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국제고려학회 일본지부 소개

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日本支部通信

第4号 (1995.6)

「戦後50年」とコリア学への期待

文 京 洙

 戦後50年目の節目の年を迎え、これにまつわるとりくみや議論が盛んである。いうまでもなく、私たちコリアンにとってもそれは「解放50年」として示される記念すべき節目の年であり、国際高麗学会の日本支部でもこの秋にはこれにちなんだシンポジウムが計画されている。
もちろん、50年とか半世紀とはいっても、それ自体はいわば物理的な時間の区切りを示すものに過ぎないわけであり、歴史上の転機がこれに符丁をあわせておとずれるものではない。しかし、とはいえ、ここ数年の時代の底流の変化が、私たちに戦後史の大いなる節目として感じさせるような何かを指し示していることはたしかである。おそらくそれは、「冷戦後」としてひとくくりにされるような戦後史の転機に関係しているであろう。冷戦の終焉は、戦後世界を律していた認識上の呪縛から私たちを解き放つ効果をたしかにもっていたし、ある意味では国際高麗学会の歩み自体がそういう時代の変化を物語っているのではないだろうか。
印象とか直感とかいったレベルに過ぎないが、「コリア学」という問題の立て方に引き寄せて、あえて私なりに、近年のそういう認識の変化を整理すれば、以下の二つのことが指摘されるように思われる。一つには「学際化」として主張されてきたような、ひろく自然科学をふくむ諸科学間の協力や相互乗り入れの必要性がかつてなく切実に自覚されつつあることである。そこでは、研究上の領域を経済学とか政治学とかのいわばドイツ的に上からカテゴリカルに仕分けする学問のあり方が反省されざるをえない。現実が発展するなかで、たとえば、伝統的な政治学のツールでは政治的とされている現象でさえ説明しきれなくなっている、といったことがしきりに指摘されている。「コリア学」という問題設定は、間違いなく、そういう時代の求めにかなった諸学のとりまとめに役立つであろう。
いま一つは、「国民国家」という認識上の枠組みが、「一民族一国家」への拘りが根強い日本や韓国でもようやく問い直されようとしていることである。もちろん、国や民族の相対化という主張への反発はいまだ根強い。けれども、私たち在日朝鮮人の問題一つとってみても、「国民国家」という枠組みではとうてい割り切れない問題を含んでいるし、「東アジア経済圏」といった広域的な地域統合にまつわる議論もそうした認識の枠組みの変化を促している。そもそも、「国際高麗学会」が「コリア学」を文字どおり国際的に組織しようとする学会であることもそうした時代の要請を物語っているのではないだろうか。
ともあれ、「コリア学」の発展は、「学際化」と「国際化」というそうした時代の趨勢にふさわしい認識の枠組みとしての可能性を大いに秘めているといえよう。戦後50年という時代の節目に際して、「コリア学」がそういう新時代の学問の体系のつくりかえをも視野にすえた一つの「総合科学」として発展することを期待している。

 (東日本人文社会科学研究会代表、立命館大学助教授)

 

