわったという記録は、今現在もって見出せないでいる。
初めの神戸有馬電鉄工事の時は、1500人もの同胞一世がかかわったらしい。当時、兵庫県には、約6000人程の同胞がいたらしいので、その4分の1がこの工事に参加していたことになる。朝鮮人だけを、しかも、1500人もの多数を使った敷設工事請負会社・日本工事(合)のインタビューがふるっている。…県下には約6000人の朝鮮人がいる。そのうち約3000人は神戸市内にゴロついているが、彼らはよく働くし、その3分の1でも飯にありつけるから安くてすむので、朝鮮人たちを雇う。…(神戸新聞1927.6.6の要旨)

②この二つの工事中、朝鮮人だけが13名以上も死亡している。
六甲山脈のけわしい谷間を、南北に東西に縫うように線路を敷くのだから、当然、難工事が予想された。だから、危険予防が必要だったのに、その措置がとられていなかったと思われる。すなわち、人命無視。その端的な証拠が1928年1月15日の夜間作業だ。
この日の夜中、午前2時半ごろ、神戸市東山町の東山トンネルを掘る工事中、突然落盤。それは、前日からの雪と雨でトンネルの上の地盤が弛んでいたのに掘らせたのでだ。
葬式は? 遺骨は? が気になり、事故現場付近を探して回った。が、どのお寺の過去帳にも彼らの名前がなかった。神戸電鉄の専属のお寺にも。

③特異で大規模な労働争議が多発
工事期間中、7、8回もの労働争議があった。そのすべての焦点は、働いた給料の支払いを要求したことだった。昇給や労働条件の改善などは、二次的な要求だった。
もう一つの特徴は、全労働者が立ち上がったということだ。もちろん、全員朝鮮人。60余の全飯場、1200~1500人が参加している。解放前の在日朝鮮人の労働運動史上、最大規模の闘いではなかろうか。
④現在は立ち退き問題
これらの工事のための朝鮮人たちの飯場が鉄道沿線沿いにできたが、そのほとんどはなくなった。が、現在、神戸市長田区源平町に三つの飯場跡が残っている。そこに住んでいる同胞たちに立ち退きが要求されている。住んで数十年、いまさら立ち退くところがない、死ぬまでここに住む、と同胞たちは言っている。彼らにとっては深刻な問題だ。どうにか手助けする方法がないものか。

 Ⅱ.追悼碑を建てよう!

 ほそぼそとだが、何回かの追悼行事を行った。知った以上黙ってはおれないという気持ちから。このことが知れわたり、異郷で露と消え無念の死をとげた同胞一世を追悼しようとなった。
去年の7月、在日同胞も日本人も超党派的に参加して『神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者を調査し追悼する会』が結成された(会の代表は落合重信先生)。その趣旨は、朝鮮人労働者の労働の実態を調査し、犠牲者を追悼しよう、ということになった。
労働の実態の調査結果については、要旨を上述したので省略する。
二つ目の追悼行事についても根気強く活動を進めた。
まず、神戸電鉄の敷設工事中での事故死だったので、神戸電鉄の専属のお寺の過去帳に13名の名前を記帳するように要請、この正当な要求に神戸電鉄は応じた。
次に、この件についての新聞記事から、犠牲者の本籍地をつきとめ、二家族の遺族が判明できた。当『追悼する会』の事務局長・飛田雄一氏が訪韓、遺族であることを確認。当『追悼する会』としては、二遺族の計4名を日本・神戸に招待し追悼式を行うことに決めた。その追悼式は、8月28日に神戸電鉄専属のお寺で、4名の遺族の参加のもとに厳かに行われた。
この件の最後の仕事は、異郷で無念に犠牲になった13名の追悼碑を建立すること。
まずは、土地の確保。次に碑の建立。共に難題。

 (兵庫朝鮮関係研究会会員)


