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국제고려학회 일본지부 소개

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日本支部通信

第12号 (1999.12)

特 集 

国際高麗学会日本支部 第4回学術大会

【全体報告「朝鮮と日本の近代100年」】

 

日時 1999年11月21日(日)午前9時30分~午後5時

場所 大阪府社会福祉会館

 

植民地期における類似宗教の展開と民衆

――普天教の事例から――

趙 景 達 

 

はじめに

Ⅰ.普天教への道

1.姜一淳とその宗教

2.車京石(月谷)の出自と甑山との邂逅

3.甑山後の布教

Ⅱ.民族運動と普天教の誕生

1.布教と独立思想の流布

2.三・一運動後の民族運動と普天教

3.普天教の誕生

Ⅲ.普天教の活動と親日への転回

1.公認獲得と社会事業の展開

2.社会批判の増大と革新運動の台頭

3.時局大同団の結成

Ⅳ.普天教の終焉(しゅうえん)

1.民衆の反発と教徒の離反

2.普天教の末路

3.普天教と民衆

おわりに

(千葉大学)

 

 

近代公娼制にみる植民地支配

宋 連 玉

 

 1876年の日朝修好条規による開港はいわゆる近代伝染病を朝鮮にもたらす皮肉な結果となった。積極的な親日開化派ならずとも朝鮮の知識人が日本から近代医学を学ばざるを得ないと考えた理由は、伝染病の猛威とそれを鎮める可能性を持つ近代医学への期待であった。池錫永が釜山にあった日本海軍病院の済生病院の軍医から種痘法を学んだのは、日本から伝播したコレラが朝鮮全土に広がり、釜山での日朝貿易を中止することになった1879年のことである。池錫永の種痘を広めようとする努力は長らく苦戦を強いられるが、1894年の甲午改革で内務衙門(→内部)に衛生局が設置され、種痘事業が重視されるようになる。しかし日本で1886年から地方の衛生行政が警察の所管となるように、朝鮮でも衛生事務は警務庁に属するようになる。

 1899年から学部直属の官立医学校の校長となった池錫永は次に拡大することが憂慮される性病に注目し、1902年に「楊梅瘡論」を『皇城新聞』紙上に発表し、性病予防の法規制定を政府に積極的に要請する。

 日露戦争を経て風紀が乱れ、売買春市場が拡大する中で日本から反日的と見なされていた警務庁警務使の申泰休は衛生清潔所事務委員長として清潔法を厳しく取り締まりながら綱紀の粛正をはかるが、彼が公娼制に反対しなかったのもそれが風紀を保ち、性病を蔓延させない有効な措置だと考えたためである。

 この頃、日本から親日派朝鮮人として養成された閔元植が帰国し、早々に衛生局課長兼広済院(1899~1900内部病院)院長に就任し、公娼制の必要性を新聞紙上で展開する。世論の反発にもかかわらず、広済院で1906年から娼妓対象に性病検査を始め、娼妓の隔離に取りかかる。この一連の準備過程を経て1908年の「娼妓団束令」「妓生団束令」が制定され、朝鮮人を対象にした公娼制が始められるのである。朝鮮人が自主的に公娼制を導入したという筋書きの裏で、日本式公娼制度が整備されていく。

 池錫永、申泰休、閔元植は共通して伝染病の拡大を恐れ、性病対策の必要を訴えたとも言えるが、その意図するところは決して同じではなかった。韓国併合以後、強い慰留にも関わらず、池錫永は大韓医院教官の座を辞退し、在野に下る。

 伝染病(性病)予防という衛生学の建前により反日的な人士からも受け入れられ、導入された近代公娼制は植民地支配・経営を下支えするものとして活用されていくのである。

(青山学院大学)

 

植民地支配の歴史的省察――治安維持法を中心に

水野 直樹

 

はじめに

(ⅰ)植民地支配における治安維持法の重要性

・治安確保の法的支え

・独立運動弾圧

(ⅱ)植民地独自の運用とシステム

(ⅲ)朝鮮史にとっての意味

Ⅰ植民地支配維持の法的装置

①治安維持法制定以前の治安法令

・保安法(1907年)、制令第七号(1919年)

・「治安警察令」制定の試み

 ②「国体」――法解釈

「朝鮮独立=帝国領土の僭竊=統治権の内容の縮小=国体変革」の図式

Ⅱ朝鮮独自の法運用

 ①適用第一号

 ②在外朝鮮人への適用

・中国における領事裁判権

・朝鮮人国籍離脱の禁止

 ③死刑判決

・治安維持法のみによる死刑

Ⅳ「転向」問題と天皇制

 ①朝鮮人にとっての「転向」

 ②「転向」のシステム

・保護観察制度(1936年)

・全鮮思想報国連盟から大和塾へ

・予防拘禁制度(1941年)――日本「内地」より厳格な適用

むすび

・治安維持法体制解体過程の問題

・植民地支配・治安維持法が残したもの

(京都大学)

 

【人文社会科学分野 自由論題報告要旨】

 

韓国の経済発展と環境問題

鄭 徳 秀 

 

 いまの世界的な環境対策の焦点の一つはアジアにおける環境対策である。アジアの環境問題を考える上でのキーワードとして短期間における高度経済成長(圧縮型工業化)、爆発的な都市化の進行、大量消費型生活様式の普及をあげることができ、その結果、地域環境問題、国際環境問題、地球環境問題という「三重の環境問題」に悩んでいる。近年ではアジアにおける環境問題の研究が進み、環境汚染の状況や環境政策の紹介等がおこなわれ、その実態に関してはかなりわかるようになってきているけれども、それぞれの地域の経済発展にそくして環境問題を分析する研究が少ない。

 韓国は急速な工業化にともなう環境問題が発生している。伝統的な産業公害だけでなく、都市化の進行にともなう公害・環境問題が発生している。しかし、これまで環境対策はなおざりにされ、1990年代に入って民主化に規定された地方自治制の実施や環境団体の活動、政府による環境関連制度の整備等によって環境対策がようやく始まった段階である。ようやく始まった環境対策も近年の経済危機によって後退している側面がある。

 いまのアジアの環境問題を考える論点は開発に環境対策をどのように組み込むかということである。アジアの環境問題は「後発性の不利益」であると考えられる。韓国の場合、「後発性の不利益」としての環境問題は、エネルギー問題、「温山病」等いくつかある。いまのアジアはエネルギー多消費である。韓国はエネルギー消費・供給構造は日本ときわめて似ているけれどもエネルギー多消費である。「温山病」は温山工業団地周辺住民にみられた未曾有で複合的な環境汚染によるものである。このような環境問題は単に経済成長にともなって発生したものではなく、韓国の経済発展の特徴としてあらわれている。韓国の経済発展は外資、財閥、政府が主導したといわれている。温山工業団地や蔚山工業団地のある蔚山市は韓国の経済開発がつくりだした都市であり、多くの外資を導入して発展した典型的な工場都市である。エネルギー多消費型構造も韓国のような経済開発には必然的な構造とも考えられる。

(大阪薫英女子短期大学)

 

 

韓国の伝統喜劇「タルチュム」における Grotesque Realism の世界

張 起 權 

 

 朝鮮時代の庶民文学においては、濃密な性的描写やそれにまつわる身体部位の表現が諧謔の題材として多く用いられる。とりわけタルチュムの中にはそのような現象が一層著しくあらわれる。日常の価値体系を覆す性的関係や行為、象徴的な仕草や肉体の強調、人間の死や誕生、卑俗な言葉の多用、動物など異質的な対象の登場……、いわばGrotesque Realismの世界が繰り広げられるのである。

 例えば、俗世の欲望などは超越しているはずの高僧(老丈)が若い女(小巫)に魅了され、破戒僧でならず者のチーバリと小巫をめぐって対決する。その戦いぶりは老丈の権威とはかけ離れた低質で肉体的なものである。

 現実社会においては絶対的な権力を持つ両班が、下男のマルトゥギから下品な悪態を浴びせられたり、性的な侮辱を受ける。さらにマルトゥギは主人である両班の妻と浮気までする。また、長い間の別離から再会した老夫婦(ヨンガムとハルミ)は、猥褻な言葉と行為を繰り返した末、ハルミ(老婆)の方が死を迎える。

 このような言葉や行為によって、タルチュムの世界では現実社会における身分や聖俗、男女の区別を転倒させ、新たな秩序を築き上げている。

 本報告では、以上のようにタルチュムの中に満載しているGrotesque Realism的表現、つまり性行為や悪態、生と死などは、どのような特徴を持ち、その役割と意味は何かを考察したい。またそのような諧謔的な描写において欠かすことのできない言葉遊びや意味転用、すなわち言語の遊戯性についても分析する。

