日本支部通信 第20号(2003.12)

国際高麗学会日本支部第7回学術大会ひらく
日時:2003年11月30日(日)10:00~17:00
場所:大阪教育大学天王寺キャンパス


焦点理論から朝鮮語の助詞[eui]の意味と機能を探る
──[eui]の出現と非出現に伴う焦点を中心に──
金錦花 

 

現代朝鮮語の属格構造において、[AΦB]という構造形式を取り扱う際、従来の観点では、[AeuiB]の構造形式の省略として見なしてきた。本論ではこれは省略ではないことを主張した。その際、助詞[eui]の機能に着目し、機能主義文法における焦点理論に基づき、助詞[eui]の現れる[AeuiB]の構造形式と[cui]の現れない[AΦB]の構造形式において、焦点がおかれる位置を検討した。具体的に言えば、第一章では、先行研究を伴う間題提起を行った。第二章では、焦点の概念と焦点確定の理論根拠を確認し、第三章では、具体的な言語事実から焦点確定のメカニズムに従って焦点の確定を行い、助詞[eui]をその意味と機能に基づいて分類した。第四章では、構文の概能の側面から[AΦB]の構造形式が、[AeuiB]の樽造形式の間で現れる異なる点を探ってみた。
焦点(focus)というのは、ヨーロヅパのPrague学派が用いた概念として、重要度が高い情報(important information)であり、話し手がある文を発話するにあたり、聞き手がその文中のある要素の出現を予測できない(unpredictable)と話し手が見なすとき、その要素はその文の焦点であり、重要度が高い情報になる。言い換えれば、話し手が聞き手に特に伝達したい部分、つまり断定(assert)している部分を焦点、また重要度が高い情報と呼んでいる。焦点の確定においては、[AeuiB〕の構造形式と[AΦB]の構造形式を検討対象とした。そして[AeuiB]の構造形式をⅠ、Ⅱ、Ⅲのタイプに分けた。[AeuiB]の槽造形式Ⅰのタイプは、聞き手の知りたい情報がBにおかれる場合である。[AeuiB]の構造形式Ⅱは、聞き手の知りたい情報がAにおかれる場合である。[AeuiB]の構造形式Ⅲも、聞き手の知りたい情報がAにおかれるが、後に見るように[AeuiB]の構造形式Ⅱと性質的に異なるものなので違うタイプとして扱った。[AΦB]の構造形式は、聞き手の知りたい情報が全体或いはAにおかれる場合である。聞き手の知りたい情報は文の中で’疑問詞’として現れるが、話し手の’回答文’の中の、疑間詞への回答にあたる部分が、聞き手にとって新情報であり、かつ重要度が高い情報でもあるので、情報の焦点になるわけである。この焦点の位置と共に、次に考察したのは助詞[eui]の意味と概能であった。


(図1)

[AeuiB]の構造形式Ⅰ
cheaksangeui dari
{dari}∈{cheaksang}
所属関係
要素間対比の存在
[AΦB]の構造形式
cheaksang dari
{cheaksang dari}
一つの固まり
[AeuiB]の構造形式Ⅱ
cheaksangeui dari
{cheaksang dari }⊂{dari}
包含関係
同種間対比の存在

[AeuiB]の構造形式Ⅰは、疑問詞がBの位置におかれ、焦点がBであると判断した。AとBの関係は、‘所属関係’を成し、BはA範疇の中におけるある一つの要素として、各要素の中から選ばれて[AeuiB]の関係を構成した。Aのこのような働きは、助詞[eui]がAに‘選択機能’を与えたからだと言えよう。
[AeuiB]の構造形式Ⅱは、疑問詞がAの位置におかれ、焦点がAであると判断した。この場合、AとBの関係は、‘{AeuiB}⊂{B}’という種概念と類概念の‘概念像’の下でAがBに対して‘限定’していると判断できた。Aのこのような働きは、助詞[eui]がAに‘限定機能’を与えたからだと言えよう。
[AΦB]の構造形式は、疑問詞が全体或いはAにおかれ、全体が焦点或いはAが焦点になるタイプであった。
ここまでの分析から、[AeuiB]の構造形式と[AΦB]の構造形式は、助詞[eui]が果たす機能から、完全に異なる意味を表すことが明らかになった。
ところで、同じAの位置に焦点がおかれる[AeuiB]の構造形式と[AΦB]の構造形式においては、省略と見なすことができるか。これに関しては、統語的な立場から検討した。
まず、修飾語を[AΦB]と[AeuiB]の間にいれてテストを行った。その結果、[AeuiB]の場合は、文として成り立つが、[AΦB]の場合は、成り立たなくなる。次に、修飾語を[AΦB]と[AeuiB]の前におくテストを行った。この場合、[AΦB]と[AeuiB]は文としてはともに成り立つが、意味が変わっていった。
この特徴からは、[AΦB]の構造形式を[AeuiB]の構造形式の省略として見なすことができないことが明らかになり、助詞[eui]が現れるか現れないかは統語的にも異なる特徴を持つことが分かった。
つづいて、[AeuiB]の構造形式Ⅲの場合、助詞[eui]は、意味的に‘項目連結性’のないAとBを結び付けながら、AがBの内容を補充するようにさせる働きをする。つまり、助詞[eui]は‘意味的に遠く離れている’二つの概念を繋ぐ機能を果たす。本章では、「数詞+助数詞」が名詞を修飾する時、現れる[eui]と名詞と用言性名詞の間に現れる助詞[eui] に関して検討を行った。このタイプも疑問詞がAにおかれ、焦点はAの位置に現れるのが特徴であった。
以上の分析を通して助詞[eui]を次のように分類した。
助詞[eui]は、[AeuiB]の構造形式においてAに時には‘選択機能’を、時には‘限定機能’を与え、そして‘補充’機能も与えることが分かった。本論では、助詞 euiがAに‘選択機能’を与える場合を、「外的分類の所有関係を構成するeui」に;‘限定機能’を与える助詞 euiを、「内的な分類関係の所有関係を構成するeui」に;‘補充の機能’を与える助詞[eui]を「描写関係を構成する[eui]」とした。


上記の内容を図にまとめると次のとおりである。

意味関係構造形式焦点の位置「eui」の機能
外的分類関係AeuiBB選択
内的分類関係AeuiBA限定
一つの固まりAΦB(AB)/A 
描写関係AeuiBA補充

さらに、助詞[eui]が現れる構造形式と現れない「Φ」の構造形式の異なる点を更に明らかにするために、構文の機能的な側面から考察をした。
構文の機能を考察するには、「AとBの分離、そしてAを述語の後方移動」という方法を取り入れて見たが、[AeuiB]の構造形式Ⅰ、[AeuiB]の構造形式Ⅱ、[AeuiB]の構造形式Ⅲと[AΦB]の構造形式はそれぞれの特徴を考察した。その手順として、①平叙文の場合;②取立て助詞の附加の場合;③否定─疑問句を設定などの三つの側面から検討した。その結果、下記の現象が現れた。

 外的な分類関係におかれる所有関係(「AeuiB」)—>分離、述語後置可能
内的な分類関係におかれる所有関係(「AeuiB」)—>分離、述語後置不可能
‘一つの固まり’の形式(「AΦB」)—>分離、述語後置不可能
描写関係を表す(「AeuiB」)—>分離、述語後置不可能


この四つの形式が現れる特徴に従って、[AΦB]の構造形式は[AeuiB]の構造形式の省略ではなく、その意味・機能が異なる違う二つの構造形式だと更に明らかになった。

(大阪外国語大学大学院博士後期課程)

