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국제고려학회 일본지부 소개

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日本支部通信

第11号 (1999.7)

巻頭言

 朝鮮近代史研究の最近の傾向について

高 秉 雲

 

 近年、日本においても朝鮮の研究が盛り上がりをみせている。
それは、日本の各大学に朝鮮語学科、朝鮮講座などが設けられるようになったし、また、朝鮮史研究会、朝鮮学会、国際高麗学会、植民地研究会等の学会が、その活動を着実にのばしているのをみても分かる。
それにつれて、当然のことながら若手の研究家、専門家が輩出していることは、嬉しいことである。
韓国において、日本の朝鮮植民地支配史の問題について、論争が盛んに行われているようである。
このように、新しい問題が次々と提起される時代の節目には、エセ論客が蔓延ることは、歴史の必然ともいえるが、こんな時こそ軽挙妄動することなく真摯に行動したいものである。
最近、韓国、日本の一部の学者の中に、「自由主義史観」者が現われたり、「朝鮮土地調査事業」や「朝鮮林野調査事業」が朝鮮の近代的な土地、林野の所有関係を成立させるのに貢献したとする「理論家」たちが現われたことは、まことに残念なことである。
日本が、朝鮮を武力支配するやいなや、まず第一に着手したのが「朝鮮土地調査事業」であったが、その目的は土地の「所有権の問題」すなわち「土地収奪」が中心にあったのは言うまでもない。
歴史上、植民地支配において栄光の帝国主義は出現しなかったし、今後もけっして出現しないであろう。
このことは、朝鮮人民が身をもって体験していることである。
朝鮮人民は、日本帝国主義に甘い期待をかけるほど愚鈍な人民ではないのである。
日本が朝鮮を植民地化した目的は、果たして朝鮮を裕福な近代国家に建設するためであったのだろうか。
日本の「土地調査事業」や「林野調査事業」が強行されるやいなや、何十万の朝鮮農民は、生きるために耕地を求めて中国の東北地方へ、日本の土木労働現場へ、また国内では火田民として深山奥地へと、流浪の旅に出なければならなかったのであるが、この歴史的事実は何と説明すればよいのであろうか?
そしてまた、1930年代の「朝鮮工業化」論である。
1930年代といえば、日本の「国家総動員体制下」で侵略戦争に備えるために、長期的な非常措置として侵略戦争に必要なすべての物資、および人員に対する軍事的、警察的な統制、管理動員の権限をあらかじめ包括的に権力が掌握するという官僚専制、軍事独裁を基本とするファッショ体制下である。
ここでは、植民地人民の基本的人権のすべてが完全に否定され、奴隷化された下での軍部経済、兵站基地経済であったのである。
ご承知のごとく、この体制下ではすべてが軍の命令の下に動員されるのである。
このように、非常事態の軍事経済下での統計数字(資料)に、どれほどの信憑性を期待すべきであろうか?
歴史科学、特に植民地支配史学の党派性、民族的特性を考えるとき、我々の歴史研究の目的は奈辺にあるべきなのであろうか?
支配民族も被支配民族も、この歴史研究からの貴重な教訓を学びとらなければならない。
この場合の歴史科学は、支配民族の歴史家も被支配民族の歴史家も、そろって被支配民族の観点、立場からの研究を尊重することが重要なのである。
そうでなければ、他民族支配史・侵略史研究の基本的目的である歴史的教訓を引き出すことが、不可能であるからである。
侵略史における史料の信憑性は、非常に重要である。
しかし、いかに貴重な史料をもってしても、その研究者自身が帝国主義支配者の立場に立つのか、あるいは支配された側の立場から史料を評価分析するのかによって、本質的なものか副次的なものであるかが決まるのである。
植民地支配史の場合、史料といえばほとんどが官憲史料なのであって、他には史料を得にくいのが現実なのである。
従って、いかに貴重な史料、根本史料といっても研究者本人の史観、立場にかかっているのはいうまでもないのである。
また、一部の若手研究者の間で問題になっている「開発独裁論」についての問題である。即ち「軍事独裁政権」がなかったとすれば、韓国の経済開発は不可能であったとする「理論」である。
すると、ヒットラーのアウトバーンも、戦後ヨーロッパの経済建設に利用されたので、必要悪として評価されるべきものなのかどうか?
歴史が証明しているごとく、帝国主義に期待をかけることは、虎の前の兎に無事を願うのと変わらない。
帝国主義、侵略史に対する本質的把握が甘すぎると言うと言い過ぎになるだろうか?

(国際高麗学会経済部会委員長 大阪経済法科大学客員教授)


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【特別講演会報告要旨】

 1999年2月27日(土)15:00~17:00 OICセンター 会議室

 

客員教授として3ヶ月湖南大学校(光州)に滞在して
張 年 錫 

 