(大阪大学大学院言語文化研究科)

 

 

古代朝鮮史像

-高校世界史授業展開試行案-

新田牧雄

 

 高校世界史の古代朝鮮史像は、唐の冊封国、律令体制受容国(王朝)として高句麗・新羅・百済が初出、換言すれば唐文化の影響下、東アジア文化圏・中国隣接国に位置づけられており、先史時代関連事項は空白である。これに比して古代中国史像は、古典文明の展開下、古代社会の発展より記述され、伝説上の黄帝・尭・舜・禹の帝王や、実在未証明夏王朝等々が紹介されている。人類文化の発展を時間的経過と、社会経済的発達(発展)事象に相関させ、クロノロジカル的に把握理解する立場からすれば、この空白時は大いなる欠落であり、東アジア像の地理学的空間の史的把握の確証も、今一歩ということになろう。

 檀君、箕子、衛満朝鮮像に遡及に至らずとも、貊(貊・貉)三韓(馬・弁・辰)前後より授業展開すれば、宿命的な民族抗争を伴いながらの国家(王朝)形成の一端を把握理解でき、三国史記・三国遺事・先学の学説等により補完し、思案の施行の一端を述べてみる。

Ⅰ(1)学習指導要領にみる古代朝鮮像

①地理歴史編 世界史B(標準4単位)

世界史A(標準2単位)

②社会科編 (標準4単位)

Ⅱ(1)建国伝説(神話)

檀君、箕子、解募漱神話 衛満朝鮮伝

(2)匈奴・五胡・三韓と帯方郡

Ⅲ(1)東アジアにおける古代朝鮮(王朝)

Ⅳ日本古代対外交渉視点より

①高句麗 ②三韓 ③新羅

④百済 ⑤任那 ⑥好太王碑(広開土王碑)

 ※現代世界の形成の歴史的過程と世界の歴史における各文化圏の特色について理解させ、文化の多様性・複合性や相互交流を広い視野から考察させることによって、歴史的思考力を培い、国際社会に生きる日本人としての自覚と資質を養う。

 高校における古代朝鮮史像の把握は、通史としての世界史B授業展開である。

 特設の領域・分野ではなく、指導時間の制限等もある。授業展開は教科書の他に、副教材と関係資料を印刷し使用。

(1)高校学習指導における地歴世界史Bにみる古代像-東アジア文化圏の形成と発展-

3世紀から6世紀にかけての中国農耕民族と北アジア遊牧民族の対立抗争と交流、唐帝国の発展と東アジア諸民族の活動などに着目させ、東アジアの文化の展開を理解させる。

①均田制を創始した北魏時、東北地方から朝鮮半島北部にかけて高句麗が勢力を拡大し、朝鮮半島の南部や日本においても国家形成が進んだことを理解させる。

②隋・唐文化に影響を受けて成立した東アジア文化圏については、日本、新羅(しんら<しらぎ>)・渤海(ぼっかい)などを中心に中国に隣接する諸民族の動向にも着目させる。

(2)旗田巍の指導理念-

①日本における東洋史学の開拓者たちは、その第一歩を朝鮮史学の研究に向けた。また初期における日本古代史の研究者・法制史家・言語学者なども、自己の研究分野の重要な一部として朝鮮史に注目した。史学雑誌の古い部分を取り出してみると、(略)朝鮮古代史について活發に研究を発表し、はげしい論戦を展開している。

②戦後日本の古代史研究が、種々の制約から解放され、新しい日朝関係史をうちたてるにふさわしい社会的条件が備わった。その結果、大和朝廷を朝鮮半島から渡来した騎馬民族であろうとする江上波夫氏の説や、日本古代の三王朝交代を説く水野祐氏の説などのはなばなしい新説が展開された。

(3)教科書にみる古代史像

①紀元前後に中国東北地方の南部におこった高句麗は、4世紀初めに南下して楽浪郡をほろぼし(313年)朝鮮半島北部を支配した。  -山川-

②朝鮮半島で前2世紀初めころに成立した衛氏朝鮮が漢の武帝に滅ぼされると、その後急速に台頭した高句麗が、4世紀初めに半島北部から中国東北部にまたがる強大な国家を建設した。高句麗は、扶余族の支族であった貊が建てた国で、前漢が設置した楽浪郡や後漢末に成立した帯方郡を攻略した。  -三省堂-

(4)建国伝説(神話)

朝鮮族は、パミール高原または蒙古地方から、太陽神の居住地-光明神の本源地--垣国-をチョソンとよび、方位から不咸山(現白頭山)として民族移動・自立。檀君神話は唯一定着したもので、建国時代は西暦前2333年と比定されている。衛満は伝説的始祖で、燕から亡命、箕子朝鮮王箕準を放逐し、朝鮮王となり、王険城に都。3代80余年

参考(1) 中国の場合、古典文明として夏が取りあげられており、禹にはじまる中国最古の伝説上の王朝とある。

参考(2) 日本史、渡来人(かつての帰化人)として、4~5Cに楽浪・帯方に住んでいた漢民族が渡来し、古墳文化形成に貢献。韓民族は6~7Cに渡来し飛鳥文化に寄与。

参考(3) 生徒の古代史像の把握については、好太(公開土)王碑文を課題としている。

参考(4) 授業展開時、朝鮮半島白地図を併用し、関連用語(事項)を作業させ、その定着を意図。特に古代国家形成の外部要因として匈奴・五胡・三韓と帯方郡・高句麗・扶余には留意。

蕨戸田市医師会看護専門学校 樸教育研究所 

 

 

北朝鮮社会主義経済の半世紀と今後

――朝鮮・中国・旧ソ連の比較――

藤田 整

 

 現在、このテーマについての報告者の問題意識は、自身の居住する日本をふくむ東北アジア地域(構成単位は日本、韓国、北朝鮮、中国、ロシア、台湾地域、それに周辺国としてアメリカ)の情勢が極めて不安定ということより出ている。そして日本の場合、国民の大部分には、そもそもそういう問題意識もないようにみえ、実はこれこそ大きい問題といわねばならない。報告者の専門は旧ソ連経済であり、中国についても多少の関連知識はある。ただ北朝鮮については、ごく基礎的な知識しかなく、そのうえ朝鮮語の読解力がないので、そこから研究成果におのずから限界があるのは当然である。

 私は現在、北朝鮮という国家について、①ウリ式(独自の)社会主義国家、②高度国防国家、③儒教式国家、④遊撃隊国家(最後は和田春樹説)、以上の複合(complex)というようなイメージを抱いている。

 北朝鮮では、1956年、国民経済が朝鮮戦争前の49年水準を超えた。以後、1960年代までは韓国よりも好調と見られていたが、1970年代以降、形勢は完全に逆転した。とりわけ1990年代にはいると変調が著しい。例えば、(1)1992~1996年間に国内総生産(GDP)が半減した。(2)食料の配給制度が1995年夏の大洪水以来、機能不全となった、など。

 周知のように、北朝鮮経済については統計など通常のデータが極めてすくないので、分析にあたっては、1960年代以降、1994年の死に至るまで独裁的指導力を揮っていた金日成の各種演説を貴重な一次資料として重視した。報告時点における彼の年齢、年齢と共に微妙に変化する指導スタイル、当時の全般的情勢などを総合すると、報告者のように老年者としては、ある程度、真相を推測しうると考えている。

 北朝鮮経済の専門家である小牧輝夫氏は、本学会の昨年度大会報告において、経済変調の基本原因として、(a)設備の老朽化と技術の立ち後れ、(b)軍事費負担の重圧、(c)中央集権的な計画経済体制の行き詰まり、極端な自力更生路線の挫折という3点を挙げている。

 ところで報告者自身は1990年、ソ連崩壊の1年半以前という時点において、ソ連経済行き詰まりの原因として、(a)集権的社会主義の硬直性によって20世紀後半の世界経済の大勢に遅れたこと、(b)軍事支出への著しい傾斜という国民所得分配面の大問題、(c)国民心理として第二次大戦での勝利によって「オゴリ高ブリ」という無反省さがあったという3点を挙げたことがある。