【東日本人文社会科学研究会報告要旨】

第11回 1994年11月5日(土)15:00~18:00 法政大学69年館951教室

韓国における権威主義体制下の<国家>と<資本>の葛藤

磯崎 典世

 韓国の急速な経済発展を分析する近年の研究は、「国家主導型」の開発パターンを特徴として強調する。確かに韓国では政府が金融部門を掌握し民間に対して強い力を行使した。しかし、経済開発を民間の企業の活動に依存している以上、一方的な上下関係のみで捉えることはできないし、長期的な成長のための構造改革が大企業グループの力を削いでしまうディレンマに陥った時、両者の間の葛藤は顕在化するだろう。それゆえ、本報告では、70年代に推進された「重化学工業化政策」が転換される過程での「国家ー資本関係」を、経済官僚と企業に焦点をあてて扱った。開発戦略全体の分析と共に、国家の開発戦略における位置や外資との関係の重要性を考慮して自動車産業を事例として選択し、政府刊行物・企業の社史・インタビュー記録などを資料として活用した。
経済官僚という経済企画院(EPB)のみが注目されるが、73年6月に計画が公表された「重化学工業化」の登場は官僚機構内部の確執を伴っていた。この工業化は、大統領と側近が、維新体制という独裁の強化を補完し、かつ国際環境の変化に「自主防衛」で対処する目的で計画したものだった。それゆえ、技術的な蓄積や経済性を軽視した野心的な内容で、「IMF協調路線」をとってきたEPBを中心とする従来の経済官僚を抑える必要があった。「拡大成長論」を唱える経済官僚は「重化学工業推進委員会企画団」や商工部を中心として活動し、74年にはEPBのトップも抑えて大規模な計画を推進した。
自動車産業に対しては実質的な生産が開始された60年代初め以降、政府が介入して保護育成していたが、70年代初当時は、外国企業から部品の供給を受け外国モデルの乗用車を生産しながら国産率を高めている段階であった。政府は重化学工業化の一環として、73年5月、自動車の国産化と輸出振興を骨子とした「長期自動車工業振興計画」を出して積極的にテコ入れを行う。この強い方針の下で、74年に初の国産モデル(現代のポニー)の開発・量産・輸出と進むが、その過程は政策のみからでは説明し得ない。60年代、最古の総合自動車メーカーの流れをくむ新進自動車はトヨタと技術提携し、67年に参入した現代自動車はフォードと技術提携していた。現代は69年からフォードに対して合併を要請していたが、協商の末71年に決裂した。一方、72年にトヨタが周四原則を受け入れて韓国から撤収した後、新進はワールド・カー構想を展開しつつあったGMと合併してGMコリアとなる。このように現代は、自らの合併失敗とGMコリアの設立によって国産モデルの生産という戦略を選択し、73年の政府の方針でその意志を固くした、とみるべきなのである。
さて、政府の介入による重化学工業部門への過剰偏重投資は、70年代後半にはインフレ・輸出競争力低下・技術労働者不足などをもたらし、矛盾が顕在化していた。そのなかで政府主導の拡大成長的な開発を批判する官僚が登場しEPBの主流となる。こうして「安定成長」を掲げるEPBと「拡大成長」を唱える商工部が対立する。前者が後者を出し抜いて79年4月に「安定化総合施策」が出されるが、その実質的な内容の協議では、後者が“企業の投資意欲を削げば重化学工業は後退する”として合意は困難だった。こうして「重化学工業化」の問題点が露呈したが、構造的な問題への対処ができぬ間に、矛盾が噴出して維新体制は崩壊する。その後、暴力的に政権を掌握した全斗煥政権にとっては、破綻に帰した経済政策のツケを精算して新開発戦略を示すことが、政治権力安定のためにも必須課題であった。
自動車産業でも70年代の過剰な設備投資により構造調整が必要だった。80年8月の第一次調整で乗用車生産を一元化し、現代の責任経営の下に現代とセハン(新進の持株を大宇が引き受け、GMと50:50で出資)を統合する方針が決定した。ところが、現代とGMの協議はそれぞれが独自の企業戦略に固執したため決裂し、政府の方針を拒否することになる。政府は両者を仲裁することができずに能力の限界を露呈する。「国家」が個別企業に対して統制力を行使できない状況は、新開発戦略推進の過程でも現れてくる。
以上のように、①70年代の工業化の過程で民間企業が成長し、個々の企業の経済活動は企業間の競争によって規定される面が強くなっていたこと、②70年代末の安定化政策への転換をめぐる官僚層内部の確執に国家の自律性の限界が現れたこと、③80年代初めの自動車産業の構造調整の過程で、圧倒的な物理力を持つ国家が個別企業に対して統制力を行使できずに政策遂行過程での能力の限界が明らかになったこと、の点が確認された。「国家主導型」の経済開発も、経済活動の実績を民間企業に負っていたことからくる構造的限界であったといえる。(報告の内容で論文を準備中である。詳細はそちらを参照されたい)

(東京大学教養学部助手)

 

【西日本地域研究会報告要旨】

第16回 1994年9月17日(土)15:00~17:00 OICセンタービル4F会議室

「開発独裁」としての朴政権・維新体制の再検討
金 元 重 (法政大学非常勤講師)

 

第17回 1994年12月10日(土)15:00~17:00 OICセンタービル4F会議室

大学における朝鮮語教育について
池 貞 姫 (関西学院大学非常勤講師)

 