 1998年3月末、大阪電気通信大学を定年退職し、同年4月に大阪経済法科大学科学技術研究所の客員教授に就任した。電通大に在職中、湖南大学校との提携関係やその他のことで、湖大に1年あるいは半年間程度客員教授にとの依頼があったので、経法大の了承を得て3ヶ月間そちらの大学にお世話になることになった。
滞在期間中、湖南大学校情報通信工学部の教育や卒業年次学生の卒業研究に強い関心を持った。そして、情報処理の研究が非常に盛んであることを知った。ほかにも衛星を利用した同報通信教育について、湖大が基地局となり、8つの大学が合同で教育を進めている。身近なことで、私が住んでいたマンションでの経験や2、3の教員による大学の裏山を登山したことなどについてふれる。
卒業年次の学生になると、卒業研究を行なう研究室もあるが、概して、研究熱が高いというほどではなかった。卒業試験だけで判定しているところもあり、2、3の学生が特定の先生に個人的に交渉して研究させてもらうところもある。また、必要な単位は別に試験を受け、成績判定している。今のところ大学院に進学する学生は比較的少なく、卒業研究は当該教員と共同研究の形を取っていることが多い。
参考のために、ここで教員の昇格ルールを見よう。もちろん、国公立と私学の場合、いくらか差があると思われる。講師を5年間務めると、次のポストは助教授である。その必要条件として、研究業績が主たる要件ではなく、勤務年数が主要ファクターのようだ。同じように5年後に大体副教授に昇格する。この段階でも特に厳しい業績チェックはなく、大学紀要論文だけでも認められることがあるという。教授昇格の場合も大同小異で、年数はやはり5年であり、国の内外の学術雑誌への投稿が絶対条件ではないとも言う。
一方私学の場合、理事長の判断が重要な要素で、年齢を重くみる傾向が見られ、儒教の考え方が反映しているようにも見える。ほかに公募による場合があるが、日本とはかなり異なっていて、教授の権限が強く、機械的に年齢が大きな比重をもち、競争原理が適用されてないところがあるようだ。単純な思い付きであるが、科挙のよい点が適用されればとも思う。
私が寄宿したところは、光州広域市光山区素村洞(光州空港に近い)で、12階建てのアパートが7棟、湖大の先生と共同生活するようになった。特別に動機があったわけではないが、こんな老齢で一人で生活するのは、精神的に孤独になりやすいのではないか。いろいろと考えた挙句、一緒の共同生活の方を選んだ。大学側ではホテルを利用しても良いことになっていた。この村で、まず気が付くのは子供がたくさんいることと、週末ともなると、夜の10時頃でも子供たちが歓声をあげて遊んでいる。とても迷惑と思うのだが、だれ一人としてとがめる人はおらないようだ。私が滞在中2度ほど大人どうしの喧嘩があったが、大げさに言うと、アパートがぶっ飛ぶほどの大声と騒ぎである。君子危きに近よらずで、知らん顔をしていると、10時ぐらいになって、やっと収まったようであった。これと類似のパターンが日本では見られそうにもないが、韓国の一面を見たような気がした。
アパート横の道路にはかなり広い歩道がついている。ここはインターロック方式になっているが、工事が丁寧でないため、部分的にバラバラで、一部がはみ出しているところがあって、平らでない。なぜこんなことが起きるのだろうか。私の推定では、ブロックの下部がほとんど固められてなくて、機械的に土や砂を盛って仕上げたために、短い期間はもつとしても、日がたつにつれて、デコボコになってしまったのではないか。その点もさることながら、私が8月末から11月の終りまで、3ヶ月の間、そこを通って近くの食堂に通ったのだが、手を入れる様子はなかった。片寄った意見かも知れないが、仕事をする人も人、それ以上に行政がきちっとしていない点など、残念だが、私がその理由を解明する立場にはない。
去年、文教部による大学の監査が実施された。大学当局は大いそぎで、建物や学校の塀などの修理や新設などを行なった。外見上はカッコがついて見えるが、近づいて見ると頭をかしげるところが目につく。私がチェックすることもないのに、なぜそこまで気にしたのだろうか。1995年6月27日、三豊百貨店の崩壊事故により、500名にのぼる多くの人命が犠牲になった事実があった。どうして、そんなにも大きな事故が起きたのだろう。手抜き工事なのか、それとも材料に欠陥があったのだろうか。よその国でこのような例がどれぐらいあるのか知らないが、とても残念なことは、多くの尊い人命が犠牲になったことだ。
事前にこれという約束もなしに、互いに声を掛けあい、私を含めた情報通信の先生方3名が、大学の裏山、魚登山(336m)に登ることになった。私は山の名をとてもユニークに思い、両先生に聞いたところ、かの有名な木浦の港に流れこむ栄山江の支流の1つが、魚登山麓の川、黒龍江になっているという。この川には魚があまりにもたくさんおったので、魚が山に登ったという伝説に由来するのだと言う。山道を登りながら左右を眺めると、土盛りのお墓がたくさん目につく。立派なお墓は草や雑木など刈り取られたところに、石碑が立っている。世代の交替と共にほとんどかえりみられないようなもの、ほぼ完全に土饅頭部分が識別できないものもある。恐らく、子孫への継承が不可能になったという意味だろうか。いわゆる儒教のルールで、お墓について言えば、想像しがたいほど、大きく変わっている。約2時間位でやっと頂上についた。大学のキャンパスは見えなかったが、茫茫絶佳とは言えないまでも、光州空港がかすかに眺められ、悠大に広がる湖南平野を見渡せる気分は悪くない。例のアパート群があちこちと点在している。その向こうに、光州市民の聖地とも言える、周辺で最も高い無等山(1187m)が聳えている。意味ありだが、この山の名のいわれについてはふれないことにする。往復3時間余の山登りは適当に汗をかき、とても爽快であった。
湖南大学では衛星遠隔教育を行なっていて、韓国の無窮花衛星を使い、当該大学を発信基地として、8つの大学が同報通信教育を行なっている。現在は法文経系が中心である。受信側受講学生の質問等については、直接基地局にアクセスする形式を取っている。
以下では通信システムに関することが主題ではなく、衛星遠隔教育の一例として、1998年9月24日、現在、日本政府公使で、外務官として38年間韓国に居住された、町田貢氏の同報通信による講演タイトル「日本的思考と韓国的思考」について、その内容の一部を簡単に紹介するにとどめる。
○日本人の価値判断
打算的である。確実なものを作る。追求心が強い。日本は和の文化を大事にする。世界的に恐れられている。サッカーで見る限り日本人はグループ化する。日本人が韓国旅行では行列を作る。また、日本人は1人では不安でリーダーを欲しがり、コントロールされるのが好きである。日本では村で常会をする。協力してやるのが常識であるが、ルールを守らない人は除かれ、村八分にされる。
○一方、韓国人の場合
面子を大事にする。とても自尊心が強い。一般に個人プレーをするし、これが中心である。韓国人は行列を作らない。きめたことを守らない。
○日本人の団結心は、忠義は孝子、義理、仁義は人情と恩義、誠実は自重、妥協であり、我慢し意見を出さない。日本人の個々は弱いが協力心が強く、国をと言うとき特に、その力を発揮する。講演者はこれが日本人の特性であると強調する。
○韓国人の特性は親戚、地域や同窓等がグループで行動するとき、大きな力を発揮する。
30年間公使として韓国で勤務した町田氏曰く、日本の公務員は自信を持って仕事をしている。日本の大会社の社長住宅は概して小さい場合があると言い、自分が30年間韓国でやれたのはプロ意識がそうさせていると。一方、氏は韓国人に対して次のように指摘する。韓国人はパワーはあるが、努力が不足していて、この意識の不足点はどうしようもないと。日韓の若干の比較を見ると、新幹線について日本は1960年に導入、これに対して韓国は1992年にスタートしていて、32年の差がある。オリンピックの開催では日本が1964年で、韓国は1988年、24年の遅れ、所得で見ると日本の1984年のそれに対して、韓国は1996年で同じ値に達している。すなわち12年の遅れである。この比較は単純なもので厳密ではないが、参考になるだろう。なぜこれだけの差がついたのだろうか。講演者は韓国人のプロ意識の不足が災いしているし、両班の考え方がロスを引き起こしたと見る。さらに強調しているのは、日本の心は茶道であり、生花は日本の世界的なプロ精神と言える。そして、日本女性が作ったタマゴッチの威力は素晴らしいアイディアであると明言する。そして、最後に国の将来を動かすのは若い人たちで、大学を出ていない人たちの力であると言えると。
短い期間の湖南大学校滞在であった。おなじ同胞としてお互いの気持ちが通じたと思っている。大学で1月ほどたった頃、3、4年の男女学生数名が日本語を教えてほしいと申し入れて来た。私はとても嬉しくなって、一緒に勉強しようと同意した。週3回とレギュラーの方が週4コマだったので、ソコソコのロードであったが、少しでも、彼らの役に立てばとの気持ちが私を前へと駆り立てる。湖南大学校を離れるとき、男女学生たちがそれぞれの気持ちを手紙に託しながら、気をつけてお帰り下さい。そしてありがとうの声は、込み上げる感動の気持ちが年老いた老人の胸を熱くした。  1999.5.27