 ここで上記、小牧輝夫氏による北朝鮮の行き詰まりについての三要因の指摘(1998年)と、報告者(藤田)のソ連経済の行き詰まりについての同じく三要因の指摘(1990年)を比較すると、小牧氏のいう(a)(c)要因は、藤田のいう(a)要因にほぼ重なり、(b)要因、つまり軍事支出の過大については両者が一致し、さらに藤田のいう(c)要因において北朝鮮については、ソ連とは別種の国民心理上の難点があるやにみえる。それは、ソ連の場合にはほぼ内発的なものであるが、北朝鮮の場合には、むしろ強度の外圧にたいする反動として生じているように考えられる。

 最後に北朝鮮の今後の活路はどこにあるのか。ここに暫定的結論として、報告者による一つのシナリオを挙げてみると、現在、北朝鮮の取るべき政策は、まず、(a)相互努力にもとづく周辺諸国との国交樹立(5年以内)、(b)広義21世紀的経済体制への軟着陸(10~20年以内)、(c)南北の平和的統一(50~100年間)などということであろう。

(大阪経済法科大学)

 

 

【自然科学分野 自由論題報告要旨】

データモデリングとデータベース設計

―CALS時代の方法論―

李 相 春

 

 データモデリングとはビジネス情報の構造と規則を明確に表現するためのデータモデル(論理データモデル)を作成する手法である。代表的なデータモデルには階層型モデル、ネットワーク型モデル、リレーショナル・モデルなどがあり、さらに近年はオブジェクト指向モデルなどが盛んに研究されている。各データモデルはそれぞれの型のデータベース設計のインプットになる。すなわち、階層型データベース、ネットワーク型データベース、リレーショナル・データベース、オブジェクト指向データベースが対応するデータモデルである。

 さまざまな型のデータモデルの中でもリレーショナル・モデルは1970年のCoddの発表以来、盛んに研究されており、実装されているデータベースの中では最も多くのユーザに利用されているといえる。近年、UMLなどを用いたオブジェクト指向モデルの研究、開発が盛んに行われ、それらに基づいたオブジェクト指向データベースも実装されてきたが、リレーショナル・モデルは依然として有効で現実的な手法であり、実用上は今後もリレーショナル・モデルの時代が続くであろう。

 リレーショナル・モデルは1970年に、IBMサンノゼ(San Jose)研究所のE.F.Coddにより発明されたモデルであり、その特徴は他のモデルに比べて非常に単純なことにある。モデルの原理は数学の集合論に基づいて組み立てられていて、このことがハードウェアやソフトウェアの環境を意識する必要のない、単純さと美しさを生み出している。E.F.Coddの発表以後、1976年にはP.P.ChenによりE-Rモデル(Entity-Relationship Model)が開発され、1977年にはANSI X3/SPARK委員会によるDBMSの3層スキーマのフレームワークが開発されるなど、リレーショナル・モデルの研究、開発が盛んに行われた。

 1990年に発表されたJ.MartinのIE(Information Engineering)はリレーショナル・モデルに関する研究、開発のひとつの集約といえる。J.MartinはIEで、システムはデータとアクティビティの二つの側面をもち、システム開発には計画、分析、設計、製作の4つの段階があるとしている。計画段階における企業の組織理念に基づいた概略モデルから分析段階でデータモデル(業務データの側面)とプロセスモデル(業務プロセスの側面)を作成し、これらを業務モデルとして次の設計段階へのインプットを得る。

 IEの中核思想はデータ中心主義とトップダウン・アプローチであり、これらはシステム開発に携わる人々に広く支持されている。しかし、CALS時代といわれる近年、これらの状況が変わりつつある。その特徴として、企業方針そのものがダイナミックに変化し、また企業内の各部門の業務方針、業務内容もそれに従ってダイナミックに変化する。このような変化に対応すべく、システム開発におけるユーザ部門の参加、いわゆるEUD(End User Development)の必要性が唱えられている。すなわち、データモデリングの手法として、個別業務中心のボトムアップ的手法が必要とされている。このことはIEによるモデリング手法を否定するものではなく、基幹システムはシステムの専門家によるトップダウン・アプローチにより開発し、個別業務はユーザ参加によるボトムアップ・アプローチにより開発することが適切であることを主張している。

 個別業務からのボトムアップ・アプローチによるデータモデリングとしてはC.C.Fleming,B.Halleによる「リレーショナルデータベース・デザインハンドブック」(1997,アジソン・ウェスレイ)が有名であるが、ボトムアップ・アプローチそのものの歴史が浅く、Engineeringとして未完成であり今後の研究が期待されている。

 ボトムアップ・アプローチによるデータモデリングの最初のステップは個別業務モデルのスケルトンを作成することである。このステップではデータ要求の本質的な特性を掴まえ、エンティティ、リレーションシップ、プライマリー・キー、外部キー、交代キー、キー業務ルールなどの概念へ現実世界(個別業務)を写像する。また、このステップで大切なことは業務機能階層図に基づいて個別業務の単位を決めることである。ここで設定された個別業務の単位がボトムアップ・アプローチの始点を決める基準単位であり、まずそのデータモデリングから始める。それらのモデルが完成した後に、そのモデルを徐々に組織の上位へ統合し、全体のデータモデルを作成するのがボトムアップ・アプローチである。

 個別業務のスケルトンはプロトタイプの設計や戦略情報モデルの検討に応用することができ、これらの応用がEUDを一層意義深いものにする。

 データモデリングの次のステップは個別業務モデルを詳細化して、個別業務のデータモデリングを完成することである。この段階ではキー以外のアトリビュートの追加、正規性の検証、ドメインの検討、アトリビュートに関する業務ルールの検討などが行われる。特に正規性の検証に関してはどこまで正規化を行うかなど、議論の多いところであるが、正規化の目的であるところのデータの内部構造の整合性、冗長性の最小化、安定性の最大化の検証を一義的に配慮すべきである。実際に、データベースチューニングの段階でわざとデータに冗長性を持たせて正規性を緩めたりすることがあるので、正規化の技巧的な議論にあまり入り込まないことが大切である。アトリビュートに関する業務ルールの検討ではドメインの検討とトリガーの検討を行う。

 データモデリングの最後のステップは業務モデルの統合である。このステップでは個別業務モデルを統合し、全体として整合性のとれたひとつの業務モデルを作成する。具体的にはエンティティの統合、リレーションシップの統合、アトリビュートの統合による個別業務モデルの統合を行い、さらに既存データモデルとの統合や安定性と拡張性の考慮がこのステップで行われなければならない。

 以上のステップでデータモデルが作成されるが、正確なデータモデルは正確性、整合性、単純性、非冗長性、安定性を備えたデータベース設計のインプットとなる。正確なデータモデルを使えば単純な作業でリレーショナル・データベースへ変換できる。すなわち、エンティティをテーブルに、アトリビュートを列(Column)に、リレーションシップを外部キーに変換することでリレーショナル・データベースのテーブル定義を得る。データモデルをデータベースへ変換するプロセスでは、さらにエンティティ業務ルールの変換、リレーションシップ業務ルールの変換、アトリビュート業務ルールの変換などの業務ルールの変換を行う。これらのプロセスはすべて、論理データモデルによる論理オブジェクトをリレーショナル・モデルのリレーショナル・オブジェクトに変換するプロセスにほかならない。

 データベース設計の最後のステップは変換したリレーショナル・データベースをパフォーマンスの観点からチューニングするステップである。このステップではまず最初にストレージ関係のチューニングを行う。スキャン効率の検討、クラスター効率の検討、ハッシングの検討などがその主要な内容である。またインデックス関係のチューニングも行わなければならない。小さなテーブルにはインデックスを付けない、ヒット率が低いテーブルにはインデックスを付ける、クラスター化されたテーブルにはインデックスを付ける、少量の行に対してソート処理が絶えず要求される場合にはソートされたインデックスを付ける、などがインデックスに関する基準である。さらに、冗長性の追加とデータベース構造の見直しが最後のこの段階で要求される。

【参考文献】

1)E.F.Codd:A^Relational^Model^of^Data^for^Large^Shared^Data^Banks,^Communications^of^the^ACM^^Vol.13,^No.6(1970)

2)P.P.Chen:The^Entity-Relationship^Model:Toward^a^Unified^View^of^Data,^ACM^TODS,vol.1,No.1(1976)

3)C.J.Date:Relational^Database:Selected^Writings,^Addison^Wesley(1989)

4)James^Martin^(三菱CC研究会IEタスクフォース訳):インフォメーション・エンジニアリング(全3巻),トッパン(1991~1994)

5)Candanc^C.^Fleming,^Barbara^von^Halle^(星野彦訳):リレーショナルデータベース・デザインハンドブック,アジソン・ウェスレイ・パブリッシャーズ・ジャパン(1997)