朝鮮近代科学史研究の現状と課題
任 正 ヒョク


朝鮮科学史研究は、1944年に出版された洪以燮『朝鮮科学史』に始まり、1960年代後半から本格化し現在まで多くの成果が得られた。そして、90年頃から植民地期と解放後から現在までを主題とした研究が多くなった。それは、朝鮮王朝時代までの研究はある程度蓄積されたので、末期(開化期)およびそれと繋がる植民地期、さらには現代へと問題意識が自然に移行したという事情を反映している。また、ある事実に対する歴史的評価は一定の時間経過を必要とするが、今まさに植民地から解放後の問題を取り扱える時期になったということである。さらに、この分野の研究において特徴的なことは若い世代の研究が多いということである。それは、植民地期に辛い生活体験をした人たちは感情的にこの時期の問題を敬遠しがちなのに対して、若い人たちは比較的冷静な目で見られるという事情と関係しているのだろう。本報告では、開化期および植民地期を朝鮮科学史の近代と捉えて、研究への視点を提示しながら研究の現状と今後の課題について述べた。
朝鮮近・現代科学技術史に対する概観は1977年に出版された高麗大学校民族文化研究所編『韓国現代文化史体系(Ⅲ)科学・技術史』によって初めてなされたが、その後最近の研究成果を反映した文献が金永植・金根培編『近・現代韓国社会の科学』(創作と批評社、1998)と朴星来・申東源・呉東勳編『わが科学100年』(玄岩社、2001)である(それぞれ、文献1、2と表記する)。ここでは、そこに収録された論稿と日本における研究を中心に取り挙げた。
約500年間、鎖国政策を取り続けていた朝鮮王朝も国際化の波に押され1876年に日本との「江華条約」を締結し、ついに開国した。政府は国力強化のために外国を通じて近代科学の摂取に努め、また資本主義的関係の発生・発展に伴い新しい政治勢力として登場した新興ブルジョアジーは自己の利害に合致する近代科学技術の導入を図った。朝鮮史における開化期は開国以降、日本の植民地となる1910年までの時期を指す。
開化期における科学史研究を精力的に行なったのは朴星来である。彼は、「大院君時代の科学技術」、「開化期の科学受容」(文献1)、「漢城旬報と漢城周報の近代科学認識」(文献1)などの一連の論文で、開国前後の為政者たち、進歩的知識人による西洋科学受容の努力と実態を明らかにした。朴星来の視点は日本帝国主義者による植民地支配がなかったとすれば、朝鮮の近代化は自力で充分に可能であったということであり、報告者も同様の見解を持っている。‘タラ、レバ’は歴史において禁物だといわれるが、歴史研究においては教訓を得るための方法論となるからである。
それを実証する研究が、申東源『韓国近代保健医療体制の形成(-1910)』(ソウル大博士論文)である。著者は人口の量的・質的管理が近代保健医療体制の核心という観点から、その形成過程を分析している。そして、西洋保健医療の模索、西洋保健医療の一部受容、全面的な西洋保健医療制度の採択、東西保健医療制度の折衷段階を経て、1905年までに近代保険医療制度が形式的には整えられたが、実践が伴わずその後、保健医療は日本帝国主義者の植民地統治の手段となった、という結論を導き出した。リ・ファソン「李朝末期の近代建築」(『朝鮮科学技術史研究』、皓星社)も、当時の社会歴史的背景を探ったうえで、近代科学技術の導入による都市の変貌、そして様々な近代建築とその特徴を論じている。報告者は、今後もこのような研究が増えて近代化の可能性がより確かなものとなると考えている。
ただし、ここに大きな問題が横たわっている。欧米列強が原料確保と市場拡大のために海外へと進出し、東アジアでもいち早く近代化を達成した日本が朝鮮を侵略したが、ではそのような状況で朝鮮が取るべき進路はどのようなものだったのか、ということである。この問題は、「近代化」を単純に西洋化・資本主義化とのみ捉えるのではなく、別の価値観に基づいた洞察が求められていた。この問題は近代化の意味を再検討し、科学技術のみならず当時の政治・経済的状況、ひいては西洋文明と対峙する東洋文明の内実までも分析されなければならないだろう。
次に、植民地期に関する研究であるが、科学技術はそれを実践する生産力と生産手段、それを行使する人材とその育成および大衆化のための教育制度の確立を必要とする。ゆえに、その大部分が日本人の手に委ねられていた植民地下の科学技術は、朝鮮自前のものとはいえないのは明らかであり、それを朝鮮科学技術史の立場でどのように記述するのかということが、まず問題となる。
この問題と関連して、まず「植民地近代化論」について言及した。「植民地近代化論」とは、一言でいえば日本の植民地支配が朝鮮の近代化において肯定的役割を果たした面もあるという主張である。科学技術関連では1930年代の朝鮮工業化が議論の的で、第一次史料の綿密な分析を特徴としており、単純に植民地支配を美化する発言とは一線を画している。それに対する反論によって熱い論争が繰り広げられたが、その反論がむしろ感情論的になりがちで議論はあまりかみ合わなかったきらいがある。
報告者はこの問題と関連して、常々、統計数字をはじめとする具体的な史料の活用による実証性は当然保障されなければならないが、そのような数字に人々の姿が埋没してしまっているのではないかという懸念をもっていた。そのことを痛切に考えさせられたのが、岡本達郎・松崎次夫編『聞書水俣民衆史(5) 植民地は天国だった』(草風館、1990)である。朝鮮窒素肥料興南工場の顛末に関する聞き書きをまとめたもので、20年の歳月をかけて数百人もの聞き取りの上に成立した本書は、証言の一つ一つは淡々としているにもかかわらず、全体として科学技術と人間との関係が圧倒的な迫力をもって語られている。このような史料をどのように活用するのかは、技術史全般の研究においても重要な課題と思われるが、それとともに報告者は、厳密な史料批判と史料の深い把握によって体験的〈実感〉を批判することは、当然、実証科学の原則的立場ではあるが、問題は、史料の分析によって「何を明らかにするのか」という目的意識を明確にしておくことがその前提になる、〈実感〉を批判的対象とするところから社会科学の客観性に接近できるとしても、〈実感〉を主体的な問題意識まで高めたうえで、客観的事実認識のあり方を問うべきである、両者の間に乖離があれば問題意識それ自体を問い直すと同時に、「客観的事実」と認定された事柄の〈客観性〉そのものの再検討が要求される、という「近代コリア経済史研究と史料の問題」(『朝鮮史の諸相』、雄山閣出版)における経済学者・滝沢秀樹の指摘を教訓的なものとして受け止めている。
このような角度での貴重な成果が金根培『日帝時期、朝鮮人科学技術人力の成長』(ソウル大博士論文、1996)である。ここで、金根倍は植民地期の科学史を朝鮮人科学者・技術者がどの程度、養成され、彼らがどのような役割を果たしたのかという問題を考察した。その調査は非常に詳細で、結果、日本帝国主義者が朝鮮人科学者・技術者の成長を抑制したということを暴露し、朝鮮人自身の努力によって植民地期の科学技術をどのように発展させようとしたのかという実像を明らかにした。さらに、彼らは解放後に重要な役割を果たすが、この論文はその動向を知るうえでの基礎的資料となる。また、1930年代の朝鮮工業化に関しては、姜雄『植民地朝鮮の工業化の検討』(東工大博士論文、1998)がある。これまで、この分野の研究は経済学者によるものが多かったので、科学技術史的な観点からの研究は貴重である。さらに、朝鮮、満州、台湾での日本帝国主義者の鉄道政策をテーマとした高成鳳『植民地鉄道政策と民衆生活』(法政大博士論文、1996)も、これとの関連で興味ある研究である。
次に、植民地期における独自的な展開として、1930年代の科学運動、漢医学復興運動、朝鮮学の展開などがある。科学運動とは、「発明学会」と「科学知識普及会」によって主導された歴史的運動のことで、理念的には朝鮮の実情に適した技術を発明しそれに基づいて小資本・小規模工業を発展させ産業の独立を達成しようというものである。実践的には、雑誌『科学朝鮮』の発行、朝鮮人の手による発明の振興、科学知識の大衆化に力が注がれた。植民地では科学技術によって独立運動を糾合した者も多いとの指摘があるが、この科学運動はその一例である。しかし、結果的には日本の戦時総動員体制に組み込まれ、やはり、植民地下の科学技術の限界を露呈する。その実状を明らかにすることは興味ある課題であるが、それに関する研究として林宗台「金容●の発明学会と科学運動」(文献1)、金性俊「発明学会と科学談論の形成」(文献2)、日本では慎蒼建「植民地を生きた科学者・技術者」(『現代思想』1996年5月号)などを挙げることができる。
同じ30年代、科学運動とともに注目されるのが「韓医学復興運動」である。統治者の植民地政策によって衰退への道を余儀なくされた伝統的な漢医学(東医学)を復興させようとする運動であるが、単なる伝統文化の保護といった次元ではなく、実際に西洋医学の恩恵を受けることのない一般民衆の救済を目指している。そして、そのような状況下で東西医学論争が繰り広げられるのであるが、その詳細な分析・検討が慎蒼建「覇道に抗する王道としての医学」(『思想』1999年11月号)である。その他、『科学朝鮮』、『東光』、『朝光』など当時の雑誌に掲載された、科学関連の記事を分析することによって、植民地期の科学技術界の様相をある程度把握することができるのではないだろうか。
次に、植民地期における科学史研究の重要な課題として人物史研究がある。科学史を人物史によって記述することは基本方法論の一つであるが、とくに植民地期被支配者側の科学者を取り上げることの意義は大きい。彼らこそ植民地支配の矛盾を抱え込みながらも独自的展開を担った者たちであったからである。文献2には、ビナロンの発明者・李升基、蝶類学者・石宙明、農学者・禹長春に関する論稿があるが、その他にも量子力学の研究および啓蒙活動を行なった都相禄や、貧農の家に生まれ育ちながら苦学して九州帝大を卒業し中国中山大学教授となる養蚕学者桂応祥をはじめ優れた学者たちがいる。前述の金根培の研究によって理工系学者に関しては基礎的な資料は得られているので、今後、各個人に肉薄する研究が必要となるだろう。とくに、金兌豪の「李升基と‘チュチェ繊維’ビナロン」(文献2)は、ビナロンの研究そのものだけでなく、それが解放後に共和国でどのような過程で工業化に成功し、それが植民地期の研究とどのような関連があるのかを考察した興味深いものである。
以上、植民地期に関する研究を垣間見たが、これらの研究を総合すると、この時代の全体像の輪郭がおぼろげながら見えてくる。その全体像をいかに構築するかが今後の主要課題といえるだろう。植民地下での科学技術というと何となく貧相なイメージを抱きがちであるが、実像はその負荷に反比例するような人間の創造的活動の多様性および可能性を感じさせる。近年、科学技術と社会(STS)に関する議論が盛んに行なわれているが、植民地期の科学技術はその重要性を認識するうえでの具体的事例であり、その歴史的検証となるだろう。