第18回 1995年1月21日(土)15:00~17:00 OICセンタービル4F会議室

韓国の経済発展と官僚制 ー資源動員能力をめぐって

大西 裕

 1993年の世銀報告「東アジアの奇跡」は、各国から衝撃をもって迎えられた。東アジア諸国の経済的成功の原因は、強力な官僚による優れた経済政策運営にあるとされたためである。このモデルとなったのは、言うまでもなく韓国である。この世銀報告は、いわゆる「韓国モデル」が広く一般に東アジア諸国にみられるとするものであった。
ただし、韓国モデルそのものは新古典派とそれ以降とでは多少趣を異にしており、概念的に共通理解が存在するものではないが、多くの場合、それは新古典派経済学と1980年代に登場した国家論アプローチの政治経済学における開発志向国家論を折衷したものと解されている。その主たる内容は、輸入代替工業化政策から輸出志向工業化政策への転換、比較優位産業の動態的移動、比較劣位産業の保護育成であり、これを強力な官僚制が指導したとするものであったといえるであろう。
しかしながら、このような見解は、詳細に検討すればかなり疑問の多いものである。1994年12月の行政改革にもみられるように、韓国の官僚制は政治の意向により、その組織すらも容易に変革を受ける存在なのである。はたして、このような韓国の官僚制は強力なのか、またそのような韓国の官僚制は組織として優秀といえるのか、さらにいえば、韓国は本当に輸出指向工業化政策を志向したのか、1950年代に弱かった国家がなぜ急に強くなったのか、韓国国家は一枚岩だったのか、そもそも韓国の政治は安定的であったのかなど、開発志向国家論の前提とする官僚制の存在には韓国の場合いたるところにそれを否定するような疑問に遭遇するのである。
また、近年の政治経済学の議論でみられる、1960年代の韓国の変化については、政治の変化が政策の変化をもたらし、それが経済の変化をもたらしたとの議論が中心であるが、政治の変化(政治体制の変化)が政策の変化をもたらしたのかも、政策の変化が経済の変化をもたらしたのかも曖昧である。
筆者は通説における理論上の問題点の検討をこれまでおこなってきたが、そのなかで、強い国家による経済成長という命題が韓国の場合理論的に妥当とはいえないことが明らかになった。そこで、今回の報告は、1960年代当時の韓国の官僚制と政策形成を、一般的に官僚制の活動を拘束する資源と政策選好の観点から分析し、急速な工業化を説明するための別の選択肢を検討した。特に今回の報告で焦点をおいたのは、なぜ1960年代の韓国政府が輸出指向工業化政策を採用したのかであり、それは、優秀な官僚による工業化という目的合理的な政策選択ではなかったことがあらためて明らかになった。実際には、経済開発の中心となったとされる経済官庁は、経済企画院や財務部、商工部は、歳入の不足(経済企画院)や中央調整制(財務部)、輸出金融体制(商工部)によってその活動に、制約を受けており、彼らの思うように政策形成ができなかったのである。また、各経済官庁の政策選好も同じではなく、官僚制が全体として一枚岩的に行動することもできなかったのである。つまり結果として出力された輸出指向工業化政策は、官僚制内外の諸アクターの自己の政策選好追求の均衡解としてよりよく説明されることが明らかになったのである。(注「中央調整制」については「韓国官僚制と経済成長」(京都大学『法学論叢』130-1,4,1991,1992)を、「輸出金融体制」については1994年度政治学会報告および「韓国の工業化と輸出金融体制」『大阪市立大証券研究年報』9,1994を参照のこと)
ただし、今回の報告は、本来説明すべき「政治が経済を変えた結果、急速な工業化が実現できた」という共通理解の前半部分である、政治の変化が官僚制の再編を通じて政策の変化をもたらしたことを説明したにすぎない。したがって、政策の変化がなぜ経済の変化を引き起こしたのかについては別に検討が必要であろう。この点については筆者は『大阪市立大証券研究年報』にてその端緒を論じているので、そちらを参考にされたい。
韓国の工業化をめぐっては、依然として開発独裁論や「やわらかい権威主義」などの、「アクターとしての国家」を強調する議論が主流である。しかし、これらは、粗雑に過ぎ、なぜ工業化を推進するような政策が選択され、それが効果を持ったのかという問いに答えるものではないのである。このような荒っぽい議論が、万能の強力な官僚制さえ持てば経済的成功が約束されるといわんばかりの、ディリジスト・ドグマならぬステイティスト・ドグマを産み出しているのではないであろうか。
もはや従来の「アクターとしての国家論」は韓国工業化の分析に対する意味を失っており、いまやC・ジョンソン流の異質で特殊な国家像を打ち出すだけであり、むしろ政治と経済の関係の理解を妨げてさえいるように思われる。我々は、さらに緻密な分析および調査にもとづく、韓国研究としては新たではあるが、政治学では常識的な理論の適用によって工業化と政策の関係を捉えなおす必要に迫られているであろう。
なお、本報告の主な内容は『大阪市立大学法学雑誌』に掲載される予定である。

 (大阪市立大学法学部助教授)

 

第19回 1995年3月11日(土)15:00~17:00 OICセンター4F会議室

韓国の経済発展と地域問題 ー蔚山市の都市問題を中心にー

鄭 徳 秀

 韓国や台湾などの地域がNIES(新興工業経済地域)としてその経済成長が脚光を浴びてから久しい。しかしNIESでは経済成長の過程でさまざまな社会問題を発生させた。そのなかで地域格差や都市・農村問題などの地域問題がある。韓国の地域問題は韓国における経済発展がつくりだしたものであり、その研究は韓国経済を正しく評価する場合には不可欠である。
慶尚南道蔚山市には、1962年に政府によって最初に指定された蔚山工業団地があり、現在でも生産額は工業団地の中で最大規模を誇る。蔚山市は工業団地の指定によって蔚山邑が周辺の邑面を合併して蔚山市となったものであり、当時は農漁業を主たる産業としていた。蔚山工業団地開発は1962年から始まる第一次経済開発5か年計画の主要事業であって、1970年代までこの地域に莫大な政府資金が投資されて工業基盤の整備が行われたように、蔚山市は韓国の工業化を代表する都市である。工業化によって蔚山市は人口が1962年の8万5千人から1992年には75万人に増大し、ソウル特別市、5つの広域市に次ぐ韓国第7位の人口を持つ都市である。しかも人口の転入・転出率が高く、人口の4分の1が毎年転入・転出する。韓国の場合、都市における人口の転入・転出率は高いものがあるが、蔚山市はとくに高い。また工業基盤の整備に莫大な投資をしたが、一方で住民の生活関連の投資が不十分であり、工業化の過程で発生した公害・環境問題、住宅問題などの都市問題への対策も十分であったとは言えない。蔚山市は韓国の公害・環境問題を代表とする都市であるが、工業団地内の工場からの有害物質の排出によって、この地域では大気汚染、騒音、水質汚濁などさまざまな公害が深刻な状況である。従来豊かな農漁村地域であった蔚山地域では、工業団地内や周辺地域では農産物が減少し、周辺の海域では漁業ができない状況である。蔚山地域を代表する公害問題は「温山病」が挙げられるが、これはイタイイタイ病とよく似た症状を持つ「奇病」である。しかしこれまで実態は解明されておらず、政府や工業団地内立地企業は「公害病」を否定している。またこの地域では工業団地内や周辺地域の住民を移住させるという移住対策事業が行われ、公害による移住対策事業は世界的にも稀であると思われるが、これらは韓国の環境政策が著しく遅れていることを示している。この事業によって蔚山地域における公害環境問題が改善しているとは言えない。
韓国における都市政策が不十分であったのは、韓国では実質地方自治がなかったからである。1961年5月に朴正熙らは地方議会を解散させ、自治体の首長を任命制にするなど中央集権的な改革をおこなった。地方自治がない下で工業化の過程で山積する都市問題に対する自治体独自の政策は著しく不十分であり、国家的な政策もほとんどなかった。工業化の過程で蔚山市には多くの貧困層が流入してきたが、彼らに対する住宅政策はほとんどないに等しかった。住宅政策にしても環境政策にしても韓国では地方自治体は独自な政策があったとは言えない。韓国の経済発展が蔚山市という都市をつくりだし、蔚山地域が大変貌した。都市とは定住空間であり、人びとの交流の場であるとすると、蔚山市での都市構造はかなり奇異な感じがする。