投 稿


日韓・日朝関係史の一視点 ーー高校日本史教材化にあたってーー


新田 牧雄


 新学習指導要領による日本史授業展開の観点から、下記2点を分析検証した。
Ⅰ 金東祚 韓日の和解ー日韓交渉14年の記録(1993) サイマル出版会
Ⅱ 李成市 表象としての広開土王碑(1994) 思想N0.8
前者については、副題からもその内容がうかがえるように、朝鮮戦争中の1951年にアメリカ側の強引な斡旋と要請による予備会談に端を発した、条約締結までの14年間を韓国側からみた記録である。この本から分かることは、条約の基本的骨格である、平和と安全の保障と維持や相互の主権尊重、相互福祉、共通利益、緊密な協力等を俎上にのせることはできても、基本的認識のギャップは埋められず、やがて齟齬をきたし、結局は課題を山積みにしての政治的決着であった。
著者は会談に関与されており、執筆に際しては、エピソードは極力避け、史実として残すことに終始つとめている。経緯をたどる時、双方にひんしゅくを買った久保田、高杉、田中首相、桜田、藤尾氏等の言辞が想起される。
2国間条約について、副教材の史料集や教材資料を見ると、掲載されているものといないものがある。その出典は鹿島平和研究所の日本外交主要文書・年表からであり、前文と7条のうち、記載されていても前文のないものもあり、条文は押しなべて1~3条のみで以下は略されている。例えば日中関係では、日中共同声明と日中平和友好条約が前文と全条文が掲載されているにもかかわらず、このような作品を読むにつけ日韓・日朝関係の授業展開に当たって、この経緯をありのまま伝える必要性を感じるところである。ここで伝えるべきは政治的解釈ではなく、感情思惑の束縛と離れ未来志向の双方の若い人の教育によって課題は解決し得ると確信しまた念願している。これは同一俎上で甲論乙駁に陥っている課題の追求を意味する。その結果、全世界に誇示し得る相互信頼、共存を秘めた金字塔に至らなくとも、塑像の建立が可能になるであろうことを信じてやまない。
後者の広開土王碑文と言えば、『倭以辛卯年来渡□破百残□□新羅以為臣民』の箇所の読みと解釈が問題点となり、1800余字の冒頭部分19字で全文を集約した感がある。
この主題に李成市は冒頭部分に固執せず全碑文を把握し、伝統的通説を批判し、次のような示唆・指針を明示している。
1)一国史を越えた広域にわたる新しい資料解釈の尺度・標準的モデルの追求
2)古代史料は古代のコンテクストから読み換えるという幅のある対処
また彼の批判する伝統的通説とは
1)3世紀から5世紀にかけて、日本に関する中国史書の資料的空白を補う資料が、この1800余字の刻字の碑文であるとし、好大王が倭軍を撃退した功績の頌徳碑であり、碑文は王を賛美し有利にも書かれている。
2)日本書紀巻10壬辰の条に見える記事が碑文にも辛卯の年の記に相当し、上代紀年の絶対年代を決定する資料と位置づけられている。
さらに碑文には1883年に酒匂景信の双鉤本がもたらせられ、当時の参謀本部の解読作業をへて釈文が公表され下記の通説の成立をみた。
1)倭が391年海を渡って百済や新羅を破り臣民とした。
2)任那を拠点に任那滅亡に至る約200年間朝鮮(半島)南部を支配した。
通説は上記19字を史実として伝統的に解釈理論化し、戦後に中塚明がこれを批判し、軌を一にして李進熙が碑文改竄説を展開し、武田幸男の原寸大の拓本による実証的究明等の新たなソースを学界に投げかけてもいる。
高校教科書の記述を幾つか拾ってみよう。
1)その読み方には異説あるも碑文は、4世紀末から5世紀に百済(残)と結んだ倭の軍隊と戦ったことなどが記されており、碑文の一部が改竄されたという説もあるが、中国の考古学者の調査によれば故意に改竄した痕跡はなかったという。(  )は筆者。
2)碑文の読み方からどのような史実を読み取るかについては、(日本の)学界でも見解が分かれている。
3)高句麗と対抗するとともに進んだ文化や鉄資源を求めていた。
従来の日本や韓国の碑文解釈も表裏の関係に止まり、実証的究明による脱却を強調したい。碑文考究には、宗書倭国伝の倭王武の上奏文も並行すべきであり、漢学隆盛時の忠北中原所在の中原高句麗碑文の全文を解釈し、併せて宋書の高驪や句驪に着目し中国史書にも素材を求めての幅広い考察ができればと思っている。双方より隗より始めよであり、名家の白馬は馬にあらずではないが、名と実を究明の結果としての一種詭弁的思考よりの脱出を希望する。

 (埼玉県立和光国際高校)