(朝鮮大学校理工学部)

 


産別転換─韓国労働運動の新しい展開
──金属労組の産別建設を中心に──
金 元 重 


今年の春から夏にかけての賃金・団体協約交では、金属労組、保健医療労組、金融労組などが産別中央交渉を求め、金属労組ははじめて中央交渉を実現し、労働条件の後退のない週5日勤務制導入など大きな成果を挙げて注目をあびた。
現在の韓国労働組合は圧倒的に企業別労働組合として組織されており、賃金・団体協約交渉も企業別交渉が主たる形態である。今日の韓国働組合運動は1987年労働者大闘争を分水嶺として発展してきた。これ以後成立した〈1987年労働政治体制〉は、男子・正規職労働者を核にした大企業の企業別労働組合が、企業別交渉をリードする体制であった。90年代の全労協から民主労総へと続いたナショナルセンター建設は、目標として産業別労組体制をめざしたものではあったが、旧労働法によって押し付けられた企業別体制の制度的枠組みを突破することは容易でなく、また安定雇用という前提条件がほぼ保障されていた企業別体制の枠組みの中では、団結による賃上げ等労働条件改善を勝ち取ることができたため、産別体制を目標としたにもかかわらず企業別体制は定着していった。
しかし1997年経済危機以後、韓国労働組合運動は、はじめて雇用危機=労働市場の柔軟化という急激な変化に直面するようになった。経済危機以後大々的に行われた整理解雇、人員圧縮、アウトソーシングなどの労働市場の柔軟化、賃金・団体協約交渉における守勢に追い込まれた労働働組合は、1987年労働者大闘争以後、企業別労組で闘いとった雇用安定と賃金をはじめとする10年間の労働条件改善の成果を瞬く間に失った。こうして1997年以後、企業別労組体制から差別体制への転換をめざして本格的な努カが重ねられてきた。
現在の産別建設・産別転換運動の背景には、第1に1997年経済危機以後の労働市場の柔軟化に対する企業別労組体制の限界が露呈し、もはや企業別体制では対応できないという認識が広まったこと、第2に1997年労働法改正により、産別化の法的・制度的可能性が保障されるようになったことがある。これは企業別労組を強制していた枠組みの解体を意味すると同時に、企業別複数労組の許容や組合専従者の給与支給禁止規定のように従来の企業別労組の存亡の危機をも意味し、産別建設による組合規模の拡大を通じた財政と人力の集中化を必要とさせた。
産別化の現況-1997年以後、保健医療労組を皮切りに産別転換が続いている。現在、韓国労総は3,940組合、877,828人の組合員のうち金融、タクシー、韓教組の3組合、136,989人(全組合員数対比15.6%)、民主労総は899組合、593,881人の組合員のうち全教組、金属労組、保健医療労組、など25労組、254,869人(全組合員数対比42.9%)か産別労組の組合員である。しかし、韓国労総傘下の核心産業である化学と、民主労組傘下の金属(とくに自動車、造船など大企業)の産別転換がなされていないという点で限界を示している。また、産別労組に転換を遂げた労働組合も、そもそもの目標である産別交渉を実現するには至っていない。大部分は個別交渉や対角線交渉の段階である。
労組が産別転換しても産別交渉を実現できない要因としては、使用者団体の不在と使用者の反対もあるが、労働組合の戦略と戦術、代表制と組織力などで交渉構造を集中化するための条件を作り上げていないという点が大きいといわれる。
産別化の成果-まず、組織の拡大・強化があげられる。
全教組は全国単一産別組織の枠組みがあってから10年間、法外労組として政府の過酷な弾圧に耐えることができた。保健医療労組は3年間で約4,000人が新規加入し、2000年闘争で約3,500人の非正規職労働者を正規職に転換させた。金属労組はスタート時約3万人であったがその後、35,514人に拡大し、労組活動の紀綱を確立した。金融労組は結成以来初めてのゼネスト闘争を展開、その過程で組合員教育と討論、スト基金100億ウォン募金を実現した。
さらに、金融労組、保健医療労組、全教組などは、産別組熾として強カな闘争を展開しながら、産別協約の獲得、産別連帯活動の進展で大きな成果を挙げている。
金属産別組織建設の経緯-1998年1月に民主金属連盟、白動者連盟、現代グループ総連合が統合して金属産業連盟を結成したが、同連盟は金属産別組織建設が統合組織の課題であるとして「産別企画チーム」を構成し、金属産別労組建設試案を作成・提出した。1999年代議員大会で2000年10月までに金属産別労組建設を組織方針として確定。2000年1月産別準備委員会構成、10月全組織が参加する産別労組建設を基本目標として共同闘争、共同事業、組織形態変更事業、組合員教育などを通じて粘り強く準備した。2000年8月の臨時代議員大会で組織内組織体系、建設時期、建設方式などの意見相違によって最初の10月建設予定を2001年2月に延期し、大企業労組の現実的な役割を考慮して地域支部と企業支部を置くことで最終確定した。
2001年2月8日創立大会-金属産業連盟210労組、17万組合員のうち、まず114組合、3万余人が産別労組を建設した。13地域支部(ソウル・仁川、富川、釜山など)と1企業支部(万都機械支部)でスタートした。しかし大企業労組では万都機械4,200人、韓国重工業4,800人(一斗山重工業)だけが参加し、現代自動車労組38,000人、起亜自動車労組21,700人、大宇自動車労組17,OOO人、双竜自動車労組4,200人、現代重工業労組2万人、大宇造船労組8,700人、オリオン電気労組3,900人、大宇重工業労組4,500人などは不参加だった。
現代自動車労組の産別化間題への対応-2003年6月、金属産業連盟の13労組、57,338人が産別転換同時投票をおこなった。産別転換を可決した事業場としては大宇総合機械、大宇精密、ケピコ、大宇商用車、ダイモス、東洋物産、BM金属。一方、産別転換を否決した事業場は、現代自動車をはじめ、大宇造船、ロッテム昌原、ロッテム儀旺など大企業労組であった。組合員39,000人の韓国最大の企業別組合である現代自動車労組は賛成が62%であったが、3分の2に達せず未転換に終わった。
現代自動車労組が産別転換を否決した背景には、同労組内の「現場組織」の産別化をめぐる競争・利害対立が絡んでいた。各現場組織は原則的には産別転換に賛成しながら実際の投票では消極的対応に終始し、労組執行部だけの取り組みとなった。また、非正規職労働者が7月に独白に労組を結成するなど非正規職組織化の動きも投票行動に影響したと思われる。しかし、それにもかかわらず62%の賛成票があったことは今後の産別転換の可能性を担保するものだとの評価もある。
現代自動車労組2003年賃団闘の成果-現代自動車労組は三大要求案①週5日勤務制、②非正規職の処遇改善、③資本の海外移転に関する特別協約(労組の「経営参与」)を掲げて交渉に臨んだ(賃金要求は基本給対比11.01%引き上げ)。
合意内容-△週5日勤務制-労組が生産性向上に努カするという条件で9月1目から実施、△経営参与事項-国内外の景気変動による販売不振およぴ海外工場の建設と運営を理由に、労使共同委員会の決定なくして一方的な整理解雇と希望対象を実施できない-親概械、新技術の導入、新車開発時には90日前に組合に通報する-国内工場の生産量は2003年水準を維持する、研究施設も現状維持-需要不足や販売不振などを理由に国内生産工場を、労使共同委員会の審議、議決なしに縮小、廃止できない-正規人カは58歳まで定年を保障する、△賃金引上げ-基本給98,OOOウォン(8.6%)引き上げ-成果給200%支給-労使紛糾妥結時の生産性奨励金として基本給の100%プラス100万ウォン(事実上のスト期間中の賃金補填)、△非正規職の処遇改善-別途合意書で賃金73,000ウォン引き上げ、成果給200%およぴ生産奨励金100%支給、勤続手当新設など。
このように現代自動車労組は、産別転換問題ではいったん転換を拒否したが、企業別労組として、当面の闘争力量を労働条件の改善とりわけ雇用保障と、それと関連する「経営参与」の確保に集中し少なからぬ成果をあげている。