(大阪市立大学大学院)

 

【科学技術部会研究会報告】

第11回 1994年12月9日(金) OICセンター4F会議室

「CADシステムを取り巻く技術の進歩と最近の話題」

講演者 高島 啓志(㈱ナスコ・コンピュータ・システム 代表取締役)

 
今回は、前回に引き続きコンピュータ関係の話題をテーマとして、横浜でCADシステムを中心とした開発、メンテナンス、販売関連会社を経営されている高島氏より、業界の情報と会社経営の実践をふまえた興味ある内容の講演があった。
また、今流行の言葉としてマルチメディア、インターネット、バーチャルリアリティを挙げられ、これからは運用の時代であることなどが強調されていた。研究会は15名の参加により、講演者を交えて活発な討論、情報交換が行われた。

 

第12回 1995年3月31日(金) OICセンター4F会議室

「ソフトウェアよもやま話」

講演者 金 広 洙 (ムギテック㈱電子機器事業部・システム開発グループ室長)

 研究会では、人工知能、ニューロコンピュータなど今まで話題になったトピックを含めてソフトウェア一般について講演者自身の実績と現在携わっていることについての話があった。また、ソフトウェア開発の豊富なノウハウおよび最近のブームであるインターネットなどの話もとりあげられた。

 

【特別講演会】

秋季 1994年11月4日(金)18:00~ OICセンター4F会議室
「韓国からみた南北経済交流」
講演者 韓 羲 泳 (ソウル大学名誉教授・福井県立大学教授)

春季 1995年5月12日(金)18:00~ OICセンター4F会議室
「編集者としてかかわってきた韓国・朝鮮」
講演者 松本 昌次 (影書房編集長)

 

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投 稿

「従軍慰安婦」問題をもっと児童文学の中へ ー『従軍慰安婦のはなし』などにみるー

韓 丘 庸

 歴史の流れがよく見えているようなもっともらしいことを言っていて、実は何一つ見えていない文学者の発言が頻繁になってきた。評論家を自他共に認じる上坂冬子もその一人である。
「朝鮮半島出身の女性は、日本人だったんでしょう。慰安婦は、どの戦場でも必要悪ですから、いまさら40、50年前のことを騒ぐなんておかしいわ」
まさに売春を認め、侵略戦争さえ追認する姿勢は、「人間」として失格である。
今年は朝鮮の解放50年、それでなくても日本の戦後処理が改めて問われようとしている時だけに、情けなく由々しきことである。
ここ1、2年のあいだでも細川前首相の「侵略戦争」の発言にはじまり、次々と多くの政府高官が失言を繰り返しては辞任し、数日前は「ナチスの『ガス室』なかった」といった「マルコポーロ」が廃刊に追いこまれ、世上の非難を浴びている。
このように連続して繰り返される歴史音痴の「悲しい発言」をいったい日本人はどう思っているのだろうか?
皇国史観に毒された歴史認識をあらため、一から民衆史観に立って日本の歴史を見直し、近隣諸国との関係史を構築するために、頭の軌道修正が必要になると思う。
朝鮮人に対する差別発言に対し、海部元首相も「ぼくは直接いじめていないので」と、低次元の発言をして顰蹙をかったことは記憶に新しい。
これらはすべて日本人一人ひとりが自分の問題としてどう受けとめるかという基本的な姿勢の問題になってくる。
そうした意味において、最近、クローズアップしてきた「従軍慰安婦」の問題をとりあつかった2、3の本を紹介したい。