6)日本電信電話株式会社NTT情報通信網研究所:データベース概念設計、阿部出版(1993)

7)斉藤直樹:データモデル設計とRDBMSへの実装、リックテレコム(1995)

8)山谷茂:現場主義のRDBMS設計、リックテレコム(1995)

9)Daniel Pascot(落水浩一郎訳):C/Sデータベース設計入門、日経BP社(1996)

10)鷲崎早雄:C/Sデータベース設計 実際編、日経BP社(1998)

11)クリス・ルースリー、フランク・ダグラス:データベースチューニング256の法則(上・下)、日経BP社(1999)

(大阪情報コンピュータ専門学校)

 

 

暗号化/認証技術と電子商取引

金 昌 一

 

 電子商取引は、EC(Electronic Commerce)、e-コマースなどと呼ばれ、本来は電子化した商取引全般をさす言葉である。インターネットの急速な普及によって、企業間のオンライン取引、金融・証券取引、インターネット上のオンラインショッピングなど、さまざまな形態の新しいインターネットビジネスが創出されている。

 そこで問題になるのは、インターネットのオープン性である。インターネットに流れている情報は、そのままでは簡単にデータの盗聴や改ざんが行われる危険性があり、インターネットを使って商取引を行う場合は、第三者に情報を漏らさないようにする必要がある。また、そのままでは他人になりすますということもできるので、商取引を行う場合は取引相手を確実に確認するという必要がある。このような意味で、インターネット上のセキュリティの問題は、21世紀の情報通信社会の発展にとって、必要不可欠な問題である。ここではコンピュータセキュリティの基盤技術である暗号化・認証技術とその応用技術である電子マネーについて考察する。

暗号化技術

 現在の暗号化技術には2つの種類、共通鍵暗号方式と公開鍵暗号方式がある。共通鍵暗号方式では、暗号化する時と復号化する時は同じ鍵を使う。そのため通信を行う双方が同じ鍵を持ち、双方が鍵の管理に注意しなくてはならず、かつ通信相手の数だけ違う鍵を持たなければならない。またインターネットで鍵を送れば盗まれる可能性があるので、郵送などで鍵を送る必要もある。それに対して、公開鍵暗号方式では、利用者には2つの鍵が与えられる。1つは公開する鍵、もう1つは秘密にしておく鍵で、この2つの鍵を組み合わせて暗号化や復号化を行なう。情報をある利用者に送りたいときには、その相手利用者の公開鍵を使って暗号化し、その暗号を復号するには、その相手利用者の秘密鍵でないと復号できないので、秘密鍵を持っている相手利用者以外はその情報を見ることができない。情報を送る側は、相手利用者の公開鍵を使って暗号化するだけなので、鍵の管理に気を使う必要がなくなる。また、逆に秘密鍵で暗号化された情報がその利用者の公開鍵で復号できれば、その情報は間違いなくその利用者が暗号化したものだと証明できる。(電子署名)

 このような理由から、インターネットでは公開鍵暗号方式が使われている。

認証技術

 ネットワーク上の人物を特定するための電子認証技術は、基本的に実世界での認証と同じもので、物理的な特徴や所有物をあらかじめ登録しておいたデータと照合して確認するものである。ただし、電子データは容易に複製できるため、実世界での認証方法を単純に適用することはできない。ECOM(電子商取引推進協議会)によるガイドラインでは、次のように認証手段を分類している。

①指紋、網膜、虹彩、声紋、筆跡などの本人固有の情報による認証

②クレジットカード、運転免許証などの所持品による認証

③パスワード、暗証番号、電子署名、公開鍵証明書などの秘密情報による認証

 このうち1番目や2番目の方法は、特別な装置が必要であり、ネットワーク経由の認証には、3番目の方法による認証手段が利用される。特に公開鍵証明書方式では、公開鍵証明書と秘密鍵による電子署名処理によって認証がなされ、ユーザが署名したデータを公開鍵証明書中の公開鍵で復号することで、ユーザの身元を確認することができる。公開鍵証明書方式では、公開暗号技術を利用することで認証処理後の通常の通信内容を保護することもできる。また、電子署名によってユーザを特定できるため、否認を防止できる。さらに、ユーザの素性が第3者機関である認証局(CA:Certificate Authority)による保証を経たデータとして証明書中に記載されているため、改めてユーザからの入力を要求せずにその情報を利用することができる。このように、公開鍵証明書方式は、現時点でもっとも優れた認証方式となっている。

電子マネー

 お金の情報をデジタル化して流通させたものが電子マネーである。電子マネーをお金として流通できるようにするためには、だれでもどこでも、商品とかえることができる、決済に使うことができる(信頼性)、偽造されない(安全性)ことが不可欠である。また、だれがどのように使ったということが記録に残らない(匿名性)ようにする必要がある。現在、暗号化/認証技術を利用することによって、様々な形態の電子マネーの実験が行われている。

 電子マネーは2つに大別できる。1つは現金代替機能を果たす電子現金であり、決済手段を電子化したものである。もう1つは小切手、クレジットカード、デビットカードなどをデジタル化した電子決済(電子振替)である。

 ちなみに大蔵省では電子マネーを「利用者から受け入れられる資金(発行見合資金)に応じて発行される電磁気的記録を利用者間で授受、更新することによって決済が行われる仕組み、またはその電磁気的記録自体」と定義している。

 電子マネーは、利用形態、流通形態、格納形態など分類方法は多様であるが、システム構成で分類すると、ICカード型とネットワーク型がある。

(大阪情報コンピュータ専門学校)

 

 

極東ロシアの農業開発と朝鮮半島

高 泰 保

 

 朝鮮半島に隣接する極東ロシア南部は、農業生産の大きな潜在力をもつ地域である。この地域の農業開発は、ロシア国内だけでなく、近隣諸国の食糧事情を改善する手だてとなる。それはまた、21世紀における東アジアの地域的な食糧安保を実現する上でも重要な役割を果たすものと期待される。

 19世紀初頭、朝鮮半島からの流民が後のロシア領「沿海州」に移住し始め、土地を開墾して農業を営んだ。それから約1世紀が経過した1926年の統計によれば、沿海州には15万2,000人の朝鮮人が居住、その92%が農村で生活するようになっていた。極東ロシアに稲作を持ち込んだのもこれら朝鮮人であった。こうした事実からも知られるように、極東ロシアの農業に対する朝鮮人の貢献は、決して小さいものではなかった。しかし、それも1937年の中央アジアへの強制移住によって幕を閉じることになった。

 1990年代の前半期、朝鮮人の移住先であるカザフスタンなどがロシア連邦から離脱独立していった。それと時期を同じくして、ロシア国内の農業はペレストロイカの進行とともに加速度的に破綻していった。極東ロシアの農業もその例外ではなかった。

 今日のようなロシア国内の政治・経済的状況が続く限り、極東ロシアの農業を<自力で>再生させ、これを発展させることは不可能と思われる。したがって、この地域に東アジアの食糧基地を構築しようとすれば、近隣諸国の国際的な協力と支援が必要条件となる。即ち、極東ロシアの土地資源に、韓国や日本の経済力、そして北朝鮮や中国の労働力を有機的に結合させて農業開発に取り組むことが望まれるのである。

 沿海州の朝鮮人の人口は、1989年の8,500人から3万400人('99年1月現在)に増えた。この人口増加は、主として中央アジアから再移住によってもたらされたものであるが、現在その多くは農業部門で働いている。一方、韓国および北朝鮮は、他国に先駆けて沿海州やアムール州で企業や農業団体による農業開発プロジェクトを展開したり、農業生産を支援したりしている。このような状況から、現地では日本や中国よりも韓国や北朝鮮への期待が大きい。韓国と北朝鮮が共同して極東ロシアの農業開発に取り組むことができれば、国際社会への貢献はいうに及ばず、海外同胞を含めた朝鮮民族全体にとっても貴重な事業になるだろう。

(大阪経済法科大学)

 


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〔西日本地域研究会報告要旨〕

 

第35回 1999年6月28日(月) 18:30~20:00 OICセンタービル4F会議室

朴正煕政権下における文化の生産と仮面劇研究

―70年代学生街の仮面劇運動を中心に―

高 正 子 

 