 今日、世界の労働組合運動の趨勢は、団体交渉システムの脱集権化-分権化の流れにある。賃金決定システムにおいて伝統的に産別交渉体制をとってきたヨーロッパの国々においても企業別交渉体制へ移行するようになった背景には、市場競争圧力を受けやすい企業別交渉体制のほうが、労働組合が賃上げを自制することによってマクロ・パフォーマンスが良好になるという見方があった。その点からすると、今日の韓国労働組合運動の産別化の流れは、世界的動向に逆行しているように見える。たしかに世界の労働組合運動において企業別組合体制の国が産別体制へ移行するという歴史はかつてなかったことである。だが、以上見たように、韓国の労働組合は雇用を守り、労働条件の維持向上を期すという労働組合運動の原点に立ち、かつ同一労働・同一賃金の原則を掲げて闘っている。この運動の課題と展開方向には注目すべきである。
しかし現時点では、韓国における産別建設運動の展開は、決して順調とはいえない。むしろ、現実的には、韓国労働組合運動の戦略的方向は、金属労組に代表される産別転換を通じた正規職・非正規職の分裂を止揚する方向と、現代自動車労組に代表される、戦闘的大企業労組の組織力・団結力をフルに生かした労働条件の改善および経営参加の拡大という方向が拮抗しながら展開していると見るべきであろう。それは1987年労働政治体制と1997年経済危機を契機とする産別転換運動の歴史的相克の過程として韓国労働組合運動の歴史的課題に応える闘いといえる。

(千葉商科大学)

通貨危機以後の韓国における労働市場の変化
金 裕 善 

 

1.はじめに
1993年2月出帆した金泳三政府は、国政指標として‘世界化’を提示し、第1の労働政策課題として‘労働市場柔軟化’を推進した。通貨危機直後である1998年2月出帆した金大中政府は‘一生涯職場から一生涯雇用へ’をスローガンとし、企業の構造調整と労働市場柔軟化を強く推進した。その結果、韓国の労働市場は非正規職が全体労働者の半数を超え、労働市場の数量的柔軟性(雇用不安)や不平等が極端になっている。2003年2月に出帆した盧武鉉政府の下でも、このような労働市場の政策基調は大きく変わらないまま、‘韓国の労働市場は非常に硬直的である。より多くの労働市場の柔軟化が必要だ’という主張が相変わらず支配的な談論となっている。よって、本稿では通貨危機以後、韓国の労働市場の変化を‘韓国の労働市場は、果たして硬直的なのか’、‘非正規職の増加は、経済環境の変化による不可避な現象なのか’、‘速いスピードで増加する賃金所得の不平等’の順に考察していく。

2.労働市場の柔軟性-韓国の労働市場は、果たして硬直的なのか

 この10年間、韓国政府は‘労働市場が非常に硬直的である’という前提の下、労働政策の第1の課題として‘労働市場の柔軟化’を推進してきた。しかし、これを裏づけするほどの実証的な分析結果は提示されていない。OECD(1999)の‘雇用保護法制の硬直性指標’による‘26ヵ国の中、韓国17位’が事実上唯一の根拠と言える。しかし、OECDの‘雇用保護法制の硬直性指標’は解雇関連法制を尺度化して比較したもので、経済学的な意味での労働市場の柔軟性を推定したものとは言えない。法律と現実の間にはギャップが存在するものであり、韓国では勤労基準法が事実上の最高(または標準)基準として作用するが、ヨーロッパでは団体協約によって労働市場を規律しているため、解雇関連法制を単純比較するのは不適切である。
2003年2月、アメリカのForbes誌は‘韓国の労働市場の柔軟性はOECD20ヵ国の国家の中でアメリカ、カナダに続いて3位’と報道した。このようなForbes誌の報道は、‘韓国の労働市場が硬直的である’という支配的な談論を覆す分析結果であるが、これもまた‘1年以上の長期失業者の比重、団体協約の適用率、解雇の容易性、法定休暇日数’の4つの指標を尺度化して比較したもので、経済学的な意味での労働市場の柔軟性を推定したものとは言い難い。
経済学的な意味での労働市場の柔軟性は‘経済が変動する際、労働市場が如何に柔軟に(弾力的に、速い速度で)適応していくのか’を指す。誤差修正模型(Vector^Error^Correction^Model)を使用し、労働市場、雇用、賃金のそれぞれの長期的な弾力性、(1ヵ月以内の)短期弾力性、調整速度を推定した結果、9個の指標の中で雇用の短期弾力性の場合のみ、アメリカが高く、8個の指標では韓国が高い。韓国の労働市場は世界第1の労働市場の柔軟性を誇るアメリカより遥かに柔軟なのである(金裕善、2003a)。
韓国の労働市場が柔軟だという実証分析の結果が相次いで提示されると、最近には‘非正規職まで含めた韓国の労働市場が柔軟であると言えるが、正規職の労働市場は非常に硬直的である’という変形された柔軟化論が展開されている。しかし、韓国では非正規職のみならず、正規職の労働市場も非常に柔軟である。[表1]は韓国とアメリカの雇用、労働時間、賃金の変動性を推定した結果である。一、通貨危機以前の金泳三政府の時も韓国(0.013)はアメリカ(0.009)より雇用変動性が高かった。通貨危機以後の金大中政府の時、韓国(0.023)が2倍ほど増加したのに対し、アメリカ(0.006)は減少したことにより、韓国の雇用変動性はアメリカより4倍くらい高い。二、通貨危機以後、正規職と非正規職のいずれも雇用変動性が増加している(正規職は0.015から0.021、非正規職は0.021から0.036)。よって、韓国の正規職の労働市場もアメリカの労働市場より雇用変動性が遥かに高い。三、労働市場と実質賃金変動性も韓国がアメリカより遥かに高い(金裕善、2003c)。


〔表-1〕韓国と米国の雇用変動性比較 (省略)

 

3.非正規職の増加-経済環境の変化による不可避な現象なのか

 1960年代の経済開発の初期段階においては、労働者10人のうち、6人だけが非正規職であった。1960~1970年代には非正規職の比重が続いて減少し、1980年代の初期には労働者4人のうち1人が非正規職となった。しかし、1982年、第2四半期を低点とし、急激な増加の勢いを見せ、1986年には50%台に迫り、1987年の労働者大闘争の後は減少したが、金泳三政府で労働市場柔軟化政策が推進され、再び増加の一途に転じ、外国為替危機を経験したあとの1999年3月以後、全体労働者の半数を超えている(図1参照)。

 

[図1]分期別臨時日雇い職の比重の推移 (省略)


このように、臨時の日雇い職など、非正規職が1980年代の初・中期や1990年代中期以後、2回にわたって急速度で増加したのにも関わらず、その間、非正規職の問題は社会的な関心事にはなっていなかった。統計庁の経済活動人口調査から、臨時日雇い職の比重が全体労働者の半数を超えた1999年3月になってはじめて社会的な注目を集めるようになり、2002年12月大統領選挙の際には、‘非正規職の濫用規制と差別禁止’が労働部門の最大公約として提起されるに至った。
非正規職の問題が社会的な関心事として急浮上すると、韓国における研究は一次的に非正規職の規模や実態を分析することに焦点をおいてきた。非正規職の規模に関しては、未だに様々な理論がまとめられていないが、非正規職の実態に関しては‘非正規職の賃金は正規職の半分、非正規職10人のうち7人が低賃金階層、社会保険加入率20%台、退職金・ボーナス・時間外手当の適用率10%台’など、大多数の研究が同様な分析結果を提示している(金裕善2003e)。これにより、‘非正規職の差別を禁止し、適正な労働条件を保障すべきだ’という主張に対しては、社会的な共感が形成されているなど、ある程度の成果を得ている。
しかし、未だに非正規職が増加した原因や非正規職の増加が社会経済に及ぼす影響力についての研究は進んでいない。特に、‘通貨危機直後、非正規職が急増’した事実のみが認識され、‘非正規職の増加は経済環境の変化による不可避な現象である。市場で発生した問題なので、市場に任せるべきだ。政府が介入すると予期せぬ副作用を招かざるを得ない’などの経済決定論や市場万能論が影響力を発揮しており、それだけ問題解決を遅らせている。
[表2]は非正規職の増加原因に関連している複数の仮説を検証した結果である。横断面分析では、検証可能な3つの仮説の中、人事管理戦略変化の仮説のみが支持される。また、時系列分析では検証可能な5つの仮説の中、労使間の力関係変化の仮説のみが支持され、金大中政権の際に自己相関(雇用慣行)が有意味なので、人事管理戦略変化の仮説も支持される。これは、非正規職の増加が‘経済環境の変化による不可避な現象’ではなく、政府の労働市場の柔軟化政策、企業の人事管理戦略変化、労組の組織率下落など、行為主体の要因に起因しており、‘労組責任論’ないしは‘正規職過保護論’は事実と異なることを物語っている。