 『従軍慰安婦のはなし』(西野留美子・作 伊勢英子・画)は、サブタイトルに、「十代のあなたへのメッセージ」と付してある通り、高学年の子どもたちにも理解しやすいように編集されている。
[「『従軍慰安婦』は子どもの問題だと思う」私がはじめて石川佐江ちゃんに会ったときのことです。佐江ちゃんは、小さな声で、しかしはっきりと私にそう話しました……]
作者は、小学校6年生の石川佐江が学級新聞で「従軍慰安婦」の特集を組むといい始めたことから、有形無形に「従軍慰安婦」の問題に関わっていく。
「韓国」の元従軍慰安婦を訪ねたり、その足跡をたどってみたり、資料を収集したりすることによって、その事態の厳しさ、酷さ、悲しくておぞましい現実を知り、もう一度自分に問いなおしてみる。そして、この延長に「性と女性」の人権が蹂躙された日本の「男性社会」に対しても告発している。
ノンフィクションの形式をとっているが、平易な表現がかえって読み手に痛々しく伝わってきて、身につまされる本である。

 「従軍慰安婦にされた少女たち」(石川逸子・作)も、ジュニア向けの解説として、その初歩的な事実が理解しやすく述べられている。
今までタブー視されてきた従軍慰安婦の問題が、決して遠い過去の話ではなく、PKOの自衛隊の派兵時に、コンドームを持たせると大騒ぎをする日本の今日的問題としっかりつながっていることを警告している。
「女子挺身隊」に名をかりた従軍慰安婦の80%は朝鮮人女性であった事実を、多くの読者は、砂を噛む思いでこの本と対峙させられると思う。
連行されたいきさつや「慰安所」がなぜ作られたのか、どのようにして始まったか、第二次世界大戦の末期の中で、日本軍の敗退と共に慰安婦はどう散っていたか、「ボロ布れ」のようになった身体で、それでも精いっぱい人間らしく生きようとつとめた慰安婦の姿には涙せずにはいられない。
従軍慰安婦問題を積極的にとりあげている梨花女子大学の李貞玉さんの運動や「性と天皇制を考える会」などのグループの支援が実って、新事実が明らかになってきており、こうした運動の経緯についても補足しながら、「二度とくりかえさないために」を強調している。

 『母・従軍慰安婦ーーかあさんは「朝鮮ピー」と呼ばれたーー』尹静慕のノンフィクションである。
「ピー」とは中国語で女性の性器を意味する。すなわち「朝鮮人女性のピー」と呼んで、日本軍は「性をひさぐ」ことを強要したのである。
この作品では敗残兵と共に行動しながら死出の旅に向かった従軍慰安婦、奇跡的に助かった従軍慰安婦が、解放後、長い間口を閉ざしたまま今日を迎え、やっとのことで口を開くことになったとたんに亡くなってしまう。
「朝鮮人女性の慰安婦は、生き残って朝鮮に帰ることができた者も、そのあまりに陵辱的な体験ゆえに、かたく口を閉ざしている人がほとんどだ。また、朝鮮の儒教社会の貞操観念に呪縛されるなかで、故郷の家族のもとに帰ることもできず、結婚して家庭を持つこともできなかった人が多い。どこからも謝罪も補償もなく、慰安所生活の中で身体をこわし、かつ社会からも疎外されてきたのが、慰安婦の戦後であった」と作者は厳しく指摘する。
児童文学から「従軍慰安婦」に照射をあてると、とてつもなく重いテーマになるだろう。しかし、この重いテーマに逃げることなく正面から挑戦することも児童文学に課せられた大きな使命ではないだろうか。

《とりあげた本》
◆『従軍慰安婦のはなしーー十代のあなたへのメッセージーー』
(西野留美子・作、伊勢英子・画)明石書店
'93年刊 定価1700円
◆『「従軍慰安婦」にされた少女たち』
(石川逸子・作)岩波ジュニア新書
'93年刊 定価680円
◆『母・従軍慰安婦ーーかあさんは「朝鮮ピー」とよばれたーー』
(尹静慕・作、鹿島節子・訳)神戸学生青年センター出版部
'92年刊 定価1030円
(大阪外国語大学・講師)

 

投 稿

在日社会は「7S」と「5K」

李 一 世

 1.「7S」とは?