(大阪経済法科大学客員教授)

 


【特別講演会報告要旨】

 1999年5月12日(水)15:00~17:00 OICセンター 会議室

 

ポスト冷戦時代におけるロシアの北東アジア政策
アレクサンダー・ボロンツォフ

 

 私の意見では、大韓民国とロシア間の相互関係の現状は、包括的なアプローチを土台にして考察されるべきである。それは、現在の諸問題や最近の出来事の否定的効果に加えて、両国の対外政策において変化しつつある戦略的要因と、グローバルな政治・経済状況の影響に対する検討を含んでいる。
最初の点に関して言えば、ロシアの対朝鮮政策及び大韓民国の対モスクワ政策は、1990年代後半において本質的改革を経験している、ということが強調されるべきだ。私の見方では、1990年代のロシアの朝鮮政策は二つの時期に分けることができる。1991年から1994年の終わり、そして1995年から現在までである。
最初の時期(1991年から1994年の終わり)は、ピョンヤンからの乖離ならびに北朝鮮との利害関係の劇的な削減という一貫した方向を同時に伴った、相互のつながりの全分野におけるソウルに対するモスクワの全く一方的な方針決定によって特徴づけられる。そうしたアプローチは、朝鮮半島に対するロシアの影響力の実質的な低下をもたらした。朝鮮問題に関する4者協議の枠組みからのロシアの除外は、この傾向の明白なしるしの1つとなった。
第2の時期、特に学識者であるE.プリマコフが外務省に事務所を構えた後は、朝鮮半島における影響力の相関関係を変化させるロシアにとって好ましくない傾向を中和させることをねらったロシアの指導者の積極的な努力によって特色づけられる。そうした政策的枠組みの中で、モスクワは朝鮮半島の2つの国家に対するよりバランスのとれたアプローチ(それは等距離を意味しない)を再構築しようと努力している。
現在、大韓民国とロシア連邦との関係発展は、過去2年間のあいだにその勢いを失ってしまっている、と見る者もいる。私はこうした評価には同意できない。まず第一に明確な理由によって条件付けられていた最近の相互関係は、2、3年前ほど活発ではない。そうした事実にもかかわらず、2つの国家は、好ましくないグローバルな経済状況、それぞれの国の厳しい財政危機、そして昨夏のスパイ・スキャンダルのような非常に深刻な挑戦に立ち向かうことに成功した。
スパイの話をよく検討してみた結果、私はその事件の重要性が双方の国家、とりわけマスメディアによって過剰評価されたと確信している。不幸にも常に思慮深い対応や公式の回答であったわけはなく、情報のつまらない暴露、特にスパイ事件に対するマスコミの度が過ぎた感情的理解が、二国間関係の広い構造について双方の情報機関の間に起こったプライベートな特別な問題を深刻な高いレベルの指導者を巻き込むまでに広めた。
結論として私は次のことを強調したい。大韓民国とロシアの二国間関係は現在最良の時期を過ごしているわけではないが、その関係はより現実的で成熟したものになりつつある。双方の国家の指導者はもはや、互いの経済的キャパシティや政治的動機に関する何らかの幻想や過剰な期待を抱いてはいない。二国間の関係が、互いに対する幾ばくかの複雑な失望感を乗り越え、現在の出来事から教訓を学ぶのに成功するだろうことを私は信じたい。そのことは、未来における建設的な信頼関係の発展のために非常に重要であるだろう。そうした観点からは、この非常に好ましくないスパイ・エピソードでさえ、我々の国家間の相互関係が円熟しつつあるという一つの証左と見なされるかもしれない。