 現在、広く韓国で語られる仮面劇は、抑圧し支配する人たちに対する民衆の「抵抗」の文化としてのそれであり、極端にデフォルメされた仮面や台詞のパロディ化は、民衆意識の表象として理解されている。このような仮面劇理解を支えたのは、6~70年代の朴正煕政権の文化政策であり、くわえて、これに抗する学生街の仮面劇運動のなかで生みだされたものである。  1961年5月16日、軍事クーデタによって政権を掌握した朴正煕は、政権発足当時から仮面劇をはじめとする伝統文化の保存政策および発掘に力を入れた。私はこの時期の朴正煕政権の文化政策に着眼し、これらの行為を東南アジア研究で最近論じられている「文化の生産」という枠組みで考察してみようと試みた。言い換えれば、それは植民地という屈折した鏡を通して映しだされた像としての民俗文化が「国民文化」として蘇る過程を仮面劇の事例を通して辿るものである。また、ここでは政府の文化政策だけではなく、韓国の仮面劇をとりまく営みのなかで見過ごすことの出来ない学生街の仮面劇運動も同時に扱うことにする。

 これまで、被支配民族が支配者と対等な権利を獲得するために文化を梃子にする試みは行われてきた。この意味において、きわめて政治的な文化は、解放後の朝鮮半島においても南北を問わず、「国民国家」のアイデンティティの源泉として求められた。そこに投影される「国民国家」の像は、植民地経験国共通の課題でもある「二度と植民地化されない国家」であり、それはまた、人々の心の奥底に潜んでいる切なる思いでもあった。

 南の地、韓国においての国家建設は、その地に息づく人々を「国民」として統合することを必要不可欠にした。解放直後、しばしば用いられた言説は「団結だけが生きる道だ」というものであり、李承晩はしきりに日本人の団結力を讃えた。これは、李承晩政権の崩壊後に登場した朴正煕にも引き継がれる。

 韓国において「文化の生産」は、1962年に制定された文化財保護法をはじめとする官主導で押し進められる文化政策に現れる。朴正煕政権はこの時期、悠久な歴史を受け継ぐ「民族」を強調し、1930年代の失われゆく民族文化として位置づけられた仮面劇をはじめとする伝統文化を保護する。学校教育の場では漢字教育を閉め出し、儒教道徳の教育を復活させるが、そこに強調される儒教文化とは、朝鮮儒教の特徴である「孝」ではなく「忠孝」の奨励であった。60年代しきりに押し進められる博物館の建設や記念碑の建立、儒教道徳の強調は「韓国的なもの」の創出だった。また、「ウリコッ」(我々のもの)の代表とされる民俗文化は、「伝統文化」として祭り上げられるが、反面、それは国家の近代化・産業化のなかで取捨選択される。例えば、巫俗の神堂は、このような発展の阻害要因として国家によって指弾され、取り壊された。

 この時期、朴正煕政権は「韓国人」を強調する一方で、経済的には韓日条約などによって日本からの借款を受け入れ、政府主導の開発経済を推進する。この開発経済を支えるために多くの犠牲を民衆に強いた。その犠牲を支える言説を生み出す営みこそが、まさに朴正煕政権下における文化政策だった。

 他方、あまりにも強い力による抑圧は、現在のネガティブな自画像の裏返しとして「過去」へのまなざし、すなわち、歴史や文化に対する新たな解釈の対象に向かわせる。

 70年代大学街でおこった仮面劇に対するまなざしや営みは、まさにこのような自画像の裏返しであった。その頃、しきりに語られていたのは仮面劇の現代的意味であり、それは仮面劇のなかに含まれた痛烈な諷刺精神を民衆の知恵とし、それが力であり、韓国人的なものと解釈された。そして、それまで「静的なものやもの悲しさまたは、哀傷的なもの」を韓国の美意識とされていたものを「動的で諧謔的な『力』と『夢』の芸術もある」と説いた。そして、前者のみを強調するのは、「韓国人に停滞的で敗北的な心性だけを強調することになる」として、植民地によって刷り込まれた劣等意識を払拭しようと試みた(葵煕莞1977「仮面劇の民衆的美意識研究のための予備的考察」ソウル大修士論文)。このような語りは、公権力に抗う文化としての自文化像を生産するが、同時に「韓国人」という「国民」創出の一翼を期せずして担うことになる。そして、この営みは、その後の韓国社会を変革させる原動力へと導かれる。

 このように、一見対立しているかのように見える政府の文化政策と権力に抗う学生街の仮面劇運動は、互いに反発しながら、微妙に補完しあう関係にあった。それは、朴正煕が望み描いた「国民」ではなかったにしても、「抵抗の文化」を支えた根底には「韓国人的なもの」というナショナリズムが潜んでいた。二度と植民化されない「国家」を待望する深層心理は、なにも一人朴正煕だけに限ったことではなく、その対局にいたと思われている人たちをも支えていたものである。

 仮面劇に関わる語りのなかで、そこに表象される女性や障害者などについての言及がほとんど行われていない。このことは、最も疎外されている民衆をより周辺へ追いやることにならないのか。時代の制約のなかで強調されるナショナリズムは、もっとも抑圧されたものを置き去りにしたまま論じられているように思えてならない。

*本文は青丘文庫9月号に掲載されたものを加筆修正したものである。

(綜合研究大学院大学(国立民族博物館内)博士後期課程)

 

 

第36回 1999年8月6日(金) 18:00~20:00 OICセンタービル4F会議室

年金問題とハンセン病療養所の在日朝鮮人

―国民年金法成立(1959年)から給与金支給(1971年)までを中心に―

金 永 子 

 

 はじめに

 1959年4月国民年金法が制定され、福祉年金については59年11月から、拠出制年金については61年4月から実施された。これによりすべての国民がなんらかの公的年金の対象となるいわゆる国民皆年金体制が実現したといわれる。しかし、国民皆年金体制と言いながらも、在日外国人は排除されていた。国民年金法では、被保険者資格について「第7条(1)日本国内に住所を有する20歳以上60歳未満の日本国民は、国民年金の被保険者とする」となっていて、厚生省は、そこから「日本国籍を有する者」という要件を引き出したのである。

 国民年金以外の被用者保険には国籍要件が付されていなかったために、建て前としては在日朝鮮人も加入できたが、被用者保険の対象となる事業所に就職差別等の理由で就職できなかったために、ほとんどの在日朝鮮人は被用者保険にも加入できず、国民年金にも国籍要件のために加入できなかった。そのため、在日朝鮮人は年金制度にほとんど加入できない結果になってしまったのである。

 国民年金制度における外国人排除の問題は、日本のハンセン病療養所内で顕著に現れた。本報告では、国民年金法の成立がハンセン病療養所で生活する在日朝鮮人にどのような影響や問題を引き起こしたのかについて、国民年金法成立からいわゆる「給与金」が支給されることになった時期を中心に報告する。

 1.ハンセン病療養所の在日朝鮮人

 現在、日本にはハンセン病療養所として13の国立療養所と二つの私立の療養所があり、そこでは約5000人の方が生活している。在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟(以下、同盟)の調べによると、このうち在日朝鮮人は245人(1999年2月28日現在)にのぼる。

 朝鮮人がいつの頃から療養所に収容されたか、その人数が何人なのかを知る資料を持ち合わせていないが、全羅南道出身の金某氏が1922年11月16日に岡山東署から大島療養所に送致され入園しているという記録が残っている(同年11月23日には逃走している)。1910年の「韓国併合」により次第に日本に渡航する朝鮮人が漸増していることを考えあわせると、もっと早い時期から療養所に収容されている可能性があるが、遅くとも1922年には朝鮮人が公立の療養所に収容されていることが大島療養所の金某氏の記録によって確認できる。

 国民年金制度が創設された59年に近い時期の調査を見ると、1960年2月10日現在、療養所には634名の朝鮮人が入所していた。

 1955年3月末には、在日朝鮮人総登録人口数に対する療養所収容者の比は、0.11%となり、総人口に対する日本人収容患者数の比0.011%の10倍注1)にのぼっていた。療養所に収容されている朝鮮人の割合が日本人に比べて高い理由について、日本での強制連行や炭坑などでの過酷な労働とその後の貧困な生活等によると推測できる。また、朝鮮半島での患者数が多いこととも関連していると考えられるが、なぜ朝鮮半島で患者が多いのかを考える必要があろう。植民地支配と関連している側面があるのではないだろうか。