 

4.賃金所得不平等の増加
経済活動人口の調査の付加調査から、上位10%と下位10%の間の賃金格差(90/10)を計算すると、2000年4.9倍から2003年5.6倍へと増加しており、OECD国家の中、賃金所得の不平等が一番ひどいと知られているアメリカ(4.3倍)を大きく上回っている。男女、雇用形態など、各々の集団別に分けて分析しても、2002年の3.6~5.1倍から2003年は3.9~5.4倍へと増加している。これは、それぞれの集団の内部においても賃金所得の不平等が激しく、かつ速い速度で増加していることを物語っている。これにより、韓国は男女を区分して比較してみてもOECD国家の中で賃金所得の不平等が一番激しい(金裕善2003e)。

 

[表2] 6個 仮説 検証 結果 (省略)

 

このように、賃金所得の不平等が深化するにつれ、低賃金の階層が増加し、労働者階級の内部も両極化が進んでいる。OECDは‘常用職フルタイムの中位賃金の2/3以下’を低賃金階層と定義し、EUのLoWERは‘労働者中位賃金の2/3未満’を低賃金階層、‘労働者中位賃金の3/2以上’を高賃金階層として定義している。[表3]から、OECDやLoWERの基準のいずれも低賃金階層が速い速度で増加しており、労働者階級の内部においても両極化が進んでいる事実が確認できる。労働者階級の内部における統一、団結や連帯の基盤が崩れているのである。


[図2]男女別 賃金所得不平等度国際比較 (省略)

 

[表3]年度別低賃金階層推移 (省略)

 

5.おわりに
2003年2月に出帆した盧武鉉政府は12大国政課題の一つとして、‘社会統合的な労使関係の構築’を労働政策の基調として提示している。盧武鉉政府の労働政策は、労使関係においては、(1)国際基準に符合する労使関係の構築(2)中層的構造の社会的なパートナーシップ形成(3)自律や責任の労使自治主義の確立を提示している点から、過去の政府よりも一歩前に進んだと評価できる。しかし、労働市場の数量的な柔軟性と不平等が極端に走っているにもかかわらず、‘労働市場の不平等解消、適切な仕事(decent work)提供、勤労貧民(working poor)解消’などを目標とする‘社会統合的な労働市場の政策’は見当たらないという点から、労働市場の政策は根本的に限界がある。
しかし、労働市場と労使関係が相互密接な関係を結んでおり、また互いに影響を及ぼしあっている。それを考える際、‘労働市場の不平等解消’などを目標とする‘社会統合的な労働市場の構築’を同時に推進しなければ、‘社会統合的な労使関係の構築’は期待しがたい。これは、今年10月、金属労組ハンジン重工業の金チュウイク支会長の自殺に続いて、勤労福祉公団の非正規職労組の李ヨンソク光州全南本部長が‘非正規職差別の撤廃’を要求して焼身自殺したことからも、端的に表れている。
(韓国労働社会研究所副所長)

 

 

グローバリゼーションと韓国的経営
柳町 功 


1.はじめに
本報告におけるグローバリゼーションの意味としては、韓国経済の基本的な枠組みがかつての閉鎖体制から思い切った開放体制へと変化したこと、特にIMF危機以降本格化した国内資本市場の積極的開放に求められる。その結果、市中銀行の場合が典型的なように、大株主の立場から外国資本は確実に韓国企業に対する影響カを高めている。敵対的M&Aの「主役」としてもまた、外国資本の動向には重大な関心が向けられている。一方国内企業に対しては出資総額制限規制や銀行株所有限度規制など、さまざまな規制があり外資優遇と内資冷遇状態にあると言える。こうした逆差別とも言える状況は、財閥経営に対しても重要な影響を及ぽしている。では、外国資本の影響力拡大は財閥経営に対し、具体的にどのような変化をもたらしているのであろうか。特に本報告では、外国資本からの経営権防衛のためオーナーによる直接所有分が急増している点に注目していきたい。

2.外国資本の離京力深化
外国人持分率の上位企業としては、たとえば国民銀行(72.72%)、ポスコ(65.02%)、三星電子(58.57%)などが有名である(2003年11月現在)。これら企業は経営実績が高いことでも知られており、負債比率が低く売上高営業利益が高いといった傾向を持ち、証券去来所の調査では全体494杜中、40%以上の外国人持分率企業30杜(全体の6.1%)は、純利益総額の55.5%を占めている。
主要グループ別での時価総額比重を見ると、資産総額基準上位10大グループの時価総額中、三星(上場14杜)が全体の28-6%、LG(同15杜)が7.3%、SK(同11杜)が6.3%を占める。また三星の場合、外国人保有分の時価総額はグループ時価総額全体の53.3%、LGは同27.0%、SKは同41.5%を占めるなど、外国人の貢献は極めて大きくなっている。
上場企業における株式分布の推移を見てみると、所有株式基準では10.4%(1998年)から11.5%(2002年)との変化であるが、時価総額基準では18.0%(1998年)から36.0%(2002年)へと急増している。

3.財閥経営への影響
では具体的な財閥はどのような行動に出ているのであろうか。三星電子の場合、上にあげた調査によると外国人持分率58.57%に対し、最大株主はグルグループ総帥でオーナーの李健煕会長が14.33%となっている。2003年8月末時点で、同会長のそれは1.61%であったことを考えると、この間の急激な変化の示す意味は極めて大きい。
報道によれば、2003年8月末に三星グループの李鶴洙・構造調整本部長が姜哲圭・公正去来委員長と会談した際、金融機関の議決権制限撤廃を強く要請している。財閥政策の推進主体でもある公正去来委員会としては、①財閥が保有する金融系列杜が所有する株式持分に対応した議決権行使を制限する、②金融系列杜が他の系列企業株式を保有する際に制限を加える、との基本政策を打ち出してきた。三星の場合、三星電子に対し、三星生命が5.98%所有するが、これが制限されると総帥保有分(1.61%)を加えて三星が影響力行使できる比重19.37%だけでは経営権が危機に陥る、との主張であった。
この2つの点は外国資本にはすでに全面許容されている点からも、財閥側は一層危機感を強めたわけであるが、結局、その後①に関しては「経営権保護のためであれば可」との判断が下されている。しかし②については「支配カ拡大につながる危険がある」との認識から公正去来委員会はNoの意思を表明している。

4.公正去来委員会の認識
従来の官僚出身の委員長とは異なり、現在の公正去来委員会委員長は学者出身で、市氏団体にも参加し、財閥規制や解体論を表明してきた。現政権の対財閥政策の理念は、「財閥に外国資本と同じような規制解除してしまうと、再び支配カ拡大、不当内部去来拡大など弊害が深刻化してしまう。したがって規制は必要」というものであり、財閥政策は「先進国に住む過渡期に現れる構造的な問題のため、わが国にのみ特殊に存在するもの」との認識がなされている。
その一方、「現在の財閥体制は変えねばならなく、欧米式の個別企業の連合体が望ましい。
しかしいきなりの変化は無理なので、代案として持株会杜体制がよい。持株会杜体制では系列企業間の相互出資や循環出資がなくなり、所有関係が透明になる」として、公正去来委員会は持株会杜体制への誘導を強めている。

5.コーポレート・ガバナンス(企業統治)改革
金大中政権下の財閥政策は「5+3原則」を軸に、政治の論理が先行する形で、強制的に推
進されてきた。その結果は「枠組み作り」が急速に進んだものの、中身の変化にまで深く影響したとまで言い切れない。
内部ガバナンスとしては杜外理事(取締役)制度の導入が代表的である。責任経営、透明経営を目標に杜外理事の導入が進んだ。主要グループ別の杜外理事比重は、三星46人(全理事の42.6%)、現代自動車21人(同47.7%)、SK29人(同34.5%)、LG46人(同44.2%)などとなっている(2003年4月)。しかしこうした杜外理事についても、供給する市場がまだ形成途上であり、十分な能カ検証を受けた人材を供給する体制には至っていないのが実情である。また創業家オーナー一族が大株主であると同時に最高意思決定権者としての地位にある-いわゆるオーナー経営体制-現在では、杜外理事といえどもそうした人間を効果的に監視するという次元のガバナンス機能を要求するのは無理であると言わざるを得ない。