(韓国外国語大学校国際地域大学院・客員教授/ロシア科学アカデミー東アジア研究所)

 

 

〔西日本地域研究会報告要旨〕

第34回 1998年12月14日(月) 18:00~20:00 OICセンター 会議室

 

在外朝鮮民族の歴史と現状
高 賛 侑 

 

 昨年12月14日、国際高麗学会日本支部第34回西日本地域研究会で行った報告「在外朝鮮民族の歴史と現状──旧ソ連の高麗人を中心に」の要旨をご紹介したい。

 現在、世界には520万人の在外朝鮮民族が存在する。中国に196万人、米国に185万人、日本に66万人、独立国家共同体(旧ソ連)に45万人であり、その数は朝鮮民族全体の7%以上にのぼる。
1)中国の朝鮮族
まず中国の朝鮮族をみると、吉林省・黒龍江省・遼寧省の東北3省に大半が集中している。歴史をたどれば、19世紀から朝鮮農民の移住は始まっていたが、急激に増加した原因は、1910年の「韓国併合」によって朝鮮半島が日本の植民地にされたことにある。移住した朝鮮人は主に農業生産に従事する一方、多数の独立運動家が中国人とともに果敢な抗日武装闘争を繰り広げた。
45年の祖国解放当時、中国にいた朝鮮人は216万人に達していた。その半数は故国へ帰ったが、残留した朝鮮人は中華人民共和国の創建のために多大な貢献を果たした。
こうした朝鮮人の貢献度を高く評価した中国政府は、朝鮮人に中国国籍を与えるとともに、52年には吉林省に延辺朝鮮民族自治区を設け、56年には延辺朝鮮族自治州と改称した。
自治州においては、中国政府の少数民族保護政策のもと、政治・経済・文化の大幅な自治権が認められている。子どもたちは朝鮮族学校に通い、伝統的な民族文化が保障され、朝鮮族は社会の広範な分野で活躍している。
しかし、その背景には、中国政府の巧妙な民族政策がひそんでいることを見逃すことはできない。文化大革命当時には、多数の朝鮮族幹部が迫害を受けた。また自治州内への漢族の移住が進み、政治の実権も徐々に漢族に移行している。
2)在米韓国人
在米韓国人の移民史をひもとけば、1903年からハワイのプランテーションに7226人の移民が渡った歴史があるが、あまりにも過酷な「奴隷労働」だったため、3年後に中断された。また1924年にアジア系の移民を禁ずる移民法が制定されたため、移民の道は閉ざされてしまった。
移民史に劇的変化が訪れるのは、65年、東洋人にも門戸を開放するよう移民法が改正されて以後のことである。新移民法が68年に発効すると、韓国人は続々と米国に渡った。
韓国人は幅広いビジネス分野に浸透した。しかしあまりにも短期間に移民が激増したため、韓国人同士、あるいは人種間の葛藤を招いた。蓄積した矛盾が一気に噴出したのが、92年4月のロス暴動だった。
但し、ロス暴動当時、あたかも黒人がコリアタウンを狙い撃ちしたかのように報道されたが、真相は異なることを指摘しておきたい(詳細は、弊著『アメリカ・コリアタウン』参照。社会評論社刊)。

3)旧ソ連の高麗人
旧ソ連の朝鮮民族(現地では「高麗人」と呼ぶ)の先祖も、中国と同様、日本の植民地時代に急増した。1917年のロシア革命後には、沿海州一帯で18万人の人々が暮らし、民族学校や新聞社を設けるなど、民族的なコミュニティを形成していた。
しかし37年9月、スターリンは突如すべての高麗人に対し、中央アジアへの強制移住を命じた。その理由は、彼らが日本軍のスパイになる恐れがあるためとされた。
ウズベキスタンやカザフスタンの砂漠地帯に送られた高麗人の多数が命を落とした。やがて彼らは農業を起こして集団農場の指導的役割をになっていくが、あらゆる民族文化は厳しく抑圧された。
80年代後半、ペレストロイカとソウルオリンピックを機に、民族を取り戻す運動が各地に広がった。90年には全連邦高麗人協会が結成された。
しかし91年に旧ソ連が崩壊し、ウズベキスタンやカザフスタンが独立すると、それらの国内で異民族に対する排外主義が台頭したため、高麗人は職場から追放されるなどの迫害を受けた。
高麗人のなかでは、先祖の故郷である沿海州への再移住を希望する人々が増加している。幸い昨年1月、沿海州側が受け入れる方針を示したため、現在、多数の高麗人が沿海州へと移住しつつある。
私は昨年、韓国の作家・鄭棟柱氏の著書を翻訳した『カレイスキー・旧ソ連の高麗人』(東方出版)を出版した。同書は、鄭氏が数年かけて高麗人の実態を調査したルポである。高麗人は歴史的にも現在的にも、最も過酷な運命をたどってきた人々といえる。ぜひ多くの方々が関心を寄せられるようお願いしたい。
(ノンフィクション作家)

〈付記〉
高賛侑氏のルポ「旧ソ連に生きる朝鮮民族」が第25回部落解放文学賞(記録部門)を受賞しました。
(『解放新聞』1999年5月17日)

 