投 稿


ある哲学者の死


張 年 錫


 万物流転は自然であり、世の常とも言える。最近身近に起こったことで、私に強い衝撃と深い感動を与えるものがあった。それは同胞の老哲学者、姜尚暉先生の死と関わることである。
私と先生の出合いについて言えば、哲学者ということで以前から知ってはいたが、専門分野の関係からお逢いする機会もなく、初めて逢った時期を思い出すことすら難しい。たしか、14、5年前にさかのぼるように思う。言葉少なく、しかし、ときどきの発言には常に物事の本質を見抜いていたような気がし、先生から多くを学ばせてもらいたいと密かに思っていた。
姜先生についての紹介はヘーゲル「大論理学精解」全巻完結直前のアエラ(1993.8.18)に詳しい。先生が研究を始めた初期の頃はカント哲学であったが、その後ヘーゲル論理学に傾いていったという。その理由は定かでないが、恐らく観念論哲学ということと、少しばかりの反骨精神、さらに難解なものへの挑戦ということがあったのかもしれない。いつも陽が当たらず、経済的にも苦しい条件の中で選択できたのは、自分を傷めつける自由しかなかったのだと思う。有論(上巻)が完成し、その出版記念会と関わって直接お話を聞くことがあった。1950年代、生活が最も苦しかった大学時代(九大文学部哲学科)、学校の休暇には加古川の家に帰り八百屋の手伝いやポンセンベイ売り等とアジュモニと一緒に働いた。苦しい生活に追い討ちがかかるように結核になったのもその頃であった。
大学を出ても生業につくことができず、独学で研究を始めた。神戸大学の今は亡き武市健人先生とヘーゲル哲学の勉強を開始したのが1965年頃であった。その5年後に奈良の方に移ったが、胃癌、通風、胆石、胆のう炎等々といろいろな病気と共生する体になっていたのである。研究生活で一番感激したことはと言葉を向けても答は返ってこない。とくに苦労されたことはと聞いても覚えがないと言われ、強いていえば性格的なしつこさが研究を進める上で原動力になっていたのではないだろうかと。それはともかく、とても勉強が好きだったようでした。酒が飲めない、煙草もやらない。今までごまかしのない人生を歩んできたとおっしゃった。
上巻は1984年10月に上梓した。聞くところによると、4年をかけて最初に書き上げた上巻は納得できなかったので破棄、再度書かれたそうである。1990年3月に中巻の本質論が発刊される。出版記念会のことで先生とお話したとき、1988年の手術で新しい癌が見つかったが、手術後2、3日して机に向かったと言います。しかし、その10日後には再手術されたとは。ところが不思議なことに当の結腸ガンはいつの間にかよくなったと言いながら、ふーっと思い出したように12年前の手術の話をされる。池で静かに泳いでいるカイツブリを眺め、私が死んだらもうあのカイツブリともお別れか。人生って無情だよなあ。それとなく誰にともなく、1つの喜びを得るには100の苦しみを味あわなくてはならない。死、それを迎えることはその人にとって幸せなのか、ある意味では解放と等価なのかもしれないと。そして身内の人たちのための死は嬉しい。そして礎になることはさらに嬉しいと。それとなく自分史に重ねながらアボジの歴史にもふれる。12歳と16歳の妹が岸和田の紡績工場での過労で結核病死、戦時中朝鮮人の悲しい歴史の一片を語った。
壮絶なまでのガンとの闘いの中で終巻、概念論を1993年11月に出版した。一人の人間が何百の論文を書いた史実もあるにはある。ヘーゲルの原著900頁を1250頁の詳解訳は生涯の過半を越える38年をかけての結晶である。著作の完結と共に多くの新聞紙上で取り上げ、一様に著者の労作について評価を与えた。出版記念会(1994.1.22)には日本各地からはもとより、海外からも専門の方々がかけつけ、氏の業績を高く称えた。その後も新聞紙上で多くの哲学者が苦しい中での偉業を自分のことのように喜び賛辞を送ったのである。私たちは氏の著作がこれからの長い歴史の中で、厳しい風雪に耐える大木のように本領が発揮でき、哲学の分野、とくに観念論哲学の世界で真価が問われ、いつまでも生き残り、評価を受けるであろうと堅く信じ、民族的な立場からも強く期待をよせた。
その後も健康が優れず、きびしい状態の日々が続いた。5月14日先生を見舞う機会があった。すでに何度となく死線を越えてこられ、常日頃ガンでは死なないと言っておられた先生も、とても回復が困難かと思われるほど苦しい闘いを強いられていた。ときどき意識がもうろうとされることがあった。私が帰ろうとしたとき、握っていた手に微かに力をこめてありがとうと言われた。私にはそれがどんな意味でのことか計り知ることはできなかった。それから2日後に不帰の人となったのである。痛恨のきわみで享年74歳であった。

(大阪電気通信大学教授)

——————————————————————————–


国際高麗学会日本支部第1回評議員会
1994年11月3日、大阪OICセンターにおきまして国際高麗学会日本支部第1回評議員会を開催しました。ここでは役員選出および活動報告、今年度および来年度の事業計画等について論議されました。