6.財閥を取り巻く現実
政府主導の急進的な構造改革が進んだ銀行部門の場合、従来からの完治金融が打破され、それまでの銀行経営の歴史が断絶されるなかで効果的なガバナンス構築が現実化している。第一銀行(A.ホリエ)、国民銀行(金正泰)、韓美銀行(河永求)といった銀行長(頭取)たちは、
政府に対してもNoと言えるCEOとして、政府との摩擦も省みず積極的な銀行経営に乗り出している。
では財閥はどうであろうか。
「家族・同族による封鎖的所有・支配」と「高度に多角化した事業経営体」を構造とする財閥(Chaebo1)において、特に韓国の場合、歴史的に所有と経営の分離が遅れ、オーナー経営体制が構築されてきた。IMF危機以降であっても、基本的な構造は変わっていない。一部の財閥は経営破綻し没落・消滅していったが、本質的な原因は放漫経営などにあり、オーナー経営体制そのものにあったわけではない。むしろオーナーが強カなリーダーシップを発揮して積極果敢な構造調整を断行できた点で、危機的な状況下でのオーナー経営体制のプラスの点こそが認められる。
現在では、上述した外国資本の影響力の高まりから経営権の防衛を図る意味で、多くの総帥たちが個人の直接持分を高め経営権強化を志向している。先の三星以外にも、現代自動車(鄭夢九)、ハンファ(金昇淵)、コーロン(李雄烈)などの事例がそれを如実に示している。
これらは経営実績も良好な財閥であり、杜外理事、成果主義経営、株主重視経営など米国的なガバナンス構造の仕組みづくりに積極的であると同時に、基本路線としての家族・同族経営の維持・強化を推進している。現在の財閥には
こうした両面性が存在している。
またロッテグループにみられるような系列企業の上場拒否傾向、あるいは現代グループに見られる経営権紛争など、旧態依然とした側面が色濃く残っているのも現実の韓国財閥の姿である。

7.むすび
韓国財閥にとって、内外の厳しい経営環境の中で生存を図ることは至上課題である。厳しい国際競争に生き残っていくためにも、従来のオーナー経営体制を強みとして生かせる経営体制を構築していく必要がある。それが以前から批判されてきたオーナーの専横につながるのであれば、その財閥は没落の道を歩むかもしれない。財閥の論理を維持しつつ、いかに内部および外部ガバナンスと調整を図っていくのか、真剣に考えなくてはならない。本質的に経営のあり方は、あくまで当該企業にとって「合理的」であるか否かによっている。その際、政府当局の政策理念や労働問題、さらに市民団体の存在は大きな影響要因となる。しかしある意味ではそれ以上に、外国資本の存在が重要になってくると考えられる。

(慶應義塾大学)


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 国際高麗学会日本支部 特別講演会 

講演者 アレクサンダー・ボロンツォフ氏
(ロシア科学アカデミー東アジア研究所)

テーマ Russian Policy toward the Korean Peninsula

日 時 2003年12月22日(月) 18:00~20:00

場 所 OICセンター4F会議室


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〔西日本地域研究会報告要旨〕

第55回 2003年7月12日(土) 15:30~17:30 OICセンター 会議室


中国朝鮮族の雇用問題と人口移動
―延辺朝鮮族自治州を中心に―
鄭 明子 

 

中国の改革・開放が実施されてから20年余りが経ったが、その間、中国東北地方の吉林省に属する延辺朝鮮族自治州においても、様々な間題が生じつつある。国有企業の改革過程で職場を離れた「下闇」「離闇」従業員の問題があり、この過程で州政府所在地の延吉市への人口の一極集中と、延辺経済の第三次産業への不自然な集中が起きている。さらに州外に眼を転ずると、出稼ぎを目的とする国内巨大都市への人口流出や、海外への「労務輸出」が深刻な問題として登場している。しかも、これらの問題は中国の多数民族よりも、少数民族である朝鮮族に極端な形で出現しているのが、現実である。この現実と1980年代以来の改革・開放政策、とりわけ1990年代以後強カに推進される杜会主義市場経済政策がどの様に結びついているのかを考察するのが、本論文の課題である。

分析の視角としては、中国の経済体制全体が杜会主義市場経済の路線のもとに大規模な国有企業改革が進められ、その過程で従業員(「職工」)数の総数が大きく減少することによる「雇用問題」の発生が、延辺地域ではどの様にあらわれているかを、統計資料の綿密な検討によって明らかにする。
まず、中国経済全体のなかで、延辺経済の占めている現状を明らかにする。中国経済の改革・開放路線への転換以来、今日に至る迄の国内総生産(GDP)の趨勢を振り返ると、延辺朝鮮族自治州が属する吉林省は中国全体とほぼ併行して成長しているが、延辺自治州のそれは吉林省のなかでは立ち後れた位置にあり、その差は近年一層拡大している。ところが、州都の延吉市だけについて見ると、延辺全体の動向とは著しく乖離した、高い成長率を見せている。言わば、州都延吉市に延辺経済が集中し、辺境地域の小都市への経済の一極集中が進んでいるのである。また、産業構造においても、第三次産業、とりわけサービス産業の肥大化が進んでいる。
問題は延吉市のこの様な高い成長率は、周辺地域から人口や経済活動が延吉市に流入することによって実現した、周辺を取り残した表面的なものであることである。さらに近年では延吉市から国内大都市や海外への人口流出が顕著になっていることを勘案すれば、表面的な成長を続ける延吉市を含めて、延辺経済には明るい展望が持てないし、近い将来、限界に直面するであろうと考えざるを得ない。
雇用問題について言えば、国や地域ごとにそのあり方や変化は様々である。資本主義経済の場合、経済成長は雇用を拡大させ、景気変動による失業者の発生を繰り返しながらも、趨勢としては、工業化と雇用拡大はパラレルの関係にあったと言える。ところが中国の場合、改革・開放以前は「雇用間題」などは原理的に存在し得なかったのが、「計画経済」から「市場経済」へ転換する過程で、「雇用間題」も発生した。とりわけ1990年代後半以降、「国有企業改革」が本格的に進められる過程で、国有企業の雇用が急速かつ大幅に縮少される一方、民営企業での雇用拡大が遥かにそれに及ばなかったところに、今日の深刻な「雇用問題」が発生したと考えられる。
延辺朝鮮族自治州の場合、雇用問題は各民族に平均的に表われておらず、漢族に比べて朝鮮族に一層厳しい形で表われているのが事実である。自治州における民族別「職工」(企業従業員)数の変化を見れば、改革・開放以来、「職工」数が増大した1980年代と、一転して「職工」数が激減する1990年代の全期間を通して、「職工」の絶対数において漢族が朝鮮族を上回っており、しかも両者の格差が一層増大しつつある。
自治州内部での農村から都市へ、さらに州外への人口移動においても、漢族より朝鮮族が速いスピードで進んでいる。近年、延辺朝鮮族自治州では朝鮮族人口が絶対的な減少に転じているのである。自治州内においても朝鮮族人口が州都延吉市に集中する傾向は漢族より極端な形をとっているだけでなく、大都市や海外への人口流出では両者の差は一層甚だしい。現在、国内大都市や韓国・日本などに居住する朝鮮族は、計25万人に達するとも言われる。
延辺朝鮮族のこの様な深刻な雇用問題と人口流出をもたらした要因としては、次の様なことが考えられる。①少数民族の自治州とはいえ、とくに雇用の面で少数民族政策が不充分なこと。②もともと知的労働を重視し、肉体労働を軽視する朝鮮民族の伝統が、所属企業からの離脱が自由になった改革・開放時代に、個人企業の経営者への転進や地域外への流出志向を強めたこと。③「労務輸出」による外貨収入の魅力。

以上のように、改革・開放が進むなかで、延辺朝鮮族自治州には深刻な問題が発生している。とはいえ、強い経済的要因によって進む過程にブレーキをかけることは容易ではない。朝鮮族杜会が全体として成熟した市民杜会に向かおうとすれば、外部からの文化的刺激がプラスの効果を発揮する可能性もあるであろう。必要なのは、実際に進行してきた過程の弊害だけを重視するのではなくて、それを朝鮮族杜会のよりよい未来のための基礎にしていくための努力と、根本的な発想の転換であろう。「労務輸出」の次元を超えた国際交流と協力によって、いくつもの国境をまたぐ「新しい朝鮮族杜会」の形成を目指して、私なりの努カをしたい。

(大阪商業大学大学院博士後期課程)

中国における国有企業の改革
~遼寧省国有企業の株式会社化を中心として~
李 南 芳 


1.はじめに

1.1978年12月、中国共産党第11期3中全会で国内経済改革・対外経済開放の路線を決めた。
2.1992年の鄧小平の「南巡談話」は、改革の加速・全方位の開放を主張した。
3.1993年11月、中国共産党第14期3中全会で「国営企業」を「国有企業」に転換し、そして「現代企業制度の確立が、国有企業改革の 方向である」と明確に提起した。
4.1993年11月、中国共産党第14期3中全会で、江沢民は「国有企業の改革は中国経済体制改革の重点であると同時に難点である。」 と指摘した。