〔東日本人文社会科学研究会報告要旨〕

第17回 1999年2月6日(土) 15:00~18:00 大阪経済法科大学・東京セミナーハウス小会議室

 

韓国社会における「能力主義」と「平等性」
──「メリトクラシー」をめぐる国家と社会のインタラクション
有田 伸 

 

韓国社会においては、社会的上昇移動の手段として「教育」の重要性が広く認識されており、それによって激しい進学競争が繰り広げられている。しかし、韓国の事例に関して興味深いのは、進学競争の激しさそれ自体もさることながら、そのような進学競争に対する人々の意識/評価の問題であるように思われる。本発表は、未だ十分な実証的裏付けを欠き、全くの仮説にとどまるものではあるが、日本や欧米の事例との比較を含めて、韓国社会における、いわゆる「学歴主義」的諸現象に関する社会的な「反応」について検討し、そのような作業を通じて、現在の進学競争構造の成立基盤に関して考察しようとしたものである。また同時に、主に1960年代以降の教育政策についても簡略に検討し、それらの政策が進学競争構造に対してどのような影響を与えてきたのかという問題についても考察した。
一般に「学歴主義」とは、職業をはじめとする社会的地位の配分において、人々の持つ「学歴」というインデックスが大きな規定力を持つような社会状況をさすが、このような原理に基づく配分方式の公正性・平等性に対しては、これまで欧米や日本において社会的な疑義が表出されてきている。欧米においては、葛藤理論、文化的再生産論などに基礎を置きつつ、出身階級(あるいはエスニシティ)と教育達成との間には「階級文化」などを経由して必然的に連関が生じてしまう点、また、そのような過程を経ての階級再生産が「メリトクラシー」の名の下に隠蔽されてしまう点などに関して批判がなされてきている。日本でも、文脈は全く異なるものの、「学歴」が過剰に社会的地位を決定してしまうことに関しては(それによって現実の改善がなされているかはともかく)大きな「社会問題」となっている。
これに対し、韓国においては、(それは「ネポティズムへの対抗」という文脈において生じてきたものとも考えられるが)「学歴主義」の持つメリトクラシー的側面が特に重視され、社会的地位の配分原理として学歴が主に用いられることの妥当性、及び教育の選抜機能の公正性に関しては、これまで社会的な批判にさらされることがほとんど無かったと言えよう。
1970年代以降大きな社会問題となってきたいわゆる「課外授業問題」もあくまで、「進学競争が公正に行われないこと」に対する批判であったのであり、その根底には、そのような「競争のルール」さえ侵害されなければ、進学競争自体、あるいは、その結果得られる「学歴」による地位配分自体は正当なものである、という規範意識が存在していることがうかがえる。このような規範意識の存在の下、韓国社会においては、教育を通じた社会的地位達成に関する競争主義的かつ能力主義的な枠組みが、「社会」の側からもある程度の支持を受けて成立することとなった。また同時に、社会的諸資源配分の平等性に関する要求も、「結果の平等性」よりも「機会の平等性」に焦点が当てられる傾向が強まったのである。
1960年代以降の中等・高等教育政策を検討してみると、教育制度に関する諸政策によっても、そのような競争の枠組みが形作られてきたという事実が明らかになる。中等教育に関しては、中学校無試験入学制、人文系高校平準化措置の導入など、極めて開放主義的な政策がとられてきたのに対し、高等教育に関しては、「教育投資の効率性」を最優先課題とする立場から、入学定員も政府によって厳格に統制され、また国公立・私立の別を問わず、すべての高等教育進学志願者に対して国家による一元的な能力試験が課せられてきた。このように、高等教育進学段階では極めて能力主義的な選抜が行われながらも、進学競争への「参入口」は政府の手により大きく広げられ、同時に進学に対するアスピレーションが最終段階の選抜まで冷却されづらいような競争構造がつくり出されてきたのである。
また、課外授業問題を含め、過熱化した進学競争への対処をその目的の一つとする「7.30教育改革措置」も、課外授業の禁止措置など、皮相的な問題の解決に終始し、進学競争構造そのものの根本的な変化を生み出すようなものではなかったのである。
今回の発表に関しては、教育を通じた社会的上昇可能性自体に関する実証分析結果とこれらの議論とを結び付けることが出来なかった。今後は、階層構造の「開放性」及び階層移動に対する教育の規定力を時系列的に分析し、それらの分析結果との関連において競争構造自体に対する意識を検討するという作業を進めていきたいと考えている。

(東京大学大学院総合文化研究科 地域文化研究専攻博士課程)

 

 


〔科学技術部会・医療部会研究会報告〕

第17回 1999年3月6日(土) 15:00~17:00 OICセンター 会議室

 

在日コリアンの死生観-医療の現場から-
金 英 一 

 