 「7S」。馴染みのないこの言葉は筆者の造語である。しかしこれは、在日のわれわれが意識しようがしまいが、皆がこの「7S」のカテゴリー(範疇)の中にはめられており、お互いに関わりあっているのである。それはまた、今日の状況と未来に対する在日の問題を正しく認識するための、キーワードであることは間違いない。
さて、その「7S」とはなんであろうか?
「S」の第一は、日本というこの社会で、われわれ在日は絶対的に「少数派」(マイノリティー)であるということ。
「S」の第二は、そのマイノリティーという構成員(同胞)が日本全国に分散して、日本人と混じりあい関わりあって住んでいる。すなわち「散住」していること。
「S」の第三は、在日社会は広いようで「狭い」ということである。1億2千万人の日本人に対して絶対的な少数派である同胞たちが、日本全国という広い範囲で散らばって住んでいるけれども、少数という必然性からお互いの人間関係がわりと濃密で、何らかのつながりや関わりがあって、その広がりには限界があるということ。
「S」の第四は、「政治」の壁である。それは祖国の分断を反映してできた壁である。そのために在日同胞たちは「総聯」と「民団」という組織によって大きく分けられ半世紀近くにわたってその壁に遮られて対立と反目を続けてきたということ。
「S」の第五は、「ローカルセクト」という内なる「差別」の壁である。在日の歴史が百年以上にもなり、この地で生まれて育った二世、三世たちが社会の主人公になっている今日でも在日社会では依然として、祖国での「出身道」という地方主義(ローカリズム)の差別意識(ローカルセクト)が濃厚に残っており、それが特に、同胞青年たちの結婚問題に対して大きな弊害を及ぼしているのである。
「S」の第六は、同胞同士の若者たちの結婚が極度に少なく「少婚」であること。それは先に挙げた「5S」という状況の影響を受けて、その親世代たちも含め、若い同胞世代のお互いが、日常的な出会いと接触の場が極端に少なく、「少婚」という現象(弊害)を余儀なくされているのである。
「S」の第七は、一組の夫婦が産む子どもの数が少なく「少産」であること。日本人社会の晩婚、少産風潮とあいまって、同胞同士のカップルが少ない(少婚)うえに、産まれる子どもも少なくなっている(夫婦一組平均1.75人、1993年)。
われわれ在日たちは誰もが好むと好まざるにかかわらず、以上あげたように「少数」「散住」「狭い」という社会的状況と、人為的な「政治」と「差別」という「2S」にも直面し「7S」の状況になっており、在日の誰もがこのカテゴリー(範疇)からのがれることはできないのである。
1の「S」から3の「S」までは、人為的にはどうすることもできない在日が置かれている歴史的、社会的な状況と立場であり、4~7の「四つのS」は、1~3の状況とも関連して現代の政治や社会事情から派生された弊害であり、憂うべき現実の状況である。
しかもそれらは、伝統的に日本政府当局と、日本人社会からの疎外と差別を受けているという、共通項のうえでそれが成り立ち、結果的には同胞同士のなかで反目と対立に加え、「少婚」「少産」という割にあわない「2S」の被害をも受けているのである。
このように現時点での在日同胞たちの社会的な状況は、この「7S」というカテゴリーから、逃げることも隠れることもできないのである。在日の諸問題を考える場合、この基本的な諸要素と条件を無視することはできないだろう。
このような状況と関連して、われわれ在日たちはこれまた、次のようなのっぴきならない「5K」という課題に直面し、その対応を迫られているのである。

 2.「5K」とは?

 在日の「5K」とは何であろうか?
「K」の第一は「結婚」の問題である。結婚なくしては家庭も社会もその未来はなく、世代の継続も教育事業も考えられないことである。この日本の社会でマイノリティーである在日は、同胞同士の結婚がたいへん困難で「未婚症候群」が増えている反面、いわゆる国際結婚が激増している。これは在日の未来が憂慮される深刻な事態というべきである。
「K」の第二は、「教育」の問題である。教育の問題は国家百年の大計といわれる重大問題であることは誰もが知るところである。本人の人格形成はもちろん、民族的なアイデンティティーを持つかどうかという問題は、いつにかかって教育にあるのであるが、残念ながら同胞子弟の大部分は民族教育とは無縁な、日本の学校で日本人として教育されているのである(家庭教育、学校教育、社会教育も含めて)。
「K」の第三は、「帰化」の問題である。すでに一、二世代のなかでも帰化をしている人びとは多く、民族意識の薄い若い三世代たちのなかでも、帰化を望む人たちが多くなっており、年々増加する傾向だというのである。
「K」の第四は、「国際化」の問題である。在日ということ自体が一種の国際的なことであるが、社会生活の面でも、意識世界の面でも国際化が著しく進んでいる。若い世代たちは民族とか、在日とかのカテゴリーに縛られず、それを超えてグローバルに考え、行動しようとする傾向がある。これは知的レベルが高い人ほどその志向性が強いようである。
「K」の第五は、「高齢化」の問題である。これは日本社会全体の問題であるが、特にわれわれ在日の場合は、民族性の強い一世たちがほとんど消え、それを受け継いだ二世たちまでが高齢者になりつつある。そのことはやがて若い世代の負担が重くなるばかりか、国際結婚の増加と併せて民族性がますます薄れて「ジャパナイズ」化され、在日社会がますますやせ細っていくことも意味しているのである。
以上にみた「5K」のうち、第五の「K」の当事者は古い世代(一、二世の高齢者)であるが、21世紀というそう遠くない将来に、それを支え扶養するのは、若い世代たちの肩にかかっている問題である。
このようにみてくると、在日が当面して抱えている問題は、その他にも「権利」や「経済」の問題という「K」などいろいろあるとしても、この「5K」の問題がもっとも本質的で、将来に関わる深刻な問題であり、在日全体がもっとも真剣に考え、早急にとりくまなければならない緊急な課題というべきではないだろうか。

(関西第一好縁社代表)

 

投 稿

統治体制の検証 ー歴史分野教材化の一試行ー

新田 牧雄

 1.高校では、国際社会で主体的に活動しうる日本人としての必要な資質や、生徒の発達段階、科目の専門性等々の観点から、指導要領が改善され、社会科は再編成され、地歴科と公民科が設けられた。歴史分野をみれば、専門性や系統性と選択履修が可能となるように、A・Bとされ、Aは近現代を中心に、Bは従前どおり歴史的思考力と理解力を培い、文化の伝統特色なり、複合多様性を学習させる内容となった。
勤務校の世界史授業は単位数の関係でAとBの履修となり、改訂の趣旨を踏まえて改善の具体的事項を検証し、その教材化の思考を私見も加味し一端を開陳しよう。