 2.収入の格差について

 国民年金が支給される以前の療養所で生活している者の収入は、「療養慰安金」、不自由で作業ができない者に支給される「不自由者慰安金」、作業ができる者は作業賃、仕送りのある者は仕送りが主なものであった。軍人恩給等を受給する者もいたがごくわずかの入所者に過ぎなかった。1956年7月に全患協が行った調査によると、「一人一ヵ月の平均収入は1,549円、支出は1,829円で、一人平均一ヵ月280円の赤字」注2)であったという結果が出ており、いかに入所者が苦しい生活を強いられていたかが浮き彫りにされている。国民年金の障害福祉年金が当時月1,500円であったことを考えると、国民年金法の成立が入所者、特に「障害」者にとって朗報であったことが理解できる。

 しかし、同じ「障害」者でも国籍のために福祉年金が支給されなかった朝鮮人の場合、逆に失望が大きかった。岡山県にある国立療養所長島愛生園内で発行されていた『朝鮮人』によると、国民年金の障害福祉年金が支給されることになって、「障害」者の1ヵ月の収入が、日本人2,340円に対して朝鮮人840円で、朝鮮人は日本人の三分の一ぐらいになってしまったという。例えば、同室に日本人3人と朝鮮人1人が生活していて、しるこ会をしようということになると、1回目はお金が出せるが、2回目からは朝鮮人だけお金が出せなくなるというように注3)、毎日の生活に収入の格差が覆いかぶさってきたのである。

3.在日朝鮮・韓国人ハンゼン氏病患者同盟の結成

 各療養所には在日朝鮮人の互助組織が作られ、朝鮮人同士の親睦や相互扶助の役割を果たしてきた。1960年には在日朝鮮人の互助組織が10カ所の療養所に作られていた。

 年金問題が生じたのをきっかけに、全国的な組織を作ろうという気運が盛り上がり、1959年12月1日、長島愛生園において在日朝鮮・韓国人ハンゼン氏病患者同盟(現・在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者同盟)が、全患協傘下の全国組織として結成された。初代委員長は、李杓基(大場一雄)氏である。会議では、同盟の名称問題で紛糾したが、最終的には在日朝鮮・韓国人ハンゼン氏病患者同盟となった。在日朝鮮人ハンセン病患者の親睦と融和、横の連絡、民族的・文化的なものを身につけること、年金問題に象徴される民族的・経済的差別から自らの生活と福祉を守ることを目的とした。その後、同盟は年金問題を中心課題にしながら、子どもの教育問題、出入国管理法案改悪反対運動など様々な活動を展開し、現在に至っている。

 4.年金闘争

(1)全患協第4回支部長会議

 全患協にとっても国民年金問題解決が大きな課題であった。1959年8月に岡山県の長島愛生園で開催された全患協第4回支部長会議において年金問題が重要課題となった。同盟の積極的な働きかけもあって、外国人療養者(障害一級該当者、高齢者)に対する援護措置について、厚生省で国民年金に準じた支給金の予算措置を講ずるよう要求することが、全支部一致で議決された。

 この会議では、年金問題とは直接関係はないが、朝鮮民主主義人民共和国への帰国問題についても取り扱われ、帰国希望者については各支部とも人道的立場からその実現のために便宜を計るとともに、残留する人達の立場も考慮することが決議された。

 翌年の1960年11月に青森県の松丘保養園で開催された全患協第5回臨時支部長会議においても、年金拡大について取り上げられ、外国人療養者に対する年金に準じた支給金の予算措置を講ずる要求以外に、法的援護措置の早期実現を要求することが加えられ、議決された。

 1960年11月15日、全患協は諸項目について厚生省に直接陳情を行なった。

 年金支給の1項目に、外国人療養者に対する援護措置、年金に準じた支給金の予算措置、法的援護措置を陳情したところ、厚生省側の回答は「外国人のための法改正の余地はない。もし行われるとすれば、外国人側の意志表示如何にかかっている。年金は日本国民への恩典として行っているのであるから、単に日本に居住しているというだけでは支給されない。省内操作として大蔵省に別途予算を要求することは、結局ハ氏病予算の枠内に入るので他の患者から苦情が出るだろう。本省としては考えていない」注4)というひどい内容であった。

(2)外国人特別慰安金の支給

 運動を繰り広げる中、1962年、格差是正のための外国人特別慰安金(以下、外特慰)が年度末の省内操作で初めて500円支給されるようになった。以後年金の増額にともなって外特慰も毎年100円か200円増額されたが、福祉年金の増額に比べればわずかな額であったために、年金受給者との差額は縮まらずに逆にひらく気配さえあった。

 同盟や全患協の継続的な運動の結果、1969年度から在日朝鮮人への支給額がやっと福祉年金と同額の支給になった。そのことの意義について、「同盟が結成され今日まで十年余を歩みましたが、その間処遇改善の運動を主軸にして同盟員はかたく結ばれて来ました。日本人療友よりも低い、所詮、差別処遇は単に経済的な打撃だけでなく精神的に受ける屈辱でもありました。幸いにも四四(1969-報告者)年度予算では福祉年金受給者と同額の処遇が得られるようになったということは『民族の誇りを回復し得た』という意義でもありました」注5)と、当時の同盟本部役員は総括している。長島支部では、日本人と同額になったことを祝った会が開かれた。

 おわりに

 1970年8月6日、らい調査会が厚生大臣に答申を提出した。その中で、年金問題について、「問題処理の発想をこの際新たにし、拠出制年金、福祉年金、恩給等の諸年金が本来自用費として使用されるべきものであることを前提として、(略)入所者が自分の発意と自由な決定でその使途を決めることのできる費用の枠として、拠出制国民年金の障害年金の額(1級1万円)に相当する程度のものを設定する。この枠は拠出制年金の額と見合ったものとするが、同時に前記の額が動かない限り変えないものとする」注6)という方向を打ち出した。

 このらい調査会答申によって71年度より「自用費」方式の給与金制度となり、この給与金を一律に支給することによって、療養所内の年金差別は一応「解消」した。しかし、国民年金法の国籍要件の問題は残ったままである。同盟はその後も継続して国民年金法の国籍要件の問題に取り組んできた。

注1 法務研修所編『在日朝鮮人処遇の推移と現状』湖北社、1975年、223頁。

注2 全国ハンセン氏病患者協議会編 『全患協運動史』一光社、1977年、113頁。

注3 金奉玉(金子保志)さんと李衛(国本衛)さんのお話。1998年9月23日、金奉玉さん宅にて。

注4 『全患協ニュース』164号(1961年1月15日)

注5 同盟支部報第115号(1969年3月20日)

注6 『全患協ニュース』第365号(1970年8月15日)

(四国学院大学)

 

 

第37回 1999年10月4日(月) 18:30~20:30 OICセンタービル4F会議室

通貨危機後の韓国財閥における構造改革

高 龍 秀

 

 1.通貨危機と韓国財閥の構造改革課題

 1997年の韓国通貨危機は、財閥の過剰借入による過剰投資と、早すぎた金融の自由化を背景とした金融機関の過剰な外貨借入という国内問題を起点としていた。さらに、1990年代に膨張した国際資本が急速にアジア諸国に流入し、短期に流出したというグローバルマネーの動きが危機を増幅させたといえる。

 通貨危機の原因の一つとなった韓国財閥の構造的問題として、以下の点が指摘されてきた。(1)政府の政策金融に沿った銀行借入に依存してきたために、負債比率が高い。(2)主要財閥が1970年代以降、重化学部門に急速に進出し、広範な産業部門に多角化を進め、いくつかの産業で過剰投資を引き起こしたこと。(3)財閥総帥に所有と経営支配権が集中し、牽制機能が作動しないというコーポレート・ガバナンスの問題がある。

 しかしこれらの70年代からの経済システムの問題が通貨危機の原因となったのではなく、90年代の経済システムの変化が通貨危機の原因を形成した。80年代からの金融自由化により、金融機関の対外借入が容易になった。また同時期に政府の産業政策は後退し、新規参入への政府規制が緩和され、財閥は第2金融圏(証券会社・生命保険・マーチャントバンク)借入や直接金融、海外での転換社債など、独自の資金調達を多様化させた。こうして拡大志向の財閥に対する政府の規制が解かれ、財閥が独自の資金調達を活発化させたことが、財閥の過剰投資・過剰借入の原因となった。

 2.財務構造改善と過剰多角化解消のためのビッグディール

 大統領選挙に当選した金大中氏は98年に銀行を通じて財閥の財務構造を改善させるという手段をとり、財閥の財務内容をよく知る主取引銀行に53大企業集団と財務構造改善協約を締結するよう求めた。その後、銀行は各財閥系列社の財務構造改善計画を精査し、再生不可能な企業55社を整理した。今後、銀行を軸とした企業改革が進められている。