1.イザベラ・バード「朝鮮紀行」
(講談社学術文庫)
英国人女性旅行家イザベラ・バードが朝鮮を訪れたのは、1894年、62歳の時のことである。以後、3年余、バードは4度にわたり朝鮮各地を旅した。
朝鮮の都市には寺院や聖職者の姿がない。家々には「神棚」がなく、村祭りには神輿もなければ、偶像を運ぶ行列もなく、婚礼や葬儀では聖職者が祝福をしたり冥福を祈ったりすることがない。心からにせよ形だけにせよ、畏れられ敬われる宗教的儀式や経典が存在せず、人々の心に宗教の入り込んでいる形跡が何ら見られないのは、朝鮮人の非常に珍しい特徴である。
一般の民間信仰-とても宗教とは呼べない-は、朝鮮人の空想の産物であり、主として自然のふしぎな力を表す、実体のないものへの恐怖から生まれた多数のしきたりでなっている。
いわゆる知識階級の多くの人々は、朝鮮にある唯一の崇拝形態は祖先崇拝だと主張し、鬼神崇拝にまつわるぼろ布、石塚、ほこらといったものは女や肉体労働者の迷信だと馬鹿にしているふりをする。また少なくともソウルにおいては、おそらく鬼神を信じている上流階級の男性はわずかしかなく、おおかたが、くだらない風習だけれどもここでやめては不都合だから儀式だけはやっているというところであろう。しかし王宮からあばら屋にいたるまで、すべての女性と大半の男性が1500年以上も前から仏教に影響を与え、またおそらく仏教から変化を受けながら朝鮮に存在してきた慣習を守っていることは確実に言えるのである。
シャーマンの主な機能は、儀式や呪術で鬼神を感化すること、供物で鬼神をなだめること、鬼神を祓うこと、託宣を得ることである。鬼神はどこにでもいる。鬼神はうじゃうじゃいて、人間の運命をもてあそぶ。
※ 韓国では宗教的儀礼と祖先崇拝とは別に行われている。韓国では祖先崇拝や葬式は仏教寺院とは関係がない。檀家制度がない。だから寺院の中には墓地がない。葬式は儒教で行い、仏教の方式では行わない。韓国の寺院ではお守りやお札を信者に下付するということはない。(以上、中村元選集<韓国人の思惟方法>)
※ イム・コンテク監督の映画「祝祭」を観ていただきたい。

2.死を待つ患者との対話
①M.Tさん(65歳一世男性)
肝臓癌、肝硬変、食道静脈瘤
50歳で肝硬変、食道静脈瘤を指摘される。以降何回もの食道静脈瘤よりの出血。腹水、肝性昏睡を経て1992.6末死亡。1992.5.8と6.12にインタビュー。
※ インタビュー内容は別紙資料を参照。
考察
<臨死体験>について
「自然に死ぬということが大事なんです。死にたいということではないんです。そんなこと考えたら罰当たります。自然にということです。自然にということは、自分の体が悪くなる、それは仕方がないことです。助けられたら、助けられたとおりに。寿命ということですかな。自分に寿命があれば助けてくれるでしょうし、寿命がなければこれで終わりだろうし、それはそれで仕方がありません」
「私の人生を振り返ると、そんな悪い人生ではなかったと思います。私はしっかりと働いて、そしてよく遊びました。働いてみんなを養うことこれが男としての生き甲斐です。それから好きなことができたこと、酒に女ですな」
「親より先に死ぬこと、これは親不孝なんです。これはあかんと思いました。もうおかあはん堪忍してくれと思いました」
「私が信ずるのは祖先だけです。両親がいてわしが生まれたのだけは確かですから。(だからこそ)私は法事をしっかりと子供たちに教えてきました。しかし大事なことは法事のやり方ではありません。心が大事です。先祖を敬うという心が一番重要です」
現世主義、成り行き、そして祖先崇拝。
「罪」意識の欠如

 ②Y.Yさん(72歳一世男性)
9歳で渡日。特別海軍志願兵として軍事訓練を受けているさなかに日本の敗戦を知る。大阪に戻った彼は、当時のさまざまな朝鮮人運動の渦中にて闘い、朝鮮総連結成後は専任活動家として重職を担う。50歳代半ばに、いわゆる「後継者」問題を巡るトラブルのために職責を解任される。
膵臓癌、肝臓転移。「手術をしなければあと半年も持たない」と(大きな公立病院の)医師にいわれる。手術をすれば?「どのぐらい持つかそれは分からない」。彼は病院医師と喧嘩をして病院を自己退院する。彼は元々告知されることを望んでいた。
「ありのままを告知してもらったことはよかったと思っている。私にはどうしてもやっておかなければならないことがあったからだ。私たちは結婚して50年を越える。もう孫まで何人もいる。(なのにいまだに)子供や、妻や、孫たちに戸籍がない。それがずっと心残りだった。これは親としての責任の問題だ。…私は息子を連れて済州島にいった。先祖代々の墓を息子に見せておきたい、私が死んだ後のことを頼んでおきたい、という気持ちからだ。そして(60年もあっていない)妹に会い、親戚たちとも会った。親戚たちは私を暖かく迎えてくれた。親を敬い、親族をかばい助け合う、これは儒教のたまものだが、われわれはそんな民族の一員である」
「在日の若い人たちにいいたいことは、せめて自分の姓だけは捨ててはいけないということだ。名前だけは大事にしてほしい」
「私が死んだら、いろいろな儀式を無理してやる必要はないと子供たちにいってある。他人の評判を気にしてはならない。ただ命日が来れば親の存在を思い出してくれればいい」
「人間は死んだら終わりなのだ。生きている間にしたことが子供たちの財産である。子供の頭の中にあるのが<魂>である。それを命日に呼び寄せるのだ」
「私は物質的には子供たちには何もやってあげることはできなかった。それでも子供たちは私にそんな風に考えないようにいう。子供たちは私に次のようにいってくれた。『私たちは民族教育を受けて、アボジの後ろ姿を見て育った。それで十分なのです。心からありがたく思っています。法事もやることは立派にやります』」
考察
朝鮮式社会主義、共産主義
象徴的不死 血統の系譜への記載 姓
自己の人生の再検討、自己正当化