2.遼寧省の国有企業の状況

1.遼寧省は工業基地として、重要な位置づけを与えられてきたが、今日は時代のテンポに追いつかず、落伍しつつある。90年代に入る  と、6年連続して全国平均を下回り、現在工業企業全体の労働生産性は全国の第20位に下がり、1人あたり僅か17,657元である。
2.朱鎔基総理は1998年11月、遼寧省を視察した時、「大中型国有企業を3年で苦境から脱却させる。その重点・自信・希望が遼寧省に ある。遼寧省が3年で苦境から脱却できれば、全国も脱却できる」と指摘した。
3.遼寧省の国有企業における問題点は中国国有企業における問題点の縮図である。


3.遼寧省の上場企業の特徴

1.企業発展戦略を調整し、産業の多元化を実現した。(「遼寧成大株式有限会社」)
2.伝統的経営方式を改善し、産業現代化水準を高めた。(「大商株式有限会社」)
3.資産調達を促進し、会社の経営業績の改善を促進した。(「瀋陽銀基発展株式有限会社(元遼寧省物資局)」)
4.国有株の削減を実施し、法人管理構成を改善する。(「鞍山合成株式有限会社」)
5.改革と管理を強化して、産業の率先作用を充分に発揮する。(「瀋陽一汽金杯株有限会社」)

4.瀋陽送風機株式会社の株式化を例に

 遼寧省の国有企業改革の一例として、未だ非上場企業ではあるが株式化を通して制度を刷新し、好調な成績を収めている瀋陽送風  機株式有限会社について、経営の担当者に直接インタビューして、現状を知ることができた。


【企業の概況】
瀋陽送風機会社は1934年に設立された。
1952年の国民経済回復期には第一次改造を行い、中国で初めての送風機専門製造工場として再スタートし、1959年には中国独自で設計した第一台目の遠心コンプレッサーを開発、製造した。
70年代中期、瀋陽送風機会社は国の重点企業となった。
1985年からは、中国科学院等の研究所と合作し、外国の有名な会社と共同生産を行い、製品の設計と製造の技術において常に世界的先進レベルを追跡した。
1990年には、国家科学技術委員会にCIMSシステムの典型的な模範作業場として許可された。
この時から瀋陽送風機会社は、生産管理と経営方策を決めること、製品の工事設計、工場自動化の3つの応用システム間情報を集めた。会社は企業の管理水準、技術水準、製品の質が一層進んだ。
今、瀋陽送風機会社の固定資産は5.8億元であり、年間販売額は5億元である。従業員は2,800人で、うち管理人員が380人、技術者が600人、教授と高級技術者が15人いる。

【株式会社化の過程】
1999年4月、瀋陽送風機会社が現代企業制度を建てて、同社を中心にして瀋陽送風機株式有限会社を創った。
瀋陽送風機会社が70%の株を占める。
指導者を中心に現代企業制度の指導者グループを形成し、専門的人員を選んで制度改革事務室を構成し、制度改革の具体的な仕事に責任を負うこととした。
瀋陽送風機会社の現代企業制度の試点方案と12項の子方案を樹立した。
「瀋陽送風機株式有限会社」の設立の目的:
「三改一加強」を通じて、資源の配置を調整し、「構造の転換」を促進し、企業の活力を高めるというのである。
1.制度の改革
1.財産組織の形成と会社名称について、企業の実際の状況により選択した財産組織形式は株式有限会社である。
2.投資主体、資本金の構成について、会社の資本は、国有法人株、社会法人株及び会社内部従業員株で構成し、多元化に合う投資 主体を実現した。

資本金(株)の構成

総資本金(株)国家株社会法人株内部 従業員株
15,000万元10,420万元1,210万元3,370万元
100%69.5%8%22.5%

 瀋陽送風機株式有限会社から提供された
内部資料により作成。


3.科学的規範を持った法人管理構成を樹立する。
4.資産権関係を整理して、組織メカニズムを再び組み合わせる。
2.組織の改革
1.資本の増加分で現在の資本資産を活性化させ、資本構造をより優れたものにする。
2.多角的経営を実行して、新しい経済成長点を形成する。
3.技術、投資の改善
4.企業の管理を強化する
1.市場経済に適応可能な、現代財務会計制度を作り上げる。
2.ISO9000の標準の成果を強固にして、品質管理体系を作り上げ、科学的な高い効率の製品を作り上げる過程と、使用過程の一 体的品質管理の体系を築き上げた。
3.市場の誘導する方向に従って、近いうちの経営目標と長い戦略目標をしっかり結び付けて、製品の構造を調整して、技術水準の 近い製品開発について、重点を明確にする。
4.労働者雇用制度の改革を深化し、市場経済に適応可能な現代企業の労働雇用制度を推進する。 【現状と今後の課題】
従業員全員の伝統的観念を変え、元の管理方式を完備、改善させ、新しい国際的管理方式を導入して、企業の発展を推進させる。
今後、企業内部改革を加速化させ、瀋陽送風機会社(総工場)と瀋陽送風機株式有限会社を徹底的に分離させ、瀋陽送風機会社の各独立部門を株式制と国民民営制の企業に転換する。

 2001年の目標(万元)2001年実際情況(万元)完成率(%)
工業総生産額60,00049,05681.8%
工業総生産額の増加値20,00011,34956.8%
販売収入60,00041,22368.7%
利益に対する税金6,0002,87447.9%
利潤2,500350.414.1%
輸出で獲得した外貨2,490(30万ドル)1,277(15万ドル)51.3%

瀋陽送風機株式有限会社資料に基づき作成。

 

5.おわりに

 私がこのような国有企業の改革の問題を研究テーマとして取り上げたきっかけになったのは、1日も早く、遼寧省が再び工業中心地になって欲しいという願いからである。
WTOへの加盟により、国有企業はさらに新しい困難をむかえ、最も厳しい状況のなか、経営不振から退却できるのかについてまだ多くの課題を残しているが、これらは今後の検討課題としたい。
(大阪商業大学大学院 地域政策研究科博士後期課程)

 


第56回 2003年12月15日(月) 17:00~19:00 OICセンター 会議室

韓国自動車産業と部品調達体制
金 正 一 


1.はじめに
(1)研究目的
「アジア新工業化」という枠組みのもとで、韓国「ビッグスリー」体制という独自な国際規模の大量生産体制を構築した自動車産業の構造的特質を考察し、1997年のIMF経済危機後韓国「ビッグスリー」体制の再編と部品調達体制の変化について分析することを目的としている。

(2)問題意識
第一に、韓国資本主義の間題点を典型的に示す自動車産業を分析するにあたって、まず韓国資本主義の発展過程とその構造的特質を考えなければならないという点である。とくにその再生産体系は、グローバル産業としての韓国自動車産業にも妥当する。
第二に、韓国「新工業化」のなかで、1960年代以降現代的な産業として発展しはじめた自動車産業は、どういった構造的特質を持っていたのかという点である。
第三に、自動車各杜における発展パターンは、必ずしも一様ではないという点を考慮する必要がある。
最後に、1996年0ECD(Organization for Economic Cooperation and Deve1opment, 経済協
力開発機構)への加盟と、とくに97年IMF(1ntemationa1 Monetary Fund, 国際通貨基金)経済危機以後、「ポストアジア新工業化」へ移行・転換しつつある自動車産業について分析する。また、「旧ビヅグスリー」体制を中心に展開してきた自動車産業にとって、サプライヤーシステム(自動車メーカーと部品メーカー間の分業システム)は、どのように形成され発展してきたのかについても検討されるべきであろう。

2.世界自動車産業の動向
1990年代以後世界の多国籍自動車産業は、クロスボーダーなM&A(Mergers & Acquisitions、企業合併・買収)およびアライアンス(Corporate A11iances)の進行により.世界的集中・集積が行なわれている。1998年11月のトランスアトランティク(transs – At1antic)な、すなわちダイムラークライスラー(Daim1er Chrys1er)の合併にはじまり、フォード(Ford)によるボルボ(Vo1vo)の買収、99年にルノー(Renau1t)の資本参加を伴う日産自動車およびサクソン自動車(2000年3月)への経営参加、2000年BMWに買収されたLand Rover、そして2001年9月のゼネラルモーターズ(GM)による大宇白動車の買収など、多国籍自動車メーカーの「戦賂的提携」(strategic a11iance)を意図した世界的再編である。
このような転換期のなかで、部品産業は国際競争力の強化のために、グローバルソーシングをはじめ部品の共通化、システム化およびモジュール化への積極的な取り組みが行われている。

3.韓国自動車産業の発展過程
(1)自動車産業政策の展開とKD組立生産(1962~72年)
(2)石油危機と国産車開発(1973~81年)
(3)生産の国際化と量産体制の確立(1982~88年):韓国「旧ビヅグスリー」体制の確立
(4)産業高度化の挫折と内需拡大(1989~96年):「資本の有機的構成」の高度化、お
よび生産性の向上をはからずに、規模の拡大一般と捉えて設備投資を中心に推進
(5)多国籍化と自動車産業の再編(1997年以後):市場の多角化、「新ビヅグスリー」
体制の再編