 2.Aの内容と取り扱い(3)に、「19世紀の世界の経緯と展開」の(ウ)に、「アジア諸国の変貌と日本」があり、Bの(2)の「東アジア文化圏の形成と発展」の(ウ)に、「中華帝国の繁栄と朝鮮、日本」があり、この線に沿って、三・一運動を教材化展開してみよう。
この運動を教材としたのは、日本の植民地統治なり政策が集約されていると思惟するからであり、今までも資料を駆使して教材化授業展開につとめてきた。
使用教科書記述は下記のようである。

 朝鮮の三・一運動 朝鮮は日本に併合されたのち、朝鮮総督府による武断統治下におかれ、人民の不満が増大していた。1919年3月1日、ロシア革命やウイルソンの十四ヶ条などの影響で日本からの独立運動をおこしたが鎮圧された。これを三・一運動(万歳事件)といい、以後の朝鮮民族運動の出発点となった。
同頁にソウル市内の女子学生のデモ写真が登載されており、
(略)この運動は全土にひろがり、日本の軍・官憲による弾圧を受け多数の死傷者をだしながらも(略)
の解説がある。
補充資料としては、1)武力によって抗日義兵運動を押さえ、2)武力を背景に土地調査事業による地税の獲得と農耕地没収等である。
朝鮮半島の植民地化は、日本の虐殺をともなう侵略(掠)行為が前提であることは言をまたない。進行展開法としては、朝鮮のジャンヌ・ダルクと呼ばれる柳寛順をも登場させる。その理由・下記事項は既習ずみであり、帝国主義政策や歴史的意義については、生徒各自で検証の糸口になるとの自負による。
1)百年戦争時19歳で魔女として火刑にされたジャンヌ=ダルク
2)7月革命時ドラクロワ画く三色旗かかげる自由の女神
3)セポイの反乱時先頭にたち、一敗地に塗れて殺害されたジャンシー藩国王妃テクシュミーバーイ
これらに共通はうら若き麗人であり、救国の先頭にたち、志気を鼓舞した等々である。

 3.帝国主義の名の下に植民地経営を国策としたのは日本のみでなく、欧米諸国は日本の先駆者であった。しかし、いまだに日本のみが怨嗟怨念をもって批判審判されつづけられるのはなぜなのか。履修後の生徒の感想文より下記の要因を指摘できる。
日本は徹底した収奪と虐殺を前提として、朝鮮文化と伝統伝承の破壊抹消を意図したが、欧米側は少なくとも共生共存の精神を考慮していた。ここに共生とは、互いに利益を得たり、一方のみが利益を得たりしながら共に生活ができ、共存とは、異質のものが共に共存したり、存在できることを意味する。これらについては下記事項で履修した。
1)第一次大戦にイギリスが参戦すると、ガンディーの「イギリス人の困苦の時にあたって」の情熱的ともとれる支配統治国への忠誠協力
2)ファン・デン・ボスによるオランダ領における強制栽培制度
これに対しての日本の場合は
1)シンボル的として威圧誇示としての総督府を景福宮と分断するような形で建てた。
2)創氏改名、神社参拝強制
3)2)と同じ強制でも虐殺酷使がまつ連行

 4.震災をはじめとする日本神話の崩壊、円高による経済大国への逆風による潰滅策、今夏大陸地域別の戦勝国・独立国の式典へのボイコット。過去に対しての日本への袋叩きは際限なく続くが、報復冷酷薄情として受けとめず、温情と解すべきなのだろう。天声人語に留学生クオン・ユラさんの言に高校・専修学校教員としてまたまた考えさせられた。「原爆の被害は悲惨ですが、もし原爆が落とされなかったら、アジアの人々の被害は増え続けたかもしれない。原爆投下は間違っていたと簡単に言えるでしょうか」。(4.18付)
悔悟謝罪したとして、果たして盟邦として名のりをあげ、手を握ってくれる民族がいるのだろうか。日本の行動姿勢に疑心暗鬼の衆人環視よりの解放、贖罪よりの脱却、同じ東アジア文化圏においてさえ孤立無援の現状より名誉回復的処遇を得るには、かねての教育より他に術はないとの主張を、改めて高言放言する次第である。

 (埼玉県立和光国際高校、蕨戸田市医師会看護専門学校)

 