 ③N.Iさん(67歳二世男性)
2年前に娘死亡(乳癌、肺転移、脳転移、享年30歳)死亡前の3ヶ月、自宅で看取る。
15年前に弟(二世)死亡(悪性リンパ腫、享年50歳)
「わびしい。若すぎる。せめて順番通りにしてほしい。こんなことでは、わしが死ぬときに一人になってしまう」
「後に残されたわれわれは、自然に命の続く限り生きて行くだけだ。たばこをやめろと人はいう、酒をやめろともいわれる。しかしそんな気はさらさらない。そこまで制限して生きる価値があるか。生きている限り、おいしいものを食べて、わしは堅いものが好きだから、歯だけには金をかけている」
「死んだ後どうなるか?死んだ後は灰になって終わりだと思う。輪廻や、天国など信じられない」
「人間が死んだら、火葬が正解だと思う。第一、土葬では土地がなくなるだろう」
「(娘の死について考えるところは)自分の分身をつくって、逝ってほしかった。代を継いで生きていてほしかった」
考察
娘の死から見えるもの
弟の死から見えるもの
生き残った者という感覚 文字通り「無」としての「死」
拭いがたい「死」のイメージ

3.在日同胞の死生観
「死」を語ることの難しさ
日常的、具体的に与えられる現実の経験を重んじる傾向、「成り行き」
「人間死んだら?人間死んだら、何もないですよ。何かありますか?」(77歳、一世男性、糖尿病性腎症)
在日同胞の宗教観「神さんを信じている人は多いですが、私は信じていません。神さんを信じるということは、天国へ行くとかそんなためではなく、今の金儲けとか、病気が治るようにしてもらうとかそんなためなのだと思う」(48歳男性、癌性腹膜炎で死亡)
象徴的不死 <孝>としての生命論
「家名」と「血統」
自己完結としての「死」

* * *
コメンテータの高泰保氏(大阪経済法科大学で講義「生命と進化」を担当)からは、生命論と在日同胞の生命観について、以下のような解説があった。
生命論には、アリストテレス(B.C.384-322、ギリシャの哲学者、科学者)に始まる観念論的な生命論とデカルト(1596-1650、フランスの哲学者、数学者)に始まる唯物論的な生命論がある。前者を生気論と呼んでいるが、これは魂、霊魂などと呼ばれる超自然力が生命の本質であり、それが生物の生命過程全般を支配しているという考えである。生気論は神と霊魂の存在を信じる宗教と結びつき、科学技術の時代といわれる今日でも多くの人々の心をとらまえている。
一方、後者は機械論に始まる。これは、あらゆる生命現象を機械的な運動に還元して説明しようとするものである。時計の例がよく引き合いに出される。この考えは、その後生命現象は結局のところ、物理化学の法則で説明できるという立場をとるようになった。さらに、弁証法的唯物論の立場から、生物には生物独自の性質と法則性が存在しており、この生物学的な法則を無機世界を支配している物理学的、化学的法則に解消してしまうことに反対する考えもある。
在日同胞社会では、世代交代が進むにつれて、生命はその本質上物質的であるという科学的な生命観が広く受け入れられるところとなったが、霊魂や鬼神の存在を信じる生気論的で、宗教的な生命観、死生観も根強く残っている。 
在日同胞が一世から伝統的に受け継いでいる生命観は、韓国の儒教的なそれである。中国の儒教が現世主義的であるのに対して、韓国や在日同胞の社会ではそのような要素はほとんどないようである。儒教では、人は魂(こん、精神)と魄(はく、肉体)からなっていて、それらが一致しているときが生きている状態で、死ぬとそれらが分離し、魂は天上へ、魄は地下に行くという。儒教の基本は祖先崇拝と祖霊信仰にあって、人は孝の行いと祭祀を通じて、永遠に生きようというのである。典型的ともいえる儒教的な死生観は、金英一先生が紹介された事例からも知ることができる。
比較的高齢の女性の間では、巫俗(シャーマニズム)信仰が残っており、招魂再生が信じられている。数十年前までは、在日同胞の巫者が死者との対話のための招魂再生の儀式を執り行っていたが、今では韓国の宗教家たちが来日してその役目を果たしている。
日本で生まれ育った同胞は、自らの生活と思考において仏教(日本の)の影響を受け、人は死後、極楽(西方)浄土へ往生するか、輪廻転生すると考える人も少なくない。
韓国で大きな影響力をもっているキリスト教は、近年来日した韓国人を除くと、在日同胞社会ではあまり受け入れられておらず、キリスト教的な生命観、死生観は根づいていない。
以上のように、在日同胞は知識人化していく過程で、科学的な生命観を身につけるようになってきたが、その死生観については儒教的、仏教的な要素が今なお色濃く残っている。

(はなぶさ診療所 院長)


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済州島報告①:51年目の春
文 京 洙

 