4.韓国自動車産業の構造的特質(1996年までの基準)
(1)「新工業化」:韓国財閥による独・寡占化
(2)「アジア太平洋トライアングルトレード」:対日機械・部品輸入=対北米完成車輸出
(3)サプライヤーシステム:単層的分業生産構造
(4)1997年IMF経済危機以後の「ポストアジア新工業化」

5.韓国「ビッグスリー」体制の再編
(1)「旧ビッグスリー」体制の解体:(現代、起亜、大宇)
(2)「新ビッグスリー」体制の再編:(現代-起亜、GM DAEW00、Renau1tサムソン)


6.韓国自動車部晶産業の再編
(1)外部要因:メガサプライヤーの進出
①IMF経済危機後日欧米のメガサプライヤーの進出急増

②部品の共通化、部品発注のモジュール化
③1990年代後半に入り先進諸国のメガサプライヤーは投資を拡大している。こうしたメガサプライヤーにおける進出の目的を見ると、つぎの通りである。すなわち、一つは、中国をはじめアジア地域での自動車生産の拡大をにらんだ生産拠点つくりであり、もう一つは、技術集積があるところで部品を確保することによってコストを削減することである。
(2)内部要因:構造調整
①2002年末現在、自動車メーカーと直接取引する部品メーカー数は915杜(96年1358杜)で、自動車産業の構造調整と、最近部品発注のモジュール化などにより、自動車メーカーに直接納品する協力部品メーカー数は、減少している。
②「内需依存型」から「輸出産業化」への推進の強化

7.部品調達体制の変化
(1)競争入札方式の導入と部品供給の複数化
①指定発注方式から、汎用部品を中心に競争入札方式へと転換
②部品供給の複数化⇒1997年に自動車メーカー共同で公正取引自立遵守協約の採択
(2)モジュール化と取引関係の重層化
①モジュール化への取り組み⇒自動車メーカー側のコストダウンおよび開発期間の短縮、部品メーカー側の大型化および専門化、および産業政策
②単層化分業生産構造から重層化分業生産構造への変化⇒1980年代以降本格的に形成された「垂直的系列化」による企業間取引関係は、日本自動車産業のように自動車メーカーを頂点に系列部品メーカーと重層的な構造を形成しているにもかかわらず、国際競争カを強化する分業生産体制とは異なり、単層的分業生産体制である。しかし、こうした動きは、部品発注のモジュール化およびシステム化を通じて発注単位を大型化・専門化することで、部品メーカーの規模を拡大し、同時に1次メーカーを縮小していくという、部品調達体制を重層化分業生産構造に変化させる要因になっている。

(大阪経済法科大学アジア研究所客員研究員)


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〔科学技術部会研究会報告〕

第24回 2003年12月6日(土) 17:00~18:30 OICセンター 会議室

 

血清抗体法を用いた在日朝鮮人における
Helicobacter pylori感染の疫学
文 鐘 聲 


【He1icobacter pyloriとは】
He1icobacter pylori(H.py1ori)はヒトの胃幽門部にすむ、グラム陰性らせん状短桿菌である。本菌は強いウレアーゼ活性により、胃に存在する尿素を分解してアンモニアを生成することで胃酸を中和し、自身が生息できる環境をつくり出している。感染経路は、経口感染であると考えられている。H.py1ori感染率に関しては地域差、民族差があるということが多数報告されている。先進国は感染率が低く発展途上国は感染率が高い、衛生状態の劣悪な地域で感染率が高いともいわれている。感染時期は主として、乳幼児期、あるいは幼児期にあるといわれている。

【目的】
本研究の目的は、①在目朝鮮人におけるH.py1oriの感染率を健康診断受診者などより測定し、日本人集団との比較を行い、疫学的に民族差を明らかにし、②在目朝鮮人集団において、H.py1ori感染と消化器症状、喫煙歴、飲酒習憤などとの関連を検証することである。

【方法】
本研究では、9~83歳の在日朝鮮人集団326人と22~67歳の日本人集団520人の計846人において、H.pyloriの感染率を調査した。感染については、デタミナーH.py1ori抗体キット(EPI・協和メデックス)による血清抗体法を用いた。成人在日朝鮮人集団(271人)については併せて、消化器症状5項目と飲酒、喫煙などについて、質問紙にて調査を行った。

【結果】
感染率については、20歳代、40歳代、50歳代、60歳代において在日朝鮮人集団が有意に感染率が高かった。感染率において、40歳代、50歳代、60歳代については、生活環境などの改善が遅れていることが示唆された。また、文献的に大韓民国でのH.py1ori感染率と本研究での感染率を比較した。結果、上下水道の普及率との関連が示唆された。また、在日朝鮮人集団において、きょうだいの数、消化性潰瘍の既往、現在の同居人数、消化器症状2項目(むかつき、むねやけ)についてH.py1ori感染との関連がみられた。H.py1ori感染と喫煙に関しては関連がなく、アノレコール摂取に関しては男性にのみ関連が認められた。

【結論】
成人在日朝鮮人集団と成人日本人集団では、H.Pylori感染において有意差が認められた。理由として生活環境や上下水道など衛生環境の改善の遅れなどが考えられる。また、成人在日朝鮮人集団において、年齢、現在の同居人数、きょうだいの数、消化性潰瘍の既往、胃薬の服用の有無、むかつき、むねやけとH.py1ori感染について関連が見られた。

(大阪大学大学院医学系研究科保健学専攻博士後期課程)


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国際高麗学会日本支部第9回評議員会


第9回評議員会が2003年11月29日、OICセンターにおいて開催された。まず文京洙代表より開会の挨拶があり、次に2002年度の活動・会計報告ならびに2003年度の事業計画・予算案が承認・採択された。2003年度の活動中間報告も行われた。このたび新たな評議員として任正氏、高正子氏が委嘱され承認された。国際高麗学会日本支部評議員は次のとおりである。


国際高麗学会日本支部評議員


文京洙 (日本支部代表・社会部会委員長・立命館大学教授)
滝沢秀樹 (日本支部顧問・前日本支部代表・大阪商業大学教授)
張年錫 (日本支部顧問・元日本支部代表・顧問・大阪経済法科大学客員教授)
大村益夫 (日本支部顧問・元日本支部代表・早稲田大学教授)
高龍秀 (日本支部事務局長・甲南大学教授)
裴光雄 (西日本地域研究会代表・大阪教育大学助教授)
宋 亀 (日本支部事務局次長・日本支部科学技術部会委員長・OIC専門学校教授)
金元重 (東日本人文社会科学研究会代表・千葉商科大学教授)
辺英浩 (東日本人文社会科学研究会副代表・都留文科大学助教授)
徐昌教 (日本支部医療部会委員長・はなクリニック院長)
呉清達 (常任顧問・大阪経済法科大学教授)
宋南先 (会長・大阪経済法科大学教授)
宋在穆 (事務総長・大阪経済法科大学助教授)
高秉雲 (経済部会委員長・大阪経済法科大学客員教授)
金哲央 (哲学・宗教部会委員長・大阪経済法科大学客員教授)
高泰保 (科学技術部会委員長・大阪経済法科大学客員教授)
金英一 (医療部会委員長・はなぶさ診療所院長)
金哲雄 (大阪経済法科大学教授)
高賛侑 (近畿大学非常勤講師・ノンフィクション作家)
宋連玉 (青山学院大学教授)
金泰明 (大阪経済法科大学客員教授)
任正ヒョク (朝鮮大学校理工学部助教授)
高正子 (大阪産業大学非常勤講師)


国際高麗学会日本支部 第7回総会


第7回総会が2003年11月30日、大阪教育大学天王寺キャンパスにて開催された。第9回評議員会で提議された内容が報告され、承認された。


編 集 後 記

 去る11月に開かれた日本支部第7回学術大会では、「グローバリゼーションと韓国社会」というテーマのもとに、韓国経済と労働問題に関する活発な討論が行われました。
翌12月、筆者は光州で催された国際学術シンポジウム「東北アジアの平和繁栄と在外韓人」に参加しました。そこには中国、米国、日本、旧ソ連に住むコリアン9人が招かれたのですが、開会の辞で全南大社会科学研究院長から画期的な構想が発表されました。同院の提出した「世界韓商ネットワークと韓民族文化共同体調査研究」プロジェクトが韓国学術振興財団に承認され、今後3年間に27億ウォンの予算により本格的な在外コリアンの調査活動が開始されるというのです。
チュ財団理事長は挨拶で「韓国はようやく在外同胞に目を向けられる時代になった」と感慨深げに語りながら、この事業の重要性を強調していました。経済のグローバリゼーションには賛否両論が噴出していますが、世界のコリアンを結ぶグローバリゼーションは大いに歓迎したいものです。  (K)