 さらに12月には<1>系列会社を271社から2000年までに136社に半減、<2>1999年末までにグループ全体の負債比率を200%に改善と合意し、財務構造の改善が促進された。

 過剰多角化を解消するために、政府は大規模事業交換(ビッグディール)により各産業での参入企業の集約化を図った。98年9月に全経連は、7業種の財閥再編案を発表した。さらに12月には三星自動車と大宇電子とのビッグディールが合意されたが、いくつかの業種では交渉が進展せず、99年6月には三星自動車が「法定管理」を申請するなど経済力の温存を図る上位5大財閥の改革は難航している。

3.韓国財閥のコーポレート・ガバナンスの問題と改革方向

 韓国財閥の株式所有の特徴は、総帥一族と系列会社による内部所有の比率が1997年に43.0%と高いことである。数十の傘下企業からなる財閥では、重役の人事権、新規事業の投資決定で実質的所有者が最終権限をもち、経営者支配が定着しているとは言い難い。韓国では持株会社が禁止されており、数十の傘下企業を統括する手段として機能したのが、グループ会長制度と会長秘書室などの機構である。グループ会長が役員人事権と新規事業の投資決定という重要事項で決定権を持つが、傘下企業の代表取締役に就いていないため経営に関する法的責任を問われない。またグループ全体の重要経営事項の調整は会長秘書室などで行われ、その決定事項は、社長団会議を通じ意思伝達されてきた。このトップダウンの体制は、キャッチアップ段階には迅速な意志決定とグループ全体の経営資源を戦略部門に集中する機能を果たした。しかし、個別傘下企業における取締役会は経営監視機能の役割を果たせず、株主総会の独立した決定権や監査役の役割も形骸化されてきた。通貨危機後もこの財閥の内部統治の問題が改善しておらず、最大の課題となっている。

<参考文献>高龍秀『韓国型経済システムと通貨危機』東洋経済新報社、2000年2月(予定)。「韓国企業のコーポレート・ガバナンスと財閥改革」『甲南経済学論集』第40巻第1号、1999年6月。

(甲南大学経済学部)

 

 

〔科学技術部会研究会報告〕

第18回 1999年7月3日(土) 14:30~17:00 OICセンター4F会議室

コンピュータウイルスについて

金 昌 一 

 

 近年のインターネットの急速な普及によって、通信ネットワークを通じて全世界のコンピュータがコンピュータウイルスに感染する可能性があるという深刻な問題に直面している。今やそれを駆除するワクチンソフトはOSと同様に不可欠なものになっている。

コンピュータウイルスとは

 コンピュータウイルスとは、プログラムに寄生する極めて小さなプログラムであり、それは自分自身を勝手に他のプログラムファイルにコピーすることにより増殖し、コンピュータウイルス自身にあらかじめ用意されていた内容により、予期されない動作を起こすことを目的とした特異なプログラムである。

コンピュータウイルスの定義

 通産省の「コンピュータウイルス対策基準」においては、コンピュータウイルスを、『第三者のプログラムやデータベースに対して意図的に何らかの被害を及ぼすように作られたプログラムであり、以下の機能を一つ以上有するもの』として定義している。

①自己伝染機能 自らの機能によって他のプログラムに自らをコピーし又はシステム機能を利用して自らを他のシステムにコピーすることにより、他のシステムに伝染する機能

②潜伏機能 発病するための特定時刻、一定時間、処理回数等の条件を記憶させて、条件が満たされるまで症状を出さない機能

③発病機能 プログラムやデータ等のファイルの破壊を行ったり、コンピュータに異常な動作をさせる等の機能

コンピュータウイルスの感染症状

 コンピュータウイルスに感染すると、次のような感染症状を示す。

・音楽を演奏する。

・異常なメッセージを表示する。

・画面表示が崩れる。

・システムが立ち上がらない。

・システムの立ち上げに異常に時間がかかる。

・システムがハングアップする。

・ユーザの意図しないディスクアクセスがおこる。

・ファイルが削除、破壊される。

・ディスクが破壊される。

 ウイルスの有無を確認する方法の一つとしては、一般にコンピュータウイルスがファイルに感染すると、ファイルを書き換えるのでシステム内のすべてのファイルサイズやファイル作成日をチェックすることによって発見できる場合がある。しかしながら、ウイルスによってはファイルサイズやファイル作成日をごまかす場合もあり、この方法で全て発見できるわけではない。従って、ワクチンソフトを使用することによってウイルス感染を確認する方法が最も効果的である。

感染防止7ヵ条

 いつコンピュータウイルスに感染してもおかしくない現状において、感染を防ぐために最低限、つぎのことは必ず実行すべきである。

①最新のワクチンソフトを使いウイルス検査を行う。

②万一のウイルス被害に備えるため、データのバックアップを行う。

③ウイルスの兆候を見逃さないようにし、ウイルス感染の可能性が考えられる場合は、ウイルス検査を行う。

④電子メールの添付ファイルはウイルス検査後開く。

⑤ウイルスが感染している可能性のあるファイルを扱う時はマクロ機能の自動実行は行わない。

⑥外部から持ち込まれたフロッピーディスク及びダウンロードしたファイルはウイルス検査後使用する。

⑦コンピュータの共同利用時の管理を徹底する。

デジタル世界の免疫ネットワークシステム

 新しいウイルスが続々と発見されている現状において、コンピュータウイルスへの対処法は自動化が不可欠である。

 脊椎動物の免疫系では、未知の病原体にさらされてから2、3日以内に免疫細胞が作られるのと同様に、新種のコンピュータウイルスに対して、それを認識して駆除する免疫ネットワークシステムを構築すべきである。

コンピュータウイルスとの共生

 生物界において寄生生物と宿主が共に進化しているのと同じように、インターネットというオープンな世界では、コンピュータウイルスを絶滅させることはできない。今後コンピュータウイルスは、ワクチン技術とともに進化しつづけるであろう。

(大阪情報コンピュータ専門学校)

 

中国の情報化

――コンピュータ産業――

辛 在 卿 

 

 第1世代と第2世代のコンピュータの自主開発をめざした中国は、当時としてそれなりの成果をあげ、そこで開発されたコンピュータ技術は中国における原爆の開発にも貢献したといわれている。1960年代にIBM360が市場に出回ると、360、370などとの互換機の開発に着手するが、それは成功しなかった。1980年代、開発の中心は中・小型機に移り、汎用コンピュータについては、その利用が研究の対象になった。第7次5カ年計画の初年度(1985)からは、専らPCの開発に力量が注がれることになった。

 中国における初期(1986~90)のPC市場では、国産メーカーが70~80%のシェアを占めていた。しかし、1990年代に入ると、ATS、コンパック、IBMなどの攻勢によって、国産機のシェアが低下し、1994年には24%にまで落ち込んだ。その後、国産メーカーは外国企業との幅広い提携によってシェアを回復させ、1997年にはPCの総販売台数340万台の約60%を占めるようになった。

 ここで注目されるのは、「北京聨想計算機集団公司」が国内のデスクトップ市場の10%近いシェアを占めて第1位となり、外国メーカーから主導権を奪い取ったことである。「北京聨想計算機集団公司」は、1984年中国科学院計算機技術研究所によって設立された企業である。1990年以降、自社ブランドを販売、1993年には中国で初めてペンティアムマシンを出荷している。1996年の時点で、同社は従業員3,000人、海外21支社、国内26支社を擁するところとなった。北京のパソコン工場は、現在日産1,000~1,200台を生産しているが、2000年の生産目標は年産100万台としている。同社は極めてリアルな対応をしており、米マイクロソフト社と提携関係を結んで、1997年から主要コンピュータ製品のすべてにウィンドウズ95(中国語版)を搭載している。

 中国のPC市場でかなりのシェアを占めているのが、「兼容機」とよばれるノーブランド機である。日本の秋葉原や日本橋に匹敵する北京の「中関村」にはノーブランド機組立店が軒を並べている。しかし、そのシェアは1995年から96年の一年間で31%から20%に低下した。それは、ブランドメーカー各社がアフターサービスに力を入れるようになったこと、政府がノーブランド機の排除に乗り出したことなどが原因と見られている。

 中国におけるインターネット普及状況をみれば、ネットワークに加入したコンピュータの台数は54.2万台(直接ネットワークに接続されているコンピュータは8.2万台、ダイヤルアップで接続するコンピュータは46万台)、ユーザ数は117.5万人(直接ネットワークに接続するユーザ32.5万人、ダイアルアップユーザは85万人)となっている。