 済州島に暮らし始めて2ヶ月、みごとに咲きほこった桜の花はもちろん、1月以上も人々を春の気分に酔わせた菜の花も、いまは、もう見られない。季節は梅雨をひかえ、島の気まぐれな空模様の合間には、目を射るような初夏の光が木々の緑をまぶしく照らす。済州島の長期気象予測によれば、今年は、梅雨は短く、夏は暑い、とのこと。“暑い”といっても、私が、この1年、身を寄せることになった済州大学校の教員宿舎は、済州市の市街地から遠く離れた中山間に位置し、盛夏をしのぐにはもってこいの場所だ。
島の美しい自然、避暑地の別荘のように静かにたたずむ宿舎、そういうこのうえなく恵まれた環境にありながら、この2ヶ月、私はなにかちぐはぐで慌ただしい時間をすごした。授業からも、大学での雑事からも解き放たれて、伸びやかに自分の研究に専念できるだろうという、私の目論見は、少なくともこの2ヵ月については、まったくの皮算用におわった。京都の職場でやりのこした仕事とか、こちらに来て早々に機会が与えられた研究セミナーでの発表とか、さらには私生活にまつわる様々な雑事とか、あれやこれやでみるみる時間が過ぎていく。そんなわけで、いまのところ、済州島にあってなにかまとまった報告をするだけの知見を得たというにはほど遠い。
けれども、済州島社会をおおう時代の空気は、そういう私にも確実に伝わってくる。新政権の登場以来、韓国社会は変革期の大きなうねりの中にあり、この済州島も例外ではない。片隅ではあってもそこに錨を降ろしたわけで、この島に生きる人々の願いや思いのいくぶんかは、それなりに、伝えることが出来るかもしれない。以下は、そういう思いからの、多少の生噛りは承知の上での、済州島報告である。
済州島といえば、四・三事件の悲劇をおいて語りえないし、私のここでの生活もまさにこの四・三事件51周年の記念行事から始まった。四・三事件とは、米軍政末期の1948年、右翼や警察の横暴と、南朝鮮だけの単独選挙に反対する済州島での蜂起に対して、その鎮圧過程で3万人以上の犠牲を出した韓国現代史上最大の悲劇の一つとされる出来事である。私自身、細々ではあるが、東京や大阪でこの事件の真相究明や追悼のための取組みにかかわってきた。この10年、新年度を迎える毎年4月は、私にとって四・三事件の春でもあり、初めて本国での記念行事に参加するにあたっての思いも格別なものがあった。
「済州四・三研究所」の会報によれば、4月3日を前後する51周年の記念事業は、3月29日の宗教人大会に始まり、4月3日当日の慰霊祭を経て、29日の劇団ノリペ・ハルラ山などによる合同公演まで9つの行事が予定されていた。私が参加した主な行事は、2日の済州民芸総主催による前夜祭、3日の慰霊祭と同日午後の「映像セミナー」などである。
塔洞の野外会場での前夜祭は、厳しい冷え込みのせいもあって参加者は少なかった。それでも、というか、むしろそれだけに、舞踊家・金恵淑の舞や、チルモリダンのクッなどが、犠牲者たちの霊気に深く浸るような、しめやかな気分を会場にかもし出していた。3日の慰霊祭は、汎推(済州四・三事件犠牲者慰霊事業汎道民推進委員会)主催、済州島の道行政と議会の後援という、紆余曲折の末に昨年の50周年で確立したパターンでまさに全島民的に催され、済州島の各界の代表や中央政界の与野党の代表が哀悼とともに事件の問題解決に向けた決意を語った。民芸総と四・三研究所が主催した「映像セミナー」は、ワシントンの国立公文書館で発掘された映像資料による研究セミナーで、全体として四・三事件の犠牲に対するアメリカの責任を問うものであり、四・三事件研究の到達点を知る上でも興味深いものであったが、その詳しい紹介は別の機会にゆずりたい。
昨年の50周年行事に比べ、「51年目の春」は、いまひとつ、盛り上がりを欠いていたようである。しかし、それでもその一連の行事は、四・三事件をめぐる済州島社会の取り組みが新しい段階にあることをよく物語っていた。しいて言えば、これまで四・三事件については、それを“語る”ことそのものが一つの争点とならざるを得ない状況が続いてきた。しかし、いまや、これについてだれはばかりなく“語る”ことはもとより、見極められた事実を拠りどころに、行政府の名誉回復措置や補償の問題が具体的に議論されるまでに至っているのである。そして、そういう新しい局面にあって最大の焦点となっているのが「四・三事件特別立法」の問題である。
新大統領は、一昨年暮の選挙戦を通して四・三事件の問題解決に向けた国会特別委員会の構成と特別立法の制定をくりかえし約束していた。しかし、「IMF時代」という最悪の経済危機のさなかに船出し、与小野大の国会運営に悩まされた新政権は、昨年中はこの問題でこれといった成果(当地で頻繁に用いられる言葉でいうと“可視的な成果”)を収めることができなかった。51周年の行事にも、これについての失望や苛立ちが滲み出ていたし、行事そのものが特別立法の実現に向け島民の力を結集する場ともなっていた。
ところで、いま、済州島社会は、もう一つの「特別法」の問題でも揺れ動いている。「済州道開発特別法」の改正問題である。次回は、この二つの「特別法」のいきさつを辿りながら、済州島社会の“いま”を考えてみたい。

(立命館大学教授)

 

 

編 集 後 記

◇今回、初めて日本支部通信の校正を担当した。印刷物というのは、誤植がなくて当たり前。あればたちまち信頼度が急落するので、校正作業はまことに神経を使う。細かいところまで細心の注意をはらったら、大きな見出し文字が間違っていたという悲喜劇はよくある話だ。大過なきことをひたすら祈るばかり。
◇とはいえ校正者には、読者より先に原稿を読めるという特権がある。精魂のこもった玉稿を手にすると、行間から筆者の人柄がにじみ出てくる。誠意にこたえるためにも、決してミスを出すまいと、自ずと身が引き締まる。
◇今号では、張年錫先生と文京洙先生が韓国での体験記を書いて下さった。現地で長期間生活しないと分からないような情報やエピソードが随所に盛り込まれており、知らず知らず引きずり込まれていく。文先生のエッセイは連載になるとのことなので、乞う、ご期待!
◇アレクサンダー・ボロンツォフ先生の特別講演会が開かれたのは5月12日だった。露・英・韓の3カ国語を駆使される先生のお話は、ロシアの朝鮮半島政策の推移を明快に分析されて興味津々だったのだが……。ちょうど講演会の直前に、エリツィン大統領がプリマコフ首相を解任したという衝撃的なニュースが報道された。質疑応答のときに、質問者から初めてその事実を知らされた先生の表情は、一瞬、「信じられない」というように硬直した。政治的にも経済的にも混迷の続くロシアの現状を憂う知識人の苦悩をかいま見たようなシーンだった。
◇ともあれ、第11号をお届けします。引き続きのご愛読と、積極的なご意見を、ぜひよろしくお願いいたします。
(K)