投 稿

初めての祖国訪問

文 陽 子

 1995年になり、阪神大震災のような自然災害といろいろな人災により何か不安な気持ちを抱いていたのは私だけではなかったはずだ。
そのような憂鬱な気分を吹き払うような話が持ち上がった。春の気配を色濃く感じていた4月のある日、思いもかけず祖国を訪問する話が持ち上がったのだ!
祖国! この世に生を受けた30数余年、ましてや初級部から大学まで14年の民族教育を受けた私にとって一度はこの目で見、この耳で聞き、この体で感じなければならなかった祖国である。
朝銀大阪の祖国訪問団130名の一員として名古屋からの直通機でピョンヤン空港に降り立ったのは忘れもしない4月30日のことであった。
ピョンヤン空港に降り立った瞬間、嬉しさとともに30数余年の間思ってきた祖国までの距離が飛行機でわずか2時間50分の距離でしかないことに何か複雑な感慨を禁じ得なかった。
写真や映画や教科書でみたピョンヤンが私の目の前に広がっていた。
ちょうどこの時期は<平和のためのピョンヤン体育・文化の祝典>中であったので、外国人や在日同胞の姿が数多くみられた。
楽しい思い出に充ちた祖国訪問のなかで今も私の目に残り、耳に響いている二つのことがある。
一つは5万人の学生が出演した大マスゲームだ。噂には聞いていたが、実際に見るとやはり迫力に圧倒された。「百聞は一見にしかず」という言葉を実感した。
出演した5万人の学生が一体となったマスゲームを見ながら思ったのは、本当にこのようなマスゲームができるのは共和国しかないという思いであった。また、このような共和国であればどのような逆境や試練にも打ち勝てると心の底から思ったのである。
もう一つは板門店だ。考えてみれば30数余年もの間、祖国を訪問できなかったのは板門店が過去の遺物ではなく、現在も分断の代名詞となっているからである。板門店からソウルまでは自動車で30分ぐらいの距離であるという!  この30分の距離を私たちは50年かかっても埋められないでいるのだ!

 祖国訪問の間、私たちを親切にもてなしていただいた案内員の方々も忘れることができないでいる。
お金がすべてであり、消費物質に囲まれている日本では見ることも聞くこともできない純情で誠実な祖国の人びと! 幸福とか愛というのは確かに一つのパターンでしかありえないということはないのだと考えずにはおれなかった。
ピョンヤンから名古屋への帰途の飛行機の中で、いつの日かまた訪問することができるだろうかとふと感傷的な気分になった。名古屋に降り立った瞬間、私は次に訪問するときは統一なった祖国の地を踏みしめるべきだと強く思った。

(国際高麗学会会員)

 

投 稿

祖国を初めて訪問して

都 知 美

 私は、在日同胞三世である。自らが「在日韓国・朝鮮人」だと自覚し始めてわずか6年だ。阪神地域でもあまり同胞居住数が多いとはいえない伊丹市の中で、なおかつ市内の同胞地域からかなり離れたところに居住しながら、保育園から大学まで日本の学校に通い、圧倒的多数の日本人に囲まれながら生活していた。自分が「日本人とは違う」と感じる機会といえば祭祀(チェサ)を行うことぐらいで、民族についてはほとんど何も知らない、無関心な在日三世だった。
そんな私が大学に通い始めて、「民族的に生きる」ということを私なりに理解し始め、「在日であるということ」が自分の生き方の根の部分になりはじめた。その後、一度は行ってみたいと思っていた祖国に足を踏み入れる機会となったのは、母親との観光旅行であった。「ウリマル」をうまく話せない自己の力量不足に自信喪失していた私は、阪神大震災があって心身共に滅入っていた母親と、「気分転換」として旅行に出かけた。
現在、私の25年間の「祖国」に対する距離感から比べると関西空港から飛行機で約1時間20分程度という近さは、何か妙な気分であった。金浦空港についた瞬間、鶴橋の朝鮮市場のようなにんにくの匂いが私に親近感・安心感を与えた。2泊3日という短いソウル滞在だったが、私にとってとても印象深かったことを二つ挙げたい。
一つは市内観光で行った、景福宮の前に立ちはだかる日本帝国主義の象徴「朝鮮総督府(現在の国立博物館)」だ。この建物が取り壊されるということをガイドの方に聞きながら、なんとも複雑な気分になった。日本の戦争・戦後責任がないがしろにされている状況で、新しい韓日関係を構築することは、至難の業である。それを無視して韓日関係の発展はありえないといえる。韓国国内でも賛否両論らしいが、個人的には日帝の侵略行為に対する謝罪をするまでは取り壊してほしくないという思いが強かった。
もうひとつは、観光時に付き添ってくださったバス運転手のアジョシと市内で乗ったタクシー運転手のアジョシたちだ。私の下手なウリマルを必死に聞いて、やさしいウリマルで話してくれたアジョシたちの話は、私が日本で少しかじった韓国現代史の歪み(問題)を実感させた。貧富の激烈な格差と労働者の低賃金の話である。韓国は2、30年前に比べると驚くべき経済発展を遂げたが、本当の意味でその利益を享受すべき下位層の労働者たちの待遇は、その日の食事さえままならないとまではいかないが、日本に比べると雲泥の差だ。
とても否定的な印象ばかりだが、全般的には本当に楽しい祖国への旅行だった。南大門市場でのにぎやかな買い物(ここではウリマルが少し役立った)、買った本を日本へ送るための小包をいっしょに作るために包装紙を買いに奔走してくださり、重い本の箱を郵便局まで運んでくださった延世大学校の学生の方、そのほかいろんな感動に出会った3日間だった。滞在期間の短さに歯がゆさと後悔を感じながら日本へ帰ってきた。「また、もう一度!」という期待を込めて、いずれは南北が統一された祖国にぜひ行ってみたいと思う。

 (国際高麗学会日本支部事務局員)