 中国には次の4大ネットワークが存在する。即ち、中国科技網(CSTNet、中国科学研究ネット)、中国公用計算機互聨網(CHINANET、郵電部ネット)、中国教育和科技計算機網(CERNET、国家教育委員会ネット)および中国金橋信息網(CHINAGNB、税関業務・国際貿易情報、カード、国家経済信息)である。

 1996年、国内のインターネットのインフラがある程度整備され、情報サービス業が始動した。全国で100以上のプロバイダー(2次)が存在し、そのうち、約50社が北京にある。中国4大ネットは直接海外と接続しているが、2次プロバイダーはそれらを介して海外とつながっている。大部分のプロバイダーは、郵電部が受発信双方から費用を徴収しているため、経営的に成り立っていない。また、一般ユーザが支払う費用も給与水準や物価に比べて相当高いというのが現状である。

 1998年6月時点で、全国電話普及率は9.55台/100人、うち都市の電話普及率は27.51台/100人、携帯電話の普及率は1.50台/100人となっている。

 1998年1~6月の半年間だけでも、固定電話の番号登録件数が1,498万件、携帯電話の登録件数は545万件である。これらの数字は、中国においても非常に速いスピードで携帯電話が普及していることを物語っている。

 通信インフラに関する今後の課題のひとつは、通信容量を拡大することである。中国の長距離光ケーブルの長さは82万キロ、長距離電話回線は131万回線に過ぎず、現在通信容量の不足がボトルネックになっている。もう一つの課題は、インターネットの情報ハイウェイの構築である。中国で期待できるのは、市内電話網とケーブルテレビ網である。中国のケーブルテレビのユーザは5,000万に達しているが、単方向性で、かつ遮断性に問題があるため、インターネット網としては使用できない。その装備をそっくり取り替えようとすれば、ユーザの装備費は現在の10倍、月間使用料は約20倍にもなり、一般のユーザには手が届かないということになるだろう。

 以上のように、中国におけるPC市場、インターネットの普及および電話事情を中心に報告をした。

(京都経済短期大学)

 


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済州島報告②:スヌンと開発特別法

文 京 洙 

 

 昨日、済州市に住む姉の小さな畑でとれたミカンを口にした。少しすっぱい。今年の夏は、例年になく大雨がつづいて日差しに恵まれず、多少、甘味が落ちるのだという。その大雨に祟れた夏もおわって、いまは、枯葉の季節。宿舎のあたりも、イチョウの黄色い落ち葉が道をおおい、枯葉を踏むさくさくとした感じが心地よい。江原道など韓国北部の方は、もう大雪だそうで、ニュースは、盛んにこれを「イプシ・チュイ」(入試冷え)と呼んでいる。そう、明日、11月18日は、「スヌン・試験」の日なのである。

 「スヌン」と言われて、ピンと来る人は、けっこう韓国通かもしれない。じつは、私は、この言葉をまったく知らなかった。済州に暮らし始めて、こちらの者であれば誰でも知っていて自分だけわからない、といった言葉にときどき出くわす。この「スヌン」もそんな言葉の一つで、正式には「大学修学能力試験」、しいていうと日本の「センター入試」にあたるが、テレビ・新聞の報道を含めて、これをフル・ネームで呼ぶことはまずない。

 「スヌン(修能)」は94年に、受験競争の緩和を目的につくられた制度だそうで、大学受験生のほとんどすべてがこの関門を通らなければならない。済州でも明日は1万452人の受験生がこれに臨むことになっている。韓国での入試風景は、一種の風物詩で、銀行や50人以上の企業は、受験生のために出勤時間を遅らせ、警察は総出で受験場近くの交通整理にあたり、済州では、受験中の航空機の離着陸をひかえさせるという。112番(韓国の110番)に電話をすると白バイが遅刻しかけの受験生をはこんでくれるそうだ。社会がこぞって受験生を励まし、護り、支援する、といった感じで、一見、温かくほほ笑ましくさえあるが、この「スヌン」の成績を苦にして自ら命を絶つ子供も少なくないという。その底流にあるのは、やはり、なんとも厳しい競争社会の現実にほかならない。

 韓国は、いま、ひどく競争の際立つ社会になっている。イデオロギーの季節が後景にしりぞき、新しい「国民の政府」(金大中政権)も成立して民主化にそれなりの目処がたったということなのかもしれない。「IMF事態」という経済のどん底から這い上がるには、世界市場での競争にうちかつ強い意思と血のにじむような努力が必要だったろう。さらに、競争は、地方自治の時代の地域開発にも微妙な影をおとしている。

 前回の報告で、四・三事件と済州島開発の二つの特別立法をめぐってこの島がゆれうごいていることを紹介した。二つとも、国会での折衝が大詰めの段階にあるが、じつは、「済州道開発特別法」をめぐって江原道の自治体からけちがついたのである。この特別法そのものは、すでに(91年の11月)、2002年までの時限立法として国会で採択されているので、いま問題となっているのは正確にはその改定問題である。しかし、91年の頃には、中央政府主導のこの特別立法をめぐって、朝鮮戦争以後では最大規模の島民の反対運動があり、法案の採決も与党(当時は金泳三民自党)単独で強行されている。島の住民は、この特別法が「道民の利益に反する財閥特恵法」だとして異議を唱えたわけだが、当時は、連日の集会やデモにくわえ、焼身自殺は出るは、学生が警察署に火炎瓶を投げ込むは、まさに上を下への大騒ぎだったようである。

 そういういわくつきの法律なので、95年の地方選挙から民選となった道行政を主体に島の住民の意志にそくしてあらためてこれを作りなおそう、というのも当然といえば当然であった。しかも、この間に済州島の「国際自由都市」としての発展への期待がたかまり、それにみあった法律の見直しも求められたようである。

 江原道の方は、この改定法案が空港やターミナルに小型カジノをもうける項目を含んでいることに反発しているのである。そしてその江原道は、済州道とならんで、かつての軍事政権の開発政策では観光地としての役割がふりあてられ、ある意味では湖南(全羅道)地域以上に冷や飯を食ってきた低開発地域である。韓国のそれぞれ南端と北端に位置するこの二つの道は、いまや、観光を地域開発の目玉として、観光客の誘致にしのぎを削る関係にある。こうして、江原道では、済州道の開発特別法反対のキャンペーンが大々的におこり、これに対して済州道では法律制定のための「非常対策本部」がつくられようとしている。つまり、韓国ではこれまで疎外されてきた二つの地域が観光開発をめぐって競い合い、しかも、その争点がカジノというわけである。そんな時代なのかもしれない。

 いうまでもなく、観光は、ミカンとならぶ済州島の重要産業であるし、その開発は、91年の特別立法の頃とはちがって、この島の住民の下からの願いをそれなりに映し出している。そういう開発をめぐる島の人びとの熱気になんとなく腰が退けるのは、言ってみれば、在日としての私の、第三者的な冷たい目線や至らなさのせいなのだろうか。

(立命館大学)

 


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〔国際高麗学会日本支部第6回評議員会〕


第6回評議員会が1999年11月20日、OICセンターにおいて開催された。まず滝沢秀樹代表より挨拶があり、引き続き事務局より1998年度の活動・会計ならびに1999年度の事業計画・予算案が報告され、承認された。そして、論文集の刊行、財政、会員拡大などについて議論が交わされた。また、東日本人文社会科学研究会の活性化をはかるため、新たな評議員として辺英浩氏が指名され、承認された。

 

〔国際高麗学会日本支部 第4回総会〕

 第4回総会が1999年11月21日、大阪府社会福祉会館にて第4回学術大会終了後に開催された。第6回評議員会で提議された内容が報告され、承認された。

 

編 集 後 記

◇今号は11月21日に開催された日本支部第4回学術大会の特集号です。

 諸先生方が限られた時間内で行われる報告には、長年研究されてきたテーマが珠玉のごとく凝縮されています。遠方からの参加者も含め、真摯な姿勢で大会に臨まれた皆さまには心から敬意を表します。

◇人類はいよいよ2000年に突入します。20世紀は有史以来、人類が夢みてきた事柄が次々と実現した画期的な時代でありましたが、同時に未曾有の惨禍を経験した混沌の時代でもありました。

 新しいミレニアムの幕開けを迎えるにあたって、より良き世界の創造のために、今後知識人の使命と役割が一層重要になっていくことを実感します。新年が会員の皆さまにとってより有意義な年となりますようお祈り申し上げます